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BBDレビュー2/ブラックボックスダイアリーズの疑問を独自取材してみた

 

速水由紀子


 2月7日、新宿キノシネマで2回目の鑑賞。
 たった1館だった上映が今や70館まで増えている。もともとのこの事件への関心の強さがSNSやレビューの口コミ力で顕在化され、ここまで客足が伸びたのは素晴らしいことだ。
 私は前回、曖昧だった伊藤さんの言葉を確認し、いくつか出てきた疑問点をチェックするために再び同じシアターを選ぶことにした。
 朝から凍えるように寒く一時は粉雪が舞ったが、客席はほぼ満員。しかも前回は8割が女性だったのに、今回は男女の比率が半々でしかも40代前後の若い世代も増えている。この映画に男性の鑑賞者が増えるのは、さらに公益性に繋がると考え、最後に1人で来ていた男性に取材も試みた。

 手元も見えない暗闇の中で、隣りの人に迷惑がかからないようメモを取るのは至難の技だったが、なんとか欲しかった情報を記録できた。2回目はこちらに情報がストックされている分、1回目と違うものが見える。


🔽目的1 「ジャーナリストとして」の真意



今回の最初の目的、伊藤さんの「ジャーナリストとして・・・」という下記の言葉を掬い取ることだった。前回はかなり曖昧だったので一旦消し、またここに復活させる。(完全ではない。大意、ということで)


これまで生きて何とかやってこれたのは、ジャーナリストとして事件を客観的に見てきたから。でも被害者に戻ってしまったらとても耐えられない。まだ自分と向き合えていないと気づいてしまった。


 私は伊藤さんが著書「ブラックボックス」の中で過剰なほどこの言葉を使っていたことに対して、どうしても腑に落ちなかった。ありのままテレビ局の報道インターン志願と書いてくれたら、もっとずっと抵抗なく読めただろだろう。現実はそうだったし、その方が伊藤さんのポジションがわかりやすく呑み込めたと思う。
 だが「ブラックボックスダイアリーズ」は「日記」という体裁を借りているため、「ジャーナリストとして」という気構えが、後ろ盾が何もない伊藤さんの最大のプロテクターだったのだとわかるように構成されている。そこも山崎エマさんの編集の巧妙なところだ。
 私にとってこの言葉は、等身大の伊藤さんを理解するもっとも大切な言葉だった。
 一人の被害者に戻ってしまったら、とてもこの状況に耐えられないし闘えないけれど、「ジャーナリストとしてやらなければ」「ジャーナリストだから頑張ろう」と自分を鼓舞することで一歩ずつ乗り越えてきた・・その気持ちはよくわかる。
 ジャーナリストという肩書きを意識する限り、自分への加害に向き合う時でさえ公益性に対する責任が肩にのしかかる。だから個人では到底越えられない崖も、なんとかよじ登ろうと必死になれるのだ。が、ふと個人に戻るとそのエネルギーが削ぎ取られ無力な自分に呆然となってしまう・・・。
 だから「ジャーナリストとして」は伊藤さんにとって手放せない、必須の武器のようなものだったのだろう。


🔽目的 2 西廣弁護士への質問


 2つ目の目的は西廣陽子弁護士への質問状だ。
実は去年2月20日、西廣弁護士が日本外国特派員協会で発表した伊藤さんへの抗議文とその発表方法が、どうしても納得いかなかったため、西廣弁護士のスタンスを確認したかったのだ。内容だけでなく発表の仕方も元代理弁護人としての立場を逸脱していると思った。


 もちろん西廣弁護士が自分の電話のシーンをカットして欲しいというのは、個人的なプライバシーの尊重として納得できる(現実的に可能かどうかは別として)。しかし公開前日にホテルの防犯カメラのシーンをカットせよというのは、映画の屋台骨を叩き割り公開をストップさせろと抗議するのに等しい。
  なぜプロデューサーや製作委員会と話し合う時間がもてなかったのか?

https://www.tokyo-np.co.jp/article/387058

 西廣弁護士は伊藤さんに依頼された代理弁護人で、山口氏の訴訟問題をめぐって伊藤さんを法的に守り、法的作業を行うのが役割だった。
 前回のnoteでは西廣弁護士の抗議も無理からぬ背景がある、とは書いたものの、「代理弁護士としての法的な立場を壊されホテルとの約束を覆された」というだけでは上映前日、日本外国特派員協会で抗議文を発表する理由にはならない。
 しかもこの抗議は明らかに元代理弁護人の業務領域を飛び越えるもので、「映画の公開妨害」と受け取られるのも仕方ないと感じられた。

紀藤正樹 MasakiKito 弁護士 @masaki_kito は昨年2月25日、この件について産経新聞のインタビューをXにポストしてこう述べている。

「(弁護士は)依頼者の辛さ弱さをすべて引き受ける職業です。正当な法的批判を超え公の席で愚痴や感情をあらわにすべきでないと思います>「なんてみじめなのか」「つらさにつぶされそう」伊藤詩織氏元代理人の西広陽子弁護士「ルール、モラルを守るべき」映画に倫理的懸念指摘

sankei.comから
午前11:09 · 2025年2月21日
·
これに対して35万のRTがあった。
 
 
私もこの意見に共感する。
 そこで西廣弁護士の所属する事務所に、質問状を送り、ご本人に直接聞いてみたいと考えた。


🔽私が西廣弁護士に送った取材依頼の文面


・・・(中略。以下大意)

 伊藤さんが山口氏を訴えた訴訟問題に関する法的業務と、ブラックボックスダイアリーズに使われた西廣さんの電話シーン、ホテルの防犯カメラのシーンなど動画の使用許可を巡る問題は、別々の法的論理に属していると考えます。
 もしこの時期、後者の問題を訴えるならば、映画の製作委員会や配給元が抗議の優先順位として先だったのではないでしょうか。
 2月20日の抗議文は、西廣さんのお気持ちとしては充分に理解できるのですが、どちらも一つのものとしてまとめられ方をしている点に大きな違和感がありました。
 また監督としての伊藤さんの手法に感情的な批判要素も窺え、こちらについても伊藤さんの元代理弁護人としての立場と、伊藤さんが監督した映画の内容を巡る法律的な許可という異なったアプローチの問題解決が必要だったのではないかと思っています。
 この辺をお会いして、お話をお聞きすることはできますでしょうか?

 西廣弁護士は抗議文に、2点の外せないポイントを書いている。
 ひとつは8年半、代理弁護人として尽力した伊藤さんが自分を疑い、隠し撮りをしていた事実に大きな衝撃を受けた、ということ。それに加えてその動画を弁護士たちと伊藤さんが心理的に決裂する場面に使っていたことへの感情的な辛さ。
 (私はこのシーンに関しては、2回見てもどこなのかはっきり分からない。もう一度見る必要を感じている)

 2番目はホテルの防犯カメラの映像を許可なく使用されたことへの、弁護士としての抗議だ。裁判以外に一切使わないことを誓約してようやく、当該映像を裁判所に提供してもらったのに、それを破ることは代理弁護人として容認できないというものである。
 前者は多分に西廣弁護士の感情的な衝撃や悔しさが窺えるもので、後者はホテルとの防犯カメラ映像の使用同意が取れていないことへの法的な抗議である。だが私には前者の感情的な問題が、公開前日、日本外国特派員協会での抗議文発表という過激な形での反発に暴走したように思えたのだ。
 
 この文面を西廣弁護士が当時、所属していた法律事務所に送ったが、「残念ながら多忙のため取材は受けられない」旨、返事をもらった。また、その後いくつか職場を変遷して昨年3月から外部監査役として所属した企業にも送った。

 西廣弁護士が伊藤さんの担当になったのは上の記事にあるように、被害者の電話相談会に伊藤さんが直接、電話をかけて依頼したためだ。こうした事情からタイミング的には以前の法律事務所に所属していたが、当時の上司、パートナー弁護士の指示を受けて担当になったわけではない。
 昨年2月20日の抗議については西廣弁護士が自らの裁量で判断し、独断で行われたということだろう。また当時の西廣弁護士の役職は、最高裁判所刑事規則選定諮問委員会幹事で以前の事務所とは完全に離れている。だから「元弁護団」という立場で抗議を行なったと思われる。
 
 また上の質問状に書いた通り、訴訟事件の代理弁護人の業務と、映画制作や興行に関わるトラブル対策などは別のルートに属する作業となることが多い。後者は主にエンタテインメント系に強い事務所の弁護士が行う。
これを確認するため、西廣弁護士が現在外部監査役として所属している企業に、昨年2月に日本外国特派員協会で配った抗議文が代理弁護人として妥当なものだったどうかを問い合わせた。
 しかしこれについても以下のような「対応できない」との返事をもらった。

西廣陽子氏につきましては、弊社事業に関する監査役(社外)として
従事いただいておりますので、事業の範囲外の事項につきましては、
弊社では対応致しかねます。

直接、問い合わせるという方法は挫折した。西廣弁護士に伊藤さんについて、またBBDについてのインタビューを受けるという可能性はゼロに近くなったのである。

🔽その3 伊藤さん自身にも矛盾はある

 そして今回、見えてきたのは伊藤さんと周囲のアクティビティを支える動きが必ずしも一致しておらず、時に矛盾しているということ。
 伊藤さん自身も「ジャーナリストとして」と自分を励ましながら数々の矛盾を抱えつつここまできたのだと痛感している。
 まず一つ目は伊藤さんの「私はプロバガンダにはのらないし、フェミニストでもないし」(申し訳ないがこれも細かい言葉は記憶が曖昧だ)という言葉だ。
 これに対して出版社の編集担当が「ブラックボックス」を出す時期について「選挙が近いから、早くこれを出して何らかの影響を与えたい」(大意)と校正のスピードをはやめることを求め伊藤さんも同意している。
つまり「ブラックボックス」の発売が選挙に影響することをagreeしているということだ。

 それ以前に、伊藤さんが安倍総理と密接な関係にあった山口氏に米国での報道インターンの仕事を頼んだことに、首を傾げる人もいるかもしれない。伊藤さんは長年、米国や欧州にいたために日本の政治状況やメディア就活状況がよくわかっていなかったとも考えられるが・・。または山口氏は完全に政権よりでも、TBSの海外インターンやワシントン支局の仕事はニュートラルと考えたかもしれない。BBDの中でも山口氏と飲む前に「ワシントンの仕事が政治寄りなのか聞きたかった」と言っていた。

 山口氏は社会部、政治部記者上がりで、2013年から15年までワシントン局長だった。2015年週刊文春4/2号に韓国軍慰安婦に関する米公文書の存在について記事を発表したことがきっかけで、4月23日ワシントン支局長を解任され報道局から営業局へ異動となった。
 伊藤さんとの問題はこのトラブルでワシントン支局長を解任される前の、4月3日、4日の一時帰国中に起こった。おそらくこの時は山口氏もまだ解任、営業部への移転など考えてもいなかったのだろう。
 ワシントン支局長というのは新聞やテレビなど報道部の中で政治部トップ級の人材がつく要職で、この時の山口氏は総理に最も近いエリート報道部支局長という、輝かしいポジションにいたのである。

「ブラックボックスダイアリーズ」の中でも、政権や政治家への批判や特別偏った言葉はなく、むしろ映像の構成で安倍政権の命運がドラマチックにインサートされていることで、欧米のドキュメンタリー的な社会連鎖を感じさせた。この映画は伊藤さんの熱意を支えるエリックさん、山崎さんらのプロフェッショナルな俯瞰が、むしろ当時の日本社会の特殊ともいえる権力構造を浮き彫りにしてくれたのだと思う。ここもBBDがドキュメンタリーとして優れている点の一つだ。

事件を客観的に見ることでさらに公益性が増す

「ブラックボックスダイアリーズ」を見てレビューを書いたり周囲と語り合うことは、イコール伊藤さんの支援側につくと宣言することではない。
現に私も伊藤さんと面識はないし、サポーターでもない。
 ただ公益を共有するウォッチャーでありたいと思っており、いつか機会があればインタビューもしてみたい。

 BBDが社会的にも重要な作品である理由は、さまざまな理由がある。
観客はこの事件を客観視する知識を持つために現実の事件を学び、日本での性加害がどんな風に立件されるのか、訴訟相手が社会的地位が高く権力を持つ場合、どうなるのかを知る稀な機会として見るだろう。
 日本では性加害された女性は表に立って加害を訴えると「損をする」という考え方がずっと主流だった。
 今も世界に向かって声を上げた伊藤さんにどんな結果が待ち受けているか、固唾を飲んで見守っている、というのがおそらく多くのウォッチャーの正直なところだろう。
 しかし、この映画の上映が日本人の一般的な感覚を「伊藤さんのことがよく分からない」から「映画を観てよかった。日本社会のことを考えるようになった」に変えつつあることは確かだ。
 「声をあげると損をする」としていたのは、既成社会が作り上げてきた既得権益を守るための無言圧だと、多くの人たちが気付きつつある。

 伊藤さんの父親でさえ顔出しの「ブラックボックス」の出版に反対し、普通の結婚をして普通に幸せになって欲しかった、と強く止めたという。父親ももちろん、既成社会の理不尽な圧力を充分に理解していたのだろう。

 それに対して伊藤さんは「沈黙は私にとって幸せではない」と言った。

伊藤さんの意識には社会へのアンチテーゼとして明確にプログラミングされていなかったにしろ、この言葉には本質的なフェミニズムが潜んでいる

 人間の尊厳に得も損もない。
本当のことを言ったら女性としての幸せを失うなんて、そんな馬鹿げたことはあり得ない。
 しかし日本では長い歴史の中でこうした強烈な同調圧力が女性たちの言動をセーブしてきた。女性は入籍という儀式によって夫の血族に帰属し、保護され、扶養される。しかし顔出しをして訴訟を行うことでその権利を失う、というような、誰も明文化していない村の掟的なものだ。

「ブラックボックス・ダイアリーズ」はこの日本の息苦しい女性への圧迫を見事に浮き彫りにして、それを裏返してみせたのだ。
 これも新しい意識改革への一歩だった。

 もう一つの進化。映画の中で伊藤さんは一貫して「かわいそうな被害者」などを演じようとなどしていない。それは女性ならはっきりわかることだ。もっと150パーセントの支援を得る方法はいくらでもある。白いシャツとネイビーのスーツを着てはしゃがず俯き加減で、ギャルのノリはやめて、わかりやすくテンションを落とす。それが一番、支援しようとする日本人を説得しやすい。だが伊藤さんは友人との会話で時に学生時代のギャルになり、留学時代のハイテンションのノリになり、日本社会の同調圧力に毒を吐き、自分らしさを全開にする。
 そして2冊目の著作は「裸で泳ぐ」(岩波書店)。
これについてはまた後日、触れたいが、ADHDや性的関係の結び方など、性暴力の訴訟で争っている「被害者の立場」を考えたら、さまざまな理由から削ぎ落とされがちな内容が何本も収録されている。つまりタイトルの通り、世間的な視線で「被害者」の立場を取り繕うことを拒否しているのだ。

 口うるさいSNSのアンチたちは、「伊藤さんって変な人」「なんであんな服を着るの?」「どうしてあんな話し方をするの?」と姑のように「社会的に個性を強調しないこと」を求める。これは目立つことを何よりも恐怖し「普通」しか許容しない人々が、伊藤さんの立場で目立つ言動をすることに日本的な嫌悪や畏れを覚えるだけで、一種の「出る杭」叩きである。
 この「出る杭」叩きによってどれだけ多くの優秀な男女人材が、日本から海外に流出しているか分からない。特に各分野で羽ばたく力を持つ才能ある女性たちは、国内で苦闘したあげく諦めて海外への道を選ぶ。
 伊藤さんはどんなに自分に跳ね返ってくる反発が強くても(コスパが悪くても)、社会の視線を気にせず個性を貫いている。損か得かは関係ない。
 そういう意味でも伊藤さんは「ブラックボックス・ダイアリーズ」でリアルなフェミニズムもはっきりと見せつけてくれたのだ。
 これも、社会的にとても大きな公益である。

🔽男性観客の増加と彼らの声

 キノシネマの劇場スタッフによると、公開後かなり時間が経っているのに土日はほぼ満席、平日も毎回30人前後は入っているとのこと。
5階の奥は様々な資料や記事、写真が貼ってあり、「ブラックボックスダイアリー・ルーム」といった感じで、それを鑑賞の前後見ながら語り合う人たちも多かった。
 
 最後に今回、半数以上が男性客だったため、何人かにインタビューを試みたが、印象的だったのは観賞後、ロビーに座って映画についての考えをまとめていた42歳の会社員Mさんだ。

「自分はもともとフェミニズム寄りの立ち位置だし、この事件には強い関心があってどうしても見たかった。忙しくてこんな時期になってしまったが、男性客が多くて驚いた。この映画はドキュメンタリーではあるが、それ以前に伊藤さんの日記だということを考えながら見ていた」
 
 最も強く感じたのは、登場するメデイア人たちへの違和感だったという。

「元警察庁長官、中村格氏にダイレクトに聞きに行こうとアイデアを話す伊藤さんに対して先輩ジャーナリストたちは、そんなことは考えもしなかった、それは一番最後でしょう?、と驚きを露わにする。彼らはプロだからそれが不可能だと考えたのだと思うが、自分ならやはり伊藤さんと同じように最初に聞きに行きたいと思うだろう」

 中村氏が山口氏の逮捕を止めたのなら、最初に本人に聞くのが妥当だという考え方だ。だが記者クラブ制で取材を規制された日本のメディアの記者たちには、こうした発想は生まれてこない。
 正直、ヒール靴の伊藤さんやスーツ姿の弁護士たち、カメラマンを交えた5人以上のチームで中村氏の正門前に走る突撃作戦は、私にもかなり現実離れしているように見えた。が、呑みや食事、ゴルフといったプライベートの時間を狙う日本的な取材は、この映画の脚本としてはさらに非現実的なのだろう。

Mさんに職場や友人との付き合いの場で、この事件や映画について話し合うことがあるかを聞いてみた。
「僕は周りにほとんど友達がおらず、せいぜいSNSに感想を投稿するぐらい。職場でこういう映画について語る機会もないが、できれば話す機会が欲しい」

 またやはり1人で来ていた50代の男性は「映画好きな女友達を誘いたかったが、この作品はデリケートな問題を扱っているので躊躇した。予想していたよりしっかりした構成で、伊藤さんの実名での世界に向けた訴えが、日本の性暴力事件の転換点となったことを突きつけていて色々考えてしまった。もっと上映館数を増やしてほしい」と話す。
 男性客が1人で来にくい作品という先入観を破り、少しずつ事件への関心の男女差が低くなっていることも頼もしく思える。
 
 私は今回、自分の中にどれぐらい「被害者像」への偏見がこびりついていたか、BBDによって教えられた。またBBDが公開されるまでの様々な問題が、既存の日本社会から脱皮すべき多くの問題をここまでシリアスに教えてくれるとは。
 この映画の公益性は計り知れない。
今後もこの作品が日本の歴史の中で女性の生き方の何を変え、これから何を変えていくのか、考察としても書いていきたい。

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