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【創作大賞2026エントリー作品】 間合いの外側 #01

■ あらすじ

母の形見でもあった愛車GPZ900Rが盗まれた日、朝倉千紗は大切なものを失った。
それは一台のバイクだけではない。
亡き母との記憶、父との距離、そして自分自身の居場所。
言葉にできないこころを抱えた千紗と、想いを伝えることが苦手な父。
家族の不在が残した空白を前に、人はどう生き直すのか。
福岡を舞台に描く、喪失と再生の物語。


■ プロローグ

あれから3年が経った。
朝のルーティンを終えた千紗は久しぶりに愛車で遠出をしていた。
Kawasakiのフラッグシップ、H2SX SE。

南登山道から草千里へ続く勾配のあるワインディングを、容易く駆け登っていく。
坊中野営場を過ぎると視界が開けた。初夏の草原は青く、どこまでも続いている。

丘の上には草原を眺めるように、一頭の牛が風をうけながらたたずんでいる。

吹き抜ける風が心地いい。

スロットルを少し握ると、蹴り上げるような加速と共に、ヘルメット越しに独特の過給音が届く。
身体の動きに機械が精密に反応し、ずれることなく繋がる一体感。

あの頃とは、違う。

それでも、ときどき思い出す。

あの頃には届かなかった、
あの一歩。

少しすると、鮮やかな緑に覆われた草千里が見えてきた。

千紗は、少しだけ減速した。走り続けることもできたけれど、今日は一呼吸入れる。

帰路には、吾亦紅の蕎麦が待っている。

その前に、あと少しだけ。
千紗は愛車のエンジンを止めた。


■ 第1章 不在

日曜午後の駐車場は、妙に静かだった。
9月も後半の薄曇りの空の下、コンクリートに残っていた熱だけが、ゆっくり抜けていく。
街の喧騒も人々の気配も、直ぐそこにあるはずの音だけが、不自然に遠くにあった。

千紗が戻ってきた時、そこにあるはずの愛車、GPZ900Rの姿がなくなっていた。
最初は、場所を間違えたのかと思った。
天神に程近い、いつも停めている寺社経営の駐車場。
来る前にも、確かに確認したはずだった。  
でも姿が、ない。

腹の奥が、ゆっくり冷えていく。
視線を落とした駐車場の隅には、見慣れたヘルメットが転がっていた。
ストラップは切られバイザーは傷だらけ。
チェーンロックは無残に破壊され、蟠を巻くように放置されている。
ただ冷めた視線で、それを見やっていた。
――盗難。
ここにきて、遅れてその二文字だけが浮かんだ。

GPZを最後に見たのは今朝。
珍しく時間の取れた日曜日、約束していた親友の利世との待ち合わせまでは時間もあり、久々に愛車で少しどこに行こうかと考え、ひとまず志賀島まで走って戻ってきてから利世と会う事にした。
朝の空気は爽やかになり、箱崎を抜けて海沿いに出たあたりから気持ち良い風がジャケットの首元から入ってきた。
GPZのエンジン音は安定して低く唸り、走り慣れた道の上で、いつも以上に快調に思えた。
志賀島を左回りで周回し、島の出口でエンジンを切ってコーヒーを飲んだ。
甘すぎる缶コーヒーはホットでもよかったかもしれないと、少し後悔した。

視界の向こうに広がる海岸線では、ウミネコ2羽が防波堤の上で喧嘩をしていた。
それを、ただ眺めた。

甘すぎた缶コーヒーを飲み終え、そこからは海の中道から箱崎に抜け、都市高沿いを走って天神に向かった。

利世との待ち合わせ場所からもほど近く、防犯設備も整っていることもあり、いつもの駐車場に止めることにした。
いつも通り、今日も防犯カメラから見える場所を選んで駐車した。


「朝倉さん、少し話を聞かせてもらえますか」
警察官に声をかけられ、ようやく千紗は我に返った。
警察官が何人か来ていた。
何かを測り、何かを記録し、短く言葉を交わしている。
すぐ近くで起きているはずのことが、テレビで見る出来事のように思えた。

千紗は駐車場の隅に転がる、ヘルメットとチェーンロックの前に立ったまま動けなかった。
警察官に色々と聞かれたが、自分が何を話したのかはほとんど覚えていなかった。
待っている間に警察官との話は終わり、事件番号の書かれた紙を渡されていた。
見つかる可能性については絶望的、海外輸送される可能性が高いとの言葉だけ覚えている。

父の圭吾が来てくれたのは、それから40分ほど過ぎた頃だった。
駐車場の端、輪止めに座ったまま動けなくなっていた千紗の前に、車が止まる。
ドアが開いて、圭吾が降りてきた。
「怪我は」
「ない」
短い確認だけだった。
圭吾はそれ以上何も言わず、ヘルメットとチェーンロックの前にしゃがみ込む。
少しの沈黙のあと、
「……切られとおな」
それだけ言った。

車に乗り込んでからも、会話らしい会話はなかった。
窓の外には、いつも通りの天神北の雑踏と、多くの人たち。
何も変わっていない景色だけが流れていく。

しばらくして、圭吾がぽつりと言った。
「守れんやったな」
圭吾はそれ以上、何も言わなかった。
「…別に、大丈夫やけん…」
そう言った自分の声が、まだ少し遠かった。

なにも大丈夫ではなかった。
でも、それ以外の言葉が見つからなかった。
信号待ちで止まったとき、前の車のテールランプが赤く光った。
その光を見ながら、千紗は思い出していた。
父と母が、あのGPZで出かけるのを見送った、まだ小さかったあの頃を。
元気よくタンデムシートに乗りながら手を振ってくれた、生前の母の笑い声を。
もう、戻らない。
そう思った瞬間、視界が一度だけ滲んだ。

唐人町にある祖父の慎吾邸の古い居間では、季節を先取りしてこたつに火が入っていた。
圭吾は警察で確認があると出掛けていた。
利世はすでに来ていて、千紗の顔を見るなり
「チー…」
萎縮しながら話しかける。
「関係ない」
「でも」
「…関係ないって、大丈夫やけん」
千紗はこたつに入ってうつむいた。

誰も何も言わなかった。
慎吾が台所でお湯を沸かす音だけがしていた。
しばらくしてから利世が千紗の横にそっと座り、何も言わずに肩に軽く触れた。
千紗は顔を上げなかった。でも少しだけ、肩の力が抜けた。

「ホント大切やったけんね、あの子…」
誰に向けた言葉でもなかった。
その後利世は、黙って千紗の様子を伺っていた。

慎吾が3つの湯呑みをお盆に乗せて戻ってきた。


千紗の祖父、慎吾の家の鎮まりかえった玄関先には、行き場のない沈黙が溜まっていた。

慎吾から連絡を受けた時、利世は自宅机の前で動けなかった。
『盗られたげな。あの子、天神におった時分に』
慎吾の短く、湿った声。

天神に誘ったのは、自分だ。
千紗の日常に「隙」を作らせたのは、他ならぬ自分だった。
利世は、引き出しの隅に置かれたシルバーのバンスクリップを取り出して掴んだ。
金属の冷たい塊が掌に食い込む。

千紗の母、智恵がポニーテールを切った日に使っていたシルバーのバンスクリップ。

利世の隣で、千紗はまだ、折れた竹刀のように小さく丸まっていた。
俯く背中に、謝罪の言葉は届かない。謝れば、自分が楽になるだけだ。
利世はそれを許さなかった。

6年前。
この家の縁側で、智恵はこのシルバーのバンスクリップを利世に託した

『利世ちゃん。あの子が自分自身の弱さに耐えられなくなるような日が来たら、私の代わりに、あなたがこれで、あの子を留めてあげて。』

そういって手渡された冷たい金属の塊は、強力なバネの抵抗を指先に返した。
あの時の智恵は、自分がいなくなることを知っていたのだろう。

利世は、千紗から視線を逸らした。
誘った自分への罪悪感を、智恵から引き継いだ「戒め」の重さで塗りつぶす。
――パチン。
硬質な音が、湿った夜気を切り裂く。
乱れた髪を強引に束ね、バンスクリップを噛ませた。頭皮を強く引っ張る痛み。
それが、今の利世には唯一の、自分を「後継者」へと繋ぎ止める楔(くさび)だった。
「……いつまで、そうしとうと?」
利世の声は、自分でも驚くほど冷徹に響いた。
俯いたままの千紗の肩が、びくりと跳ねる。
「無くなったもんは、もう戻らんけん。チーがどれだけ泣いても、バイクは帰ってこんとよ」
抱きしめたい衝動を、バンスクリップのバネがギリギリと締め上げる。
姉になる、ということは、寄り添って共に泣くことではない。
絶望の間合いを見極め、強制的に一歩を踏み出させることだ。
「立ちなさい。チー」
振り返りもせず、利世はキッチンの方へと歩き出した。
うなじに食い込むクリップの重みが、一歩ごとに「智恵の弱さ」と「自分の責任」を、質量を持って伝えていた。

#創作大賞2026
#エンタメ原作部門


先にアップした2作の本編が本作になります。


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