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にせ預言者『良い木と悪い木のたとえ』

イエスのたとえ話シリーズ No.10
「良い木と悪い木のたとえ」

2024年8月25日

マタイによる福音書7:15-23

7:15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
7:16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
7:17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
7:18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
7:19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
7:20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

タイトル画像:HansによるPixabayからの画像


はじめに


今回紹介するイエス・キリストのたとえ話は、マタイによる福音書7章15節から23節に記されている「良い木と悪い木のたとえ話」は、人間の本質と信仰の本質を鋭く描き出しています。このたとえ話では、イエスが偽預言者への警告から始め、木と実のたとえを用いて人の内面と行動の関係性を説きます。さらに、単なる言葉ではなく行いの重要性を強調し、最後の審判における真の信仰の意味を示しています。

この古代の知恵は、現代社会においても人間性を見極め、誠実な生き方を追求する上で深い洞察を与えてくれます。このたとえ話を通じて、私たちは信仰と行動の一致、そして真の人格の形成について、重要な教訓を学ぶことができるでしょう。

物 語


イエスは弟子たちと群衆に向かって次のように語りました。

「偽の預言者たちに注意しなさい。彼らは羊のように見えて、実は貪欲な狼です。彼らを見分けるには、結ぶ実を見ることです。良い木は良い実を、悪い木は悪い実を結びます。良い実を結ばない木は切り倒されて、火に投げ込まれます。

『主よ、主よ』と口で言うだけでは天の御国に入れません。天の父の意志を行う人だけが入ることができるのです。最後の審判の日、多くの人が『主よ、私たちはあなたの名によって預言し、奇跡を行いました』と言うでしょう。しかし、私は『不法を行う者たちよ、離れなさい』と答えるでしょう。

大切なのは、口先だけの信仰ではなく、神の意志に従って生き、良い実を結ぶことです。」

偽預言者に注意すること


マタイによる福音書7:15
にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。

さて、前置きは長くなりましたが、今回のたとえ話の冒頭で、「にせ預言者」に注意するようにとイエスは語ります。「にせ預言者」(ψευδοπροφήτης ピュードプロフェテース)は、聖書において重要な警告の対象とされています。この言葉は、「偽り」を意味する プシューデース と「預言者」を意味する プロフフェーテース から成り立っており、主の言葉を語るふりをしながら、実際には詐欺師や偽善者として振る舞う人物を指します。彼らは、羊の皮を被った狼のように、巧妙な印象操作によって自らが主に任命されたかのように装います。

しかも、「にせ預言者」は本物の教師と見分けがたいがために、多くの人が騙され、欺かれてきたという歴史があります。

イエスは弟子たちに偽預言者に注意するよう警告しています。これは、前節の14節に書かれている通り、人々が狭い道を見つける際に、誰を導き手とすべきかという問題に関連しています。

マタイによる福音書7:14
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

多くの人が、にせ預言者に助けを求めますが、実際には人々を彼らが逃れようとしている破滅へと導くだけです。

「羊の皮を被って」という表現は、狼が羊の群れに忍び込むために羊に扮する比喩を用いています。これは、ヨハネの福音書10章12節や使徒の働き20章29節を見ると、その姿がより明瞭になります。

ヨハネによる福音書10:12
牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。

使徒による働き20:29
私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。

にせ預言者の問題は、イエス・キリストの時代だけでなく、旧約聖書のイザヤやエレミヤの時代にも存在し、将来も再び現れるだろうと預言されています。真の預言の賜物には常にその偽物が付きまとうのです。イエスが語っていた当時も、ガリラヤ人のユダやチュダなどの民衆指導者の影響が人々の記憶に新しかったことが示されています。

使徒の働き
5:36 というのは、先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどありましたが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました。
5:37 その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。

この警告は、外見は善良に見えても内面は貪欲で危険な指導者たちに対する用心を促すものです。真の導き手と偽りの指導者を見分けることの重要性を強調し、信仰者たちに慎重な判断を求めているのです。

初代教会の時代から、このような偽りの奉仕者を見破り、暴露することの重要性が説かれてきました。彼らを放置することは、教会の健全な成長と伝道の大きな妨げとなるためです。

現代のにせ預言者

現代において特に注意すべきは、バランスの取れた教義や真の弟子訓練を軽視し、単に「キリストを称える」だけの「リバイバル」集会です。

また、聴衆を魅了する話術や舞台映えする姿勢を持ちながら、実質的に空虚なメッセージを伝える説教者に中心的な役割を与えることは、キリスト教会の深刻な過ちとなります。このような「エンターテインメント的」に人々を誘導することは、真の弟子訓練を促進せず、むしろ「自分を祝福してほしい」という欲望を助長してしまうものです。

清教徒革命から王政復古期のイングランドの聖職者であり、穏健カルビニズムの思想を持つリチャード・バクスターは、「聴衆を笑わせたり、くすぐるような軽薄さで心を動かしたりする説教は、神の御名に対する聖なる畏敬の念を抱かせるのではなく、舞台劇のような効果しか与えない」と警告しています。真の神の奉仕者は、御言葉そのものを宣べ伝えるべきなのです。

終末時代のにせ預言者

終末時代には、にせ預言者の公的な「働き」が最も顕著な兆候の一つとなるでしょう。黙示録に描かれる偽預言者は、リベラルなローマ・カトリック、リベラルなプロテスタント、東洋の宗教などを「超エキュメニカルな教会」に統合する世界的な宗教指導者として登場すると考えられています。

黙示録17:1-5
17:1 また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。
17:2 地の王たちは、この女と不品行を行い、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」
17:3 それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。
17:4 この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。
17:5 その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」という名であった。

このにせ預言者は、一見すると穏やかで無害な羊のように見えますが、実際は角を持つ殺し屋であり、反キリストの代弁者としてサタンの意図を推進します。彼は、確立された「エキュメニカルな」教会やその関連組織を利用して、反キリストの政治的アジェンダを推進すると考えられています。

このような偽預言者の出現は、七年間の患難時代の始まりを示す最も重要な「預言的なマイルストーン」となる可能性があります。つまり、真の聖書的一致を犠牲にして「世界的な宗教」を構築しようとする人物の登場が、その兆候となるのです。

初期教会の教父たちも、終末時代には教会が文字通り七年間の患難を経験し、その間に偽預言者と反キリストが台頭して世界を支配すると信じていました。彼らの解釈によれば、偽預言者は反キリストの盾持ちとなり、魔術と欺瞞によってその道を準備するとされています。

このように、偽預言者の概念は聖書的な警告として重要な位置を占めており、信仰者に対して真の御言葉と偽りの教えを見分ける洞察力を養うよう促しているのです。

その目的

聖書に登場するにせ預言者たちの目的とはどういったものかといいますと

  1. 真の信仰から人々を引き離すこと

  2. 自己の利益のために人々を欺く

  3. 人々を利用するために誤った教えを広める

  4. 人々を利用することで、自分の権力や富を得る

  5. 真の神の代わりに偽りの神々を崇拝させる

宗教的指導者の中には、聖書が警告するように、人々を真の信仰から離れさせ、自己の利益を追求する者がいます。これは古代から現代に至るまで続く課題です。

現代社会においても、一部の新興宗教団体や異端は当然としても、伝統的な教会の中でさえ、このような傾向が見られます。特定の指導者に過度の権力が集中したり、教義が歪められたりすることで、信者の方々が本来の信仰の道から逸れてしまうばかりでなく、国家を揺るがすような事件へと発展している現実が、残念ながらこの日本もそうですが、世界中にあって現在進行形として進んでいることです。

実を見なさい


7:16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
7:17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
7:18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
7:19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
7:20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。

イエス・キリストは、この世界にサタンの影響が及び、多くの人々が惑わされ滅びへと向かう中で、私たちに重要な識別の方法を教えています。マタイによる福音書7章15-20節で、イエスは偽預言者を見分ける方法として「実」を見るよう指示しています。

偽情報や、フェイクといったものが氾濫する現代において、私たちは注意して本物を見極める必要は、聖書の言葉を伝える指導者たちについても言えることです。見たところ無害な羊のようでも、現実には『貪欲な狼』(15節)、自分の利益のために群れを食い物にする教師がいます(24:24、エレ14:14、使20:29)。

本物と見分けがつきづらい彼らを見分けるには『実』(16)を見ることです。ぶどうといばら、いちじくとあざみは実のあるなしで区別できます。また同じ実であっても、良い実と悪い実は区別出来るものです。良い木は必ず良い実をつけますし、悪い木は必ず悪実を結び例外はありません。『良い実を結ばない木』は腐れを周囲に広げることのないよう『みな切り倒されて、火に投げ込まれ』ることが確実であるとイエス・キリストは語ります。

私たちも、『切り倒されて、火に投げ込まれるような』人生をフイにするようなことのないためにも、霊的な識別力において確かなものとなるようにイエスは勧めます。

ところで、この「実」とは、その人の言動や生き方から現れる具体的な結果を指します。例を挙げると以下のように集約されます。

  1.  愛と思いやり:他者への無条件の愛と思いやりの行動

  2.  謙遜:自己中心的でなく、他者や神を優先する姿勢

  3.  平和:周囲との和解と調和を促進する態度

  4.  誠実さ:言動の一致と信頼性

  5.  自己犠牲:自身の利益よりも他者の幸福を優先する行動

真の信仰から生まれる「実」は、愛、思いやり、謙遜、誠実さなどの特徴として現れます。しかし、残念ながら一部の宗教指導者たちは、こうした特徴とは異なる行動を取ることがあります。

これらの指導者が真の信仰から離れる理由は、多くの場合、自己の権力や特権的地位の維持、そして自己正当化にあります。この傾向は、新興宗教団体だけでなく、カリスマ的指導者を持つ教会や、時として伝統的な教会にも見られることがあります。特に権力が集中した組織では、こうした負の側面が顕著になりやすいのです。

人間は皆、不完全であり、過ちを犯す可能性があります。しかし、真の信仰を持つ者と、偽りの預言者との違いは、自身の欠点に対する態度にあります。真摯な反省や悔い改めの姿勢を持たず、御言葉を自分の利益のために解釈したり、他者にのみ厳しく適用したりする態度は、警戒すべき兆候と言えるでしょう。

このような状況下で、私たち信仰者に求められるのは、批判的思考力と注意深い観察です。指導者や教えの「実」を慎重に評価し、常に自身の信仰を吟味することが大切です。同時に、健全な信仰コミュニティを築くためには、開かれた対話と透明性のある運営が不可欠です。

これらの努力を通じて、私たちは真の信仰の道を歩み続け、互いに支え合う共同体を形成していくことができるのです。このプロセスは決して容易ではありませんが、信仰の本質を守り、より良い社会を作り上げていく上で非常に重要な取り組みだと言えるでしょう。

このように、イエスの教えに基づいて「実」を見分けることで、私たちは偽りの教えや指導者から自らを守り、真の信仰の道を歩むことができるのです。

奇跡は信頼に足らないこと


7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

イエスが語る「実」とは、必ずしも外見上の華々しさや目立つ行為を指すものではありません。たとえ「主よ、主よ」と唱え、預言や悪霊追放、奇跡といった力強い業を行ったとしても、それだけではイエスとの真の結びつきを保証するものではないのです。

現代の教会集会の傾向について、注意深く観察する必要性が増しています。特に一部の教会、とりわけメガチャーチと呼ばれる大規模な教会では、集会の形式が変化してきている傾向が見られます。これらの集会は、時として従来の礼拝の枠を超え、エンターテインメントの要素を強く帯びる場合があります。

こうした集会では、大音量の音楽、多数の参加者、豊富な視覚効果など、感覚的な要素が前面に出ることがあります。参加者はこれらの刺激的な環境に圧倒され、深い感動を覚えることもあるでしょう。しかし、ここで注意が必要なのは、これらの感覚的な体験を、直ちに聖霊の臨在や神の働きと同一視してしまう危険性です。

確かに、礼拝や集会が人々の心に強く訴えかけ、感動を与えることは重要です。しかし、私たちの信仰生活において、外見的な華やかさや感覚的な高揚感だけでなく、内面的な成長や神との真の交わりを求めることが大切です。

イエス・キリストの教えに立ち返れば、真の礼拝は「心と真実をもって」(ヨハネによる福音書4:23-24)行われるべきものです。したがって、私たちは集会の形式や規模に惑わされることなく、自分の心の内側で何が起こっているのか、神との関係がどのように深まっているのかを常に吟味する必要があります。

こうした現状を踏まえ、信仰者一人一人が批判的思考を持ち、自らの信仰体験を慎重に省察することが重要です。感動や高揚感も大切ですが、それらが真に神との関係を深め、キリストの教えに基づいた生活の変革につながっているかどうかを見極める必要があります。

このバランスを保つことは容易ではありませんが、真摯な信仰生活を送る上で欠かせない姿勢だと言えるでしょう。私たちは常に謙虚な心を持ち、神の御心を求めながら、自らの信仰のあり方を見つめ直していくことが大切です。

天の父の御心を行う者かどうか

ここで、真に重要なのは、「天の父の御心を行う者」であるかどうかです。預言者の役割で言えば、それは人々を罪の悔い改めという「狭い門」へと導くことでしょう。イエスの山上の説教に描かれている弟子の姿こそが、父の御心を行う者の姿なのです。真のイエスの弟子となる者は、自己中心的な生き方から解放され、この説教に描かれた実を結び、御心を行う者へと変えられていきます。

したがって、イエスの言葉に従うことが最も重要です。イエスの言葉に従う者とそうでない者との間には、決定的な違いが生じます。このたとえ話の後に語った、『家を建てる二人の例え話』は、この違いを明確に示しています。

両者とも家を建て、同じ嵐に遭いますが、結果は全く異なります。これは、家の土台の違いによるものです。同様に、神の裁きの前に立たされる時、イエスの言葉を実行してきた者は揺るがされませんが、それを無視してきた者は悲劇的な結末を迎えることになります。

群衆がイエスの教えに驚嘆したのは、イエスが他の権威に頼ることなく、自らの権威をもって語り、さらには自身の言葉に対する態度によって人の運命が決まるとまで述べたからです。

この教えは、私たちに真の信仰の本質を示しています。外見的な行為や言葉ではなく、日々の心からの従順と実践こそが、神の御心に適うものであり、真の弟子の姿なのです。私たちは日々の生活の中で、イエスの言葉を心に留め、それを実践することで、強固な信仰の土台を築いていくことができるのです。アーメン。

訂正箇所につきまして

お忙しい中、私のnoteをお読みいただき、ありがとうございます。誤解を招く表現があり、読者の方々にご迷惑をおかけしました。

読者からのご指摘の通り、「初期教会の教父たちも、終末時代には教会が文字通り七年間の患難を経験し、その間に偽預言者と反キリストが台頭して世界を支配すると信じていました」という記述は、正確ではありませんでした。これは私の不注意による誤りです。

実際には、初期教会の教父たちの間で、終末論に関する見解は様々でした。特に「文字通り七年間の患難」という具体的な期間を明示している教父の記述は、私の知る限りでは見当たりません。

この考え方は、おっしゃる通りディスペンセーション主義に基づくもので、19世紀以降に発展した解釈です。初期教会の教父たちの著作には、このような具体的な時間枠を示す記述は見られません。

教父たちの多くは確かに終末期の患難や反キリストの出現について言及していますが、その解釈は比喩的なものも多く、具体的な期間を特定しているわけではありません。例として

  1. イレナエウス(2世紀)は「対異端論」で反キリストについて論じていますが、7年間という具体的な期間は示していません。

  2. ヒッポリュトス(3世紀)も「キリストと反キリストについて」で終末論を展開していますが、やはり7年間という具体的な言及はありません。

  3. アウグスティヌス(4-5世紀)は「神の国」で終末論を扱っていますが、彼の解釈はより比喩的で、具体的な時間枠を設定していません。

私の記述は、これらの初期教会の教えとディスペンセーション主義の解釈を不適切に混同してしまったものです。お詫びして訂正させていただきます。

この件に関して、さらなる情報や疑問点が必要でしたら、喜んでお答えいたします。

敬具


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高木高正 TAKAGI Takayuki|東松山バプテスト教会 代表・伝道師 皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。