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島根県囲碁史紀行 ① 松江周辺と道策の故郷

 山陰地方にある島根県は、東西の長さが、約155kmと細長く、旧令制国においては、出雲国・石見国・隠岐国の三国に別れていた。県内には、「出雲大社」や「松江城」、「世界遺産 石見銀山」など、沢山の観光スポットがあるが、一方、囲碁史においても、島根からは歴史に名を残す優れた碁打ちが輩出されている。碁聖・本因坊道策、井上道砂因碩、井上因砂因碩のほか、本因坊家塾頭の岸本左一郎、明治以降活躍した岩田右一郎、内垣末吉、さらに常勝将軍と称された野沢竹朝、世界への囲碁普及に尽力した岩本薫(本因坊薫和)も、島根県出身である。島根は、本因坊秀策が生まれた隣県の広島県とともに、注目すべき囲碁史の宝庫といえる。

 今回の「囲碁史紀行」は、そんな島根県を巡ってみることとする。


松江城

松江城天守

 松江城は、現存する十二天守のひとつで、別名千鳥城ちどりじょうと呼ばれ、天守は国宝に指定されている。国宝となったのは、平成二十七年(二〇一五)と、割と最近のことである。これは、江戸時代の建物であることは間違いないが、正確な築城時期を示す資料が無く、国宝指定条件が満たされなかったからだ。そこで、地元では何とか松江城を国宝にしようと、市民に資料提供を呼び掛けたところ、松江神社で国宝指定に重要な築城時期を特定できる「慶長拾六年正月吉祥日」などと書かれた祈祷札が見つかり、遂に指定となった。

本丸一ノ門

 松江藩の初代藩主は、豊臣政権3中老(五大老・五奉行の調整役)の一人堀尾吉晴である。関ヶ原の戦いにおいて、息子の忠氏(二代藩主)が戦功を挙げ、遠江国浜松12万石から、出雲・隠岐25万石に加増移封し、出雲富田藩となった。政庁は当初、戦国大名尼子氏の時代から難攻不落といわれていた「月山富田城」(安来市)であったが、山城であり城下町を形成するのに不向きであったことから、松江城を築き、慶長十六年(一六一一)に政庁を移し松江藩となった。吉晴公は完成直前に亡くなっている。二代藩主忠氏が早世し、その子の忠晴が三代となったが、その死後、嗣子がなく堀尾家は改易となった。続いて入封してきた京極忠高も、三年後に亡くなり、養子を認められず改易となった。そして、信濃松本藩藩主で徳川家康の孫(結城秀康の三男)の松平直政が入封し、以後幕末まで続いていった。

 なお、堀尾氏から京極氏まで続けて断絶となった事で、次のような伝説が生まれている。

 松江城は、築城に際し天守の石垣が何度も崩れ落ち、人柱が無いと完成しないという話になったため、町人を招き盆踊りを開いて、その中で最も美しい踊りのうまい娘を連れ去って生き埋めにした。城が完成するまでに、三人の娘が生き埋めにされたという。その後、城は無事完成したが、藩主親子は相次いで急死し、改易となってしまった。また、城内で盆踊りをすると、城が大きく揺れるため盆踊りは禁止となってしまった。
 この話は、明治時代に入り、小泉八雲が「松江の七不思議」の中で紹介している。

天守閣から臨む宍道湖

 ところで、松江市のシンボルである松江城は、たびたびイベントの会場として活用されている。松江市は、過去二回「世界アマチュア囲碁選手権戦」となっているが、平成二十三年(二〇一一)の第三十二回大会では、松江城天守にて、日本棋院理事長(当時)の大竹英雄名誉碁聖と、全国高校囲碁選手権大会女子個人の部ベスト8の地元女子高生との「御城碁」の記念対局が行われ、令和元年(二〇一九)の第四十回大会では、吉原由香里六段と、地元アマによる「御城碁」対局が行われている。

八雲本陣

八雲本陣(松江市宍道町宍道1335)

 宍道湖の南西部の、宍道町の中心部に位置する八雲本陣(木幡家住宅)は、歴代松江藩主が、出雲大社参詣、斐川平野の鷹狩り等の際に、本陣として活用され、その後大正天皇や昭和天皇、川端康成、松本清張なども訪れた旧家である。
 正面玄関を入ると土間は高い吹き抜け構造になっており、太い梁や青海波文様の引窓が見える。藩主を迎えた二間続きの「書院の間」には、部屋を仕切る襖に鳥取藩の絵師だった土方稲嶺の「猛虎図」が描かれている。その奥には、松江藩の家老朝日丹波の旧邸を移築した「朝日丹波の間」や、明治四十年の大正天皇行啓の折りに行在所として新築された「飛雲閣」があり、現在、国の重要文化財に指定されている。
 なお、八雲本陣は、2023年1月より改修工事のため休館となっていて、再開は2030年3月を予定している。

 この八雲本陣で、以前、服部因淑及び井上幻庵因碩の署名のある碁盤や河北耕之助が製作したと記された碁笥などが発見されている。碁盤の左側面には「天保甲午三月之日/官/大国手/十一世井上因碩/方義(花押)」と記されているが、幻庵因碩は、初世井上因碩の師である中村道碩を井上家当主の世系に組み込み、世系書換を行ったことで知られている。文政七年(一八二四)に井上家当主を継承した幻庵因碩は、当初、「十世井上因碩」を名乗ったが、文政十三年(一八三〇)の免状では「大国手井上因碩」と署名している。この碁盤の発見により、天保五年(一八三四)には、対外的にも十一世を公言していたことが確認された。

碁石の産地 玉結浜

笹子海岸(松江市美保関町片江 笹子)
玉結港の西側付近
玉結神社(松江市美保関町片江1618)

 奈良時代初頭に編纂された『出雲国風土記』の島根郡の条には、特産品として、現在の松江市美保関町にある「玉結浜」(玉結湾・笹子浦周辺)で、碁石に適した黒い石が採れたことが記載されている。 古代の出雲地方(玉造など)では、勾玉などの玉作りが盛んであったが、奈良時代以降は同じ石材や海岸の素材を活用して碁石状の石製品も作られていたようだ。

碁聖・本因坊道策の故郷

 江戸時代に圧倒的強さを誇り碁聖と讃えられた四世本因坊道策は、正保ニ年(一六四五)に石見国馬路(現・島根県大田市仁摩町馬路)の山崎家で生まれる。現在、島根県では石見国ゆかりの歌聖柿本人麻呂、画聖雪舟、碁聖本因坊道策のことを「石見三聖」と称している。

本因坊道策の生涯

本因坊道策

 まずは、本因坊道策の生涯について、振り返ってみよう。
 道策が生まれた山崎家は、もともと毛利元就の家臣であったが、元就の死後、石見国に移り住み、江戸時代初期には大久保長安に仕え石見銀山開発で財を成した。 
 道策の母は、熊本藩三代藩主・細川綱利の乳母であった。道策は幼名を三次郎という。次男として生まれ、弟には、後に井上道砂因碩となる千松がいた。道策は七歳の頃より、母に囲碁を教わり、十四歳で本因坊家の門下となっている。なお、山崎家は、道策、井上道砂因碩以外にも、後の時代に井上因砂因碩が輩出されるなど、囲碁界と関わり深い家である。
 寛文八年(一六六八)道策が師事した本因坊道悦は、安井算知が名人として囲碁界を統括することに異を唱え、争碁によって算知を名人位返上へと追い込んでいる。これについては、劣勢であった道悦が、成長著しい道策との共同研究により達成することができたとも言われている。
 幕府の決定に異を唱え争碁を行った道悦は、騒動の責任を取る形で二年後に家督を道策に譲る。当時、既に実力が際立っていた道策は、家督継承と同時に碁所へと推挙される。江戸時代、名人碁所をめぐっては必ず他家から異論が出され、争碁が行われてきたが、この時、他家からも異論が出ることなく、道策は名人碁所となっている。
 当時の一流棋士達をことごとく先以下に打ち込んだ道策は、実力十三段と称され、現在でも史上最強の棋士に名を上げる人が多くいる。
 名人碁所となった道策は、手割の考え方など多くの革新的な手法を生み出した。また、従来の力戦ではなく全局の調和を重視した合理的な打ち方を用いたことなどから、近代囲碁の祖と呼ばれ、碁聖として讃えられている。
 名人を九段、名人上手間を八段・準名人、上手を七段とし、以下二段差を一子とする段位制を確立したのも道策であり、この制度は、大正十三年(一九二四)に日本棋院が設立されるまで採用された。
 なお、道策が実力十三段と称されたのは、最高段位は九段であるものの、道策と他の碁打ちの対局結果を段位制に基づき、段位とハンディで逆算していけば、道策は十三段に相当する実力があったという事らしい。
 本因坊家は、先代道悦の頃まで京都を拠点としていて、定期的に江戸へ通っていた。しかし、道策の時代になると家元制度も確立し、拠点も江戸へと移っていった。それにともない、元禄元年(一六八八)、道策は幕府より本所相生町に屋敷を拝領している。実際は寛文七年(一六六七)にすでに拝領が決まっていたが、それは、明暦の大火にともなう土地造成が行われている場所で、工事の遅れから、とりあえず芝金杉へ仮移転し、工事完了後に改めて拝領したという。本所の拝領屋敷は幕末まで存続していくこととなる。
 道策は弟子の育成にも力を入れ、五虎(五弟子)と呼ばれる小川道的、佐山策元、桑原道節(井上道節因碩)、熊谷本碩、星合八碩のほか、優秀な弟子がたくさんいた。
 特に小川道的に期待をかけていたが、跡目となった道的はわずか二十一歳で夭逝。続いて再跡目とした佐山策元も二十五歳で亡くなったため、その後は跡目が立てられることはなかった。
 道策は元禄十五年三月二十六日(一七〇二年四月二十二日)に亡くなっているが、臨終において13歳の神谷道知を後継者に指名、弟子の井上道節因碩を後見として道知の育成を託した。
 本因坊家当主は、先代まで京都の寂光寺へ葬られていたが、道策は遺言により江戸の本妙寺の塔頭、感應院へ葬られた。以降、感應院が本因坊家の菩提寺となり、当主が葬られていくこととなった。
 以上の事から、本因坊道策は、その後の本因坊家、および囲碁界全体に多大な影響を与えた人物であったことが分る。

大田市 道策の顕彰碑

 碁聖本因坊道策が生まれた、石見国馬路(現・島根県大田市仁摩町馬路)の山崎家の祖は、毛利元就、輝元の家臣であった松浦但馬守という人物で、山崎の地に移り住み山崎姓を名乗り、その後、馬路村へと移って石見銀山開発に関わり財を成している。山崎家は代々庄屋を務めていた。

鞆ケ浦港

 馬路の西端にある鞆ケ浦港には、十六世紀前半に銀山開発初期の銀鉱石の積出港として多くの商船が来航していたという。山崎家も、ここから資材を送り出していたのだろうか。
「鞆ケ浦」は、現在、世界遺産石見銀山遺跡の構成資産となっている。

 山崎家は現在も馬路で暮らしているが、普通の民家であり、外観の写真も掲載を控えることとしたが、庄屋を務めた家柄らしく、かなり大きな屋敷であった。建物は当時のものではないが、屋敷内には道策が幼少のころに使っていたという碁盤や碁石、道策が母ハマから碁の手ほどきを受け、間違いがあると水をかけられたという井戸などが残されているそうだ。
 当時は、なかなか碁盤や碁石が買えなかったのか、道策が幼少のころに使っていたといわれる碁石は、近くの琴ヶ浜からとってきた貝殻や、普通の石を使った不揃いなものだという。

琴ヶ浜

 道策が使う碁石を作るため貝殻を拾ったといわれる琴ヶ浜は、全国有数の鳴り砂の海岸として知られている。鳴り砂とは、丸みを帯びた石英が多く含まれ、砂の上を歩くとキュッと鳴る砂のことである。

琴ヶ浜に建てられた「琴姫の碑」

 琴ヶ浜には、鳴り砂にまつわる「琴姫伝説」が残されている。
 栄華を極めた平氏は、壇ノ浦の戦いで、遂に源氏に滅ぼされるが、そこから逃げ延びた美しい平家の姫が、小舟にて馬路の浜に流れついた。手には琴を抱えていたという。村人達の手厚い看病により一命をとりとめた姫は、せめてものお礼にと毎日琴を奏で村人達の心を癒し、村人は心から姫を敬っていたそうだが、一年後に姫は突然亡くなってしまう。そして、悲しんだ村人達が、浜一帯が見下ろせる丘に琴とともに葬ったところ、翌日から浜を歩くと姫の琴と同じ美しい音が鳴り響くようになったという。
 道策も、子供の頃に、この砂浜を歩き、鳴り響く砂の音を聞いていたに違いない。

道策、道砂、開祖・山崎宗久の碑
平成14年に再建された碑
明治期に再建された碑
再建の経緯を記した碑

 馬路の集落を見下ろす丘の上には、道策、道砂、開祖・山崎宗久の碑が建立されている。
 説明の碑によればと、碑は風化により過去に何度か建て替えられてきたという。明治十五年に再建された際には、当時、島根を拠点に活躍していた本因坊門下五段・岩田右一郎が書いた碑文が刻まれていた。
 碑は、初め山崎家の菩提寺である満行寺に建立されたが、平成14年に道策三百回忌を記念して、現在地に移転整備されている。その際に。碑も新たに再建されていが、新しくなった碑は、明治期に作られた碑をそっくり再現したものので、再建前の風化した碑も敷地内に移設されていた。

山田家の菩提寺「満行寺」

 もともと碑があった満行寺は、碑から海側に80mほどの所にある。本堂には、平成九年に寄贈された天女の鏝絵こてえ(漆喰を使って壁に施された立体的なレリーフ)があることで知られた寺である。

(島根県囲碁史紀行 ②につづく)

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