仕事が限界で このままだと壊れる気がして、建仁寺で座禅をした話
日々仕事に追われ、十分な栄養や睡眠も取れていない状態が続いていたので、「このままではメンタルがやられてしまうのでは」という不安が頭をよぎっていた。
メンタルを整えるには、瞑想や座禅が良い――そんな話をYouTubeやネットでよく目にしていたこともあり、座禅に参加してみることにした。
高校時代、音楽の先生に勧められたことがあった。(そのときは結局行かなかったけど、紹介されたのは妙心寺だったけど。)
そして大学時代、友人とよく訪れていた建仁寺へ。
朝7時半。
涼しげなおりんの音を合図に座禅が始まる。
20分間の座禅を2回。
座禅中は、1メートルほど先の床に視線を落とし、「何も考えないこと」。
――当然、今の僕にはそんなことはできない。
そもそも、色々悩み、考えすぎてしまった結果、ここに来たのだから。
ただ、配布された案内にはこう書かれていた。
「そんなときは、数を数えればよい」
「ひとーつ、ふたーつ、みっつ……」
「つ」のタイミングで息を吸うらしい。
難しい。
でも、最初は誰だってそんなものなのだろう。
ただひたすら座っていると、大学生の頃にも感じたことを思い出した。
京都の中心部にあるのに、ここは驚くほど静かだ。
カラスの鳴き声。
隣の人の呼吸。
普段なら気にも留めない音が、やけに鮮明に聞こえてくる。
そして、ふと「朝の色」を感じた。
朝は青色だ。
そこから少しずつ、暖かい色へと変わっていく。
そんな感覚と耐え難い足のしびれを感じながら
座禅が終わると、お坊さんのお話が始まった。
こういうとき、時々思う。
悩みを抱えて旅に出たり、本を読んだり、何かに参加したりすると、そこで出会う言葉や出来事が妙に心に刺さることがある。
自分のアンテナの感度が上がっているのか。
それとも、神様が今の自分に必要な言葉を贈ってくれているのか。
今日も、何か今の自分に響く話が聞けるかもしれない。
そんな期待を抱きながら、話を聞いていた。
お坊さんは、3つの禅の言葉とともにエピソードを紹介してくれた。
1.「病は不自信の処(ところ)にあり」
年度初めということもあり、新しい仕事や人間関係など、環境の変化があった人も多いだろう。
また、朝晩は寒く、昼間は暑い。自律神経も乱れやすい季節だ。
ここでいう「病」とは、単なる風邪のことではなく、悩みや葛藤も含めた意味らしい。
かなり乱暴に、そして自分なりに要約すると、
「人の顔色ばかり気にしていたら、一生悩みは尽きない」
ということなのかなと思った。
(有識者の方、解釈が違ったらすみません。)
人は本来、仏としての素質を持って生まれてきている。
しかし、仕事、人間関係、病気など、日々さまざまな刺激を受ける中で、「本当に大切にすべき感覚」や「ありのままの自分」を見失ってしまう。
多数派や偉い人に合わせたり。
無理をしたり。
時には楽なほうへ流されたり。
そうやって、自分自身を見失っていく。
――そんな話だった。(仏の素質ってなんだろう?)
2.「求心(ぐしん)やむところ、すなわち無事」
これも1つ目の話とつながっている。
結局、人が苦しくなるのは、「外」に何かを求め続けてしまうから。
認められたい。
評価されたい。
失敗したくない。
そうやって外側ばかりを見続けると、心はずっと揺れ続ける。
だからこそ、「ありのままの自分を受け入れること」が、心の安定につながるのだという。
3.「放てば手に満てり」
この言葉は、建仁寺が属する臨済宗ではなく、同じ禅宗である曹洞宗の開祖・道元の言葉らしい。
「こうあらねばならない。こうしなければならない。
そんな執着を手放したとき、人は満たされる。」
そんな意味だという。
お坊さんは、学生時代に陸上部へ所属していたそうだ。
そのときの部長は、部員をまとめるのがとても上手い人で、卒業後も何かと相談をするほど頼れる存在だったらしい。
毎年同窓会で顔を合わせていたが、ある年を境に来なくなった。
気になって友人に聞いたところ、その部長は強迫性障害を患ってしまったとのことだった。
仕事もバリバリこなしていた矢先だったが、会社へ行くことも、外へ出ることもできなくなってしまったらしい。
それから数年後。
久しぶりに同窓会へ参加すると、その部長が来ていた。
そこで、当時どれほど苦しかったか、そして回復のきっかけになった出来事を話してくれたという。
それは、朝食のとき、小学生の娘さんから言われた一言だった。
「病気になったお父さんも、病気になる前のお父さんも、どっちも大好きだよ。」
その言葉を聞いて、
「早く治さないと」
「父親として、こんな状態じゃダメだ」
と焦っていた気持ちが少し緩み、「ありのままでもいいんだ」と思えるようになった。
そこから少しずつ回復していった――という話だった。
この話を聞きながら、以前読んだ本の一節を思い出した。
「存在していること自体が尊い」
という言葉だ。
人は社会の中で生きている以上、相手に対して「役割に応じた行動や結果」を求めがちだ。
そして、それができなければ、まるで存在価値がないかのように感じてしまうことがある。
でも、その人が交通事故に遭ったり、大病を患ったりしたとき、きっと周囲は「成果」なんて求めない。
ただ、生きていてほしい。
存在していてほしい。
そう願うはずだ。
本質は、きっとそこにある。
道元の言葉も、そこにつながっているのではないか――そんなことを思った。
……とはいえ、それでも難しい。
社会人として働き、組織の中で生きる以上、結果や役割を求められるのは自然なことだと思う。
禅の教えと、現代社会で働く苦しさ。
この二つを、どう結びつければ心を安定させられるのだろうか。
みなさんの考えも、ぜひ聞いてみたいです!

