中村きい子『女と刀』を読んで
刀を手にしてすべてを切り捨てた女のすがすがしさ
「門閥制度は親の仇でござる」と、福沢諭吉は制度を打ち破って個人が能力を発揮する、独立自尊の道を説いた。男なら下級武士であっても能力次第で世に出られる。が、女はどうだ。身分制度家制度はそもそも女を従属物・無能力者とする。だから、封建制度の根幹、家族・門閥制度は親の仇どころか、不倶戴天の敵のようなもので、いまだに、夫婦別姓は認められず、女の自律は家庭崩壊を招くと本気で批判されている始末だ。
『女と刀』の主人公キヲの生まれた権領司の家は薩摩藩の郷士。キヲは家の格と誇りを叩き込まれ「意向」(=意志)を持てと育てられた。ところが父は格下の家に嫁がせ、キヲの「意向」を確かめもしない。
家にあって従い続けた父でさえ、女を人と見ず、蔑ろにしてかえりみない、娘にとっては痛烈なる裏切りである。嫁してだくだくと従えるわけがない。一度目の夫に愛想をつかして出戻る。
二度目の夫も無能で家長の座にしがみつき、妻の本音を理解しようとはしない。夫の正体に、愕然とし、深く失望する。夫で満たされぬ思いをかけた息子たち3人が亡くなり、残った一人の息子は母におとなしくしていろと意見する。
幼時は父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うという三従の教えこそ不倶戴天の敵だ。女三界に家無しと世間は脅迫するが、そんなものは女の意志を殺すための教えだと判断する力があれば、女は自分の栄光もとめて生きられるのではないか。
キヲの「意向」という言葉には、自分がすすみたい方向があり、人の行いの根本を突き詰めて明らかにし、向き合いたいという意志が込められている。その結果として、彼女には常に明瞭な行動がある。
47歳で8人目の子どもを身ごもったとき、「この呪わしいわたしの生理(からだ)」「侵され」たことの「屈辱は恐怖に変わって」、自分の生理が自分の意向を裏切る事を識る。
心も体も満たされることのなかった夫との日々を、「わたしという女は、子しか産むことのできぬ女なのか」と歎き、「真の女」として生きるために、家伝来の「刀」を得る。「男によって生かされる女ではない。男すら存在しない所で、わたしの女というものを、うちたてていかねばならぬ」と決意する。
そして、夫を切り捨てる。夫婦50年、二人は憎しみぬいて離婚した。「ひとふりの刀の重さほども値しない男よ」と妻は夫に告げる。70歳にして孤独を楽しみ「私はわたしの世というものを生きてみたかった」と、それを「激痛する悲しみと歓び」と表現する。至言である。
キヲが切りすてたのは夫だけではない。家制度、世間、身分に寄りかかった「血の体制(まとまり)」を切りすて、同時に自分の身内にある女のこだわりも斬った。意向を裏切る生理を持つ人間として、意向を活かし生理を殺すことができる残酷な権利として持った。その象徴が「刀」だった。
キヲは、川を越えた掘立小屋に住み、日雇い労働の賃金で暮らし、同じ労働の老婆たちと笑い合って厄介な世間を超脱する。本来無一物、70歳のすべてを捨てたすがすがしさだ。
*中村きい子『女と刀』
ちくま文庫 2022年3月10日 第1刷発行
