「不幸という名の試験」―正観さんの言葉を生きて
小林正観さんの言葉と、私の人生の「最終試験」
小林正観さんは『ありがとうの神様』という本の中で、こんな本質的なことを書かれています。
人間の心のレベルが上がるとき、
「不幸という名の試験」がやってくる。
それは、
何かを奪うためでも、
苦しめるためでもなく、
その人が次の段階へ進めるかどうかを、
そっと確かめるためのもの。
正観さんは、
人生を「初級・中級・上級」に分け、
それぞれの段階に応じた試験があると語っています。
◾️初級・中級・上級で変わる「問い」
本の中では、こう説明されています。
初級では、多くの人が嬉しい、楽しいと思う現象について、
「喜ぶ、幸せ、感謝することができるか」
中級では、多くの人が当たり前と思うことについて、
「喜ぶ、幸せ、感謝することができるか」
そして上級になると、多くの人が不幸と思うことについて、
「喜ぶ、幸せ、感謝することができるか」
上級で問われるのは、
とても静かで、厳しい問いです。
◾️私の人生に起きた「最終試験」
振り返ってみると、
私の人生も、まさにその流れの中にありました。
最初は、
なぜ私ばかりこんなことが起きるのかと、
苦しみ、もがき、
死のうとしたこともありました。
孤独を埋めようと、
無理やり気を紛らわしていた時期もあります。
少し落ち着いたと思えば、
また次の「不幸」がやってくる。
誰かのせいにして、
環境のせいにして、
最後は自分を責める。
その繰り返しでした。
◾️「もう嫌だ」と思った、その先で
あるとき、
心の底から、こう思ったんです。
「もう、こんな生き方は嫌だ」
「逃げるのも、責めるのも、終わりにしたい」
そこから私は、
不幸を消そうとすることをやめました。
不幸をなくすのではなく、
不幸から逃げない、という選択。
そうして行動を変え始めたとき──
まるで待っていたかのように、
人生最大級の出来事が重なりました。
病気、心霊体験、
家族を巻き込む恐怖、
強制入院、相次ぐ身内の死、
自分の手術、親や子どもの病気、
いじめ、仕事の問題。
今思えば、あれは完全に
「上級の、最終試験」だったと感じています。
◾️私が選んだのは「感謝で受け取る」こと
『ありがとうの神様』には、
こんな趣旨の言葉もあります。
不平不満、愚痴、泣き言、悪口を言わず、
試験を受けきると、
人生は次の段階へ進みはじめる。
私はそのとき、
無理に前向きになろうとはしませんでした。
怖いものは怖い。
痛いものは痛い。
それでも、
起きていることから逃げず、
笑顔と感謝で受け取ることを選びました。
「これは、私を壊すためじゃない」
「今の私に、必要な体験なんだ」
そう、何度も自分に言い聞かせながら。
◾️正観さんの言葉と、私の実感のあいだ
小林正観さんは、
「大学卒業レベルの試験(上級)に合格すると、(不幸は)もう来ません」
「自分にとって楽しい出来事が起きはじめるようになってくる」
と書かれています。
一見すると、
もう辛いことは何も起きない、
そんな意味にも受け取れる言葉です。
けれど、
これは私自身の人生を通して見えてきた
私なりの受け取り方なのですが──
不幸が「来なくなる」というより、
不幸と認識しなくなる、
ということなのではないかと感じています。
人間である以上、
別れも、病気も、死も、
いわゆる「つらい出来事」は避けられません。
でも、それらを
「なぜ私ばかり」
「こんな不幸が起きた」
と受け取らなくなる。
恐れに飲み込まれず、
意味づけで苦しまず、
感謝と愛へと、静かに変換できるようになる。
その結果として、
人生の中から
「不幸」という概念そのものが
溶けていく。
私は今、
正観さんの言葉を
そう理解しています。
これは、本に書いてあった答えではなく、
私が苦難を乗り越えた末に
辿り着いた答えです。
◾️最終試験のあとに残ったもの
私の中に残ったのは、
特別な力ではありません。
ただ、
深い安心と、
静かな強さでした。
何が起きても、
「私は大丈夫だ」と、
体の奥で、もう知っている感覚。
それが、
人生のすべての捉え方を
変えてくれました。
◾️今、試験の途中にいるあなたへ
もし今、
「なぜ私ばかり」と思う出来事の中にいるなら、
どうか自分を責めないでください。
それは罰ではなく、
あなたの人生が
次の段階へ進もうとしている
サインなのかもしれません。
感謝できなくてもいい。
笑えなくてもいい。
あなたは壊れていない。
今は、試験の途中にいるだけ。
自分を見つめる時が来ただけ。
その先には、
安心の中に生きるという感覚が、
ちゃんと用意されています。
そしていつか、
それが
「特別な幸せ」ではなく、
ただの“在ること”だったと
静かに思い出す日が来る。
私は、そう信じています。



