【2002年記憶の旅】(39)🇸🇾ダマスカス〜アラブの混沌と蠱惑の香りが渦巻く街
シリア内陸のデリゾールから、バスで首都のダマスカスにやって来ました。
当時中東を目指す旅人は、他の人と違う所に行きたい欲望に溢れていた様で、安宿の情報ノートには、そういった欲望を満たす「行けない場所に行く方法」が溢れていました。
⚠️この記事には記録として紛争地域に密入国を試みる人の話が出てきますが、危険地域への渡航を薦めるものではありません。過去に紛争地域でテロ組織に拉致され、命を失った人がいます。
⚠️退避勧告が出ている地域への入国を企てた場合、旅券法19条により旅券(パスポート)の剥奪(返納命令)を受けます。また命令に従わない場合は刑事罰の対象となります。
⚠️2026年現在、イラク及びシリアには危険レベル4の退避勧告が出ており、入国はできません。
2002年8月23日(金)〜24日(土)
混沌の街ダマスカス
デリゾールからバスで首都のダマスカスに入りました。車でごった返す街を歩いて、ガイドブックに載っていた安宿にたどり着いた頃には、街を覆う砂埃を浴びて頭も身体もざらざらになっていました。

ダマスカスは紀元前10世紀ごろ、古代近東の遊牧民族であるアラム人によって築かれた都市国家「アラム・ダマスカス」として栄えたのち、ローマ帝国に併合された紀元前1世紀ごろには、現在の旧市街の基礎となる街が出来上がります。
ダマスカスの歴史
古代(アラム・ローマ時代)
紀元前10世紀頃、アラム人が築いた都市国家「アラム・ダマスカス」として栄えました。紀元前1世紀にはローマ帝国に併合されて碁盤の目状の都市計画(現在の旧市街の骨格)やジュピター神殿、アーケード(直通通り)が整備されました。
キリスト教の発展とビザンツ時代
新約聖書において、キリスト教徒を迫害していたパウロが「ダマスカスへの道」で目が見えなくなり、行いを改めた事が記録されたことで、その名を知られる様になります。
4世紀にはローマ帝国がキリスト教を国教化したことで、教会が建ち並ぶキリスト教の重要拠点となりました。
ウマイヤ朝の首都(イスラム化)
7世紀半ば(661年)に誕生した「ウマイヤ朝」の首都になり、スペインからインド国境に及ぶ巨大帝国の中心地として黄金期を迎えました。
世界最古級の巨大モスク「ウマイヤ・モスク」が作られるなど、イスラム文化・建築の象徴都市となりました。
中世(十字軍とサラーフッディーン)
アッバース朝への交代で首都はバグダードに移転。12世紀の十字軍運動の時代には、イスラム側の英雄サラーフッディーン(サラディン)がダマスカスを拠点とし、十字軍に対抗しました。
オスマン帝国時代から現代
16世紀から20世紀初頭にかけてオスマン帝国の支配下に入り、メッカ巡礼の重要な出発拠点として発展しました。
ダマスカスの街歩き
ダマスカスは時代を経て多くの国家の下で首都として繁栄した歴史のある街で、多くの見どころがあります。
ウマイヤ・モスク

715年に完成したウマイヤ・モスクは多くのイスラム教徒が訪れる、イスラム教第四の聖地です。建築当時の姿のまま現存するモスクとしては世界最古の巨大モスクです。
ダマスカスとヒジャーズ鉄道

この鉄道はオスマン帝国の皇帝、アブドゥルハミト2世がイスラム教徒の寄付を集めて作られた、ダマスカスからサウジアラビアのメディナを結ぶ鉄道でした。全線運行されていたのは、1908年から1914年までの約6年間だったそうです。巡礼者の利便性を高める為にメッカまでの延伸が予定されていたそうですが、叶わないまま第一次世界大戦の戦禍により、運行が中止されてしまいます。その後、1920年ごろから近郊区間の運行が再開されましたが、2004年ごろに廃止されてしまった様です。


情報ノートは蠱惑の香り
ダマスカスでは、バックパッカーに人気があった「アル・ハラメイン・ホテル」に滞在していました。当時はまだインターネットが個人レベルには普及しておらず、旅人は安宿に置いてあった情報ノートを頼りに、評判の良い安宿や飯屋など、旅先の情報を得ていました。こういう善意の情報共有に長けているのはやはり日本人で、書き込まれている情報は6割以上が日本語であった為、欧米人の旅行者に「俺たちが読める言葉で書けよ」と文句を言われる程でありました。
私も行った場所の情報などを書き込みつつ、ノートをめくっていると、ある情報が目に止まりました。
イラクへの行き方
このホテルの受付のXXさんに聞くと、案内してくれる人を紹介してもらえます。僕の場合は〇〇さんという人を紹介してもらい、彼の車で行きました。
砂漠のところには国境がないので、そこから密入国します。シリアとは違う雰囲気で、面白い体験でした。特に危ない目にはあいませんでした。値段はガイド料と車代を含めてXXXドルでした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
イラクツアー行ってきました。国境を越えたところで警察官みたいな人に見つかって、逮捕されそうになりました。最終的にはお金を払って許してもらいました。ガイドは特に何もしてくれなかったのに、金だけ請求されました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ヨルダンのアンマンからイラクに行きました。バスで簡単に行けます。アンマンの〇〇ホテルに行って、従業員のXXという人に行き方を教えてもらいました。国境を越えたところにある街を観光できます…
当時のイラクはサッダーム・フセインが統治しており、米国により「悪の枢軸」と名指しされたばかりの時期で、軍事衝突の危機が高まっていました。
当時外務省からは渡航延期勧告(当時)が出ていましたが、折しも夏休みの時期、安宿には若者も多く集まっていました。誰も行ったことの無いイラクに行けば、日本にいる友達に自慢できる…若者たちの間では、イラク行きを巡って盛り上がっていた様です。
当時のイラクには秘密警察がおり、街を歩いている外国人は逐一監視されていた筈ですから、密入国した旅人は発見されたその場で逮捕される可能性がありましたが、そういった不都合な情報は表には出ないまま、「ちょっとした冒険」の様なトーンで情報だけが広まっていきました。
また、シリアはまだ貧しく、政府によって外貨の流通が厳しく管理されていた時代に、旅人が持つ外貨を求めてイラクの密入国の斡旋が行われていたことは、当然の成り行きであったものと思われます。
2002年当時のイラクは、サッダーム・フセイン率いるイラクの政府が国境を管理していましたが、その後2003年に米英による軍事侵攻が始まり、軍や国境警備隊が機能していない状態になりました。国境管理が手薄になったタイミングで、隣国から大量に流入した武装勢力がイラク国内の地方都市に展開し、ISISの前身となる組織が形作られてゆきました。主要幹線道路には、反米武装勢力やテロ組織が展開している無法地帯となっていました。
2004年4月には、複数の日本人が武装勢力に拘束される事件があり、身柄と引き換えに自衛隊の撤退を要求される事件がありました(のちに解放されました)。また同じ年の10月には香田証生さんが殺害されるという痛ましい事件が起きました。
香田証生さん殺害事件とは
香田証生さん殺害事件は、イラク戦争後の混乱期にイラクの過激派組織に拉致された香田さんが殺害された惨事です。
事件の概要
被害者: 香田証生さん(当時24歳)
事件の経緯: 2004年10月、旅行者としてヨルダンからイラク(バグダード)に入国。入国直後、バグダード市内で反米・過激派組織に拉致されました。
犯行グループ: アブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィーが率いる「イラクの聖戦アルカイダ組織(旧:タウヒードとジハード団)」です。
過激派の要求と日本の対応
犯行グループはインターネット上に香田さんの映像を公開し、「48時間以内にイラクからの自衛隊撤退」を要求。「応じなければ香田さんを斬首する」と脅迫しました。
日本政府は「テロリストの脅迫には屈しない」として自衛隊撤退を拒否。国際社会やイラク国内の宗教指導者、香田さんの家族などが解放を呼びかけましたが、交渉は実りませんでした。
結末
2004年10月31日未明(日本時間)、バグダード市内で香田さんの遺体が発見されました。頭部を切断して殺害する動画が過激派のウェブサイトに投稿され、日本社会に大きなショックを与えました。
イラク密入国の情報が広まった2002年当時と、2004年の日本人拘束事件が発生した時期は、治安情勢が異なっていましたが、これらの事件は同じ延長線上にあったと思います。
旅とは非日常の風景を楽しむものと考えていますが、当時の状況を思い返して、安全な旅について、改めて考えさせられました。
香田証生さんが遭われた様な悲惨な事件が繰り返されない事を祈っております。
(詳しくお知りになりたい方は↓アファリエイトではありません)
