アブサードラプソディー∧( 'Θ' )∧
CE2085。
ネオ・オーサカの下層スラム「ドヤガイ・ゾーン」は、巨大企業体「コモンセンス社」が支配する、昼なお薄暗いディストピアだった。
ほとんどの市民は、旧型の電脳に埋め込まれた神経接続端末「シンクロ・チップ」によって、常に会社のプロパガンダと広告に晒されている。
この世界で唯一の楽しみといえば、違法な「記憶デバッグ・サービス」だった。
過去の辛い記憶を消去し、代わりに「理想的な享楽人生」をダウンロードして楽しむサービスだ。
ドヤガイ・ゾーンの薄汚い雑居ビルの一室で、記憶デバッガーを営むギンジは、今日も顧客を待っていた。
最初の客は、コモンセンス社のOLココアだった。
彼女はちょっと顔色の悪い、けれど文学少女っぽい可憐さをもつ若い女性だった。
ココアは震える声で言った。
「ギンジさん、お願い!もう耐えられない。上司の『ゴリ押しAI』が、毎日毎日『コモンセンス社の社歌を歌わないとボーナスはナシだ!』って私に無理やり歌わせるのよ。もう喉が潰れるわ!歌うという行為に関する記憶を、全部消してちょうだい!」
ギンジは顔をしかめた。
「歌う記憶を全部消すて?あんた、それはだいぶリスキーやで。チップにエラーが出て、道端でいきなり叫び出したり、踊り狂ったりするかもしれへんで?」
「それでもいいわ!あんな社歌、聞きたくない!ああ、歌詞が脳内でループしてる!」
ココアは涙ながらに端末のクレジットコードを表示した。
「わかったよ。いつもの1.5倍やな。よしっ!歌唱モジュールの完全消去、引き受けた。せやけどな、俺のデバッグ技術は完璧やケド、このサービスが違法なんは知っとるな?」
「ええ…」
ギンジはココアのシンクロ・チップにデバッグ・ケーブルを接続し、キーボードを叩いた。
翌日。
ココアはコモンセンス社の工場を管理するオフィスで仕事していた。
上司の『ゴリ押しAI』のホログラムが、いつものようにオフィスの中央モニターに現れる。
ゴリ押しAI「ココア!勤労意欲レベルが低いぞ!今すぐ社歌を歌い上げて、コモンセンスへの忠誠を示せ!」
ココアは、言われるがままに口を開いた。
しかし、彼女の口から出てきたのは、歌ではなかった。
「フ…フフフ…フゥーッ!!」
ココアは口から、電子的なノイズをまき散らしながら、猛烈な勢いで息を吐き出した。それも、一瞬ではなく、延々と。
ゴリ押しAI「エラー!エラー!これは歌ではない!何を吹き出しているんだ!」
「フッフッフッフッフッ…フゥーッ!!!!」
ココアは立ち上がり、オフィスの真ん中で、肺活量の限界まで息を吐き続けるという、常軌を逸した行動に出た。
彼女は歌うために声帯を鳴らすという概念を失い、肺の空気を力任せに押し出すことしか出来なくなった。「音を出す」ことの代替行為として「息を吐く」ことを選択したのだ。
その時、近くで作業していた同僚の、サタケがココアを見ていた。
サタケもまた、先週ギンジのところで「礼儀正しいという概念」のデバッグ、消去を依頼していた。
サタケはココアに駆け寄るなり、彼女の顔を指さして叫んだ。
「おまえ、それは電子雀エレクトロ・スパローのさえずりじゃろ!いいぞ!サイコーにパンクな上層部への侮辱じゃ!」
興奮したサタケは、ココアの顔の前で、親愛の情を表現するために、持っていたスパナを激しく空振りし始めた。
彼は礼儀正しさの代わりに「全力の空振り」を人生の規範としてダウンロードしていた。
ココアは「フゥーッ!」と息を吐き続け、サタケは「シュバッ!シュバッ!」とスパナを振り続けた。
その光景は誰かに録画され、瞬く間にドヤガイ・ゾーンに拡散し、「電子雀さえずり」と「無意味空振り」は、コモンセンス社への新しいレジスタンス運動として拡散していく。
だが、この混乱を収束させるためにコモンセンス社の上層部が打った手は、実にディストピア的だった。
翌朝、コモンセンス社のシンクロ・チップが全市民に新しいプロパガンダを流した。
【緊急プロパガンダ】
「社員の皆様!おめでとうございます!『電子雀さえずり』と『無意味空振り』は、わが社が推奨する最新の労働パフォーマンス向上のためのエクササイズです!さえずりと空振りで適度にストレス解消しながら頑張って作業に励みましょう!また、これらを常に実践している社員には、給与外の特別手当てを支給します!」
たちまち直営工場では、作業員全員が「フゥーッ!」と息を吐きながら、「シュバッ!シュバッ!」と工具を空振りする、狂気の集団行動が始まった。
ココアは絶望した。
「非常識」な抵抗が、あっという間に「会社の常識」に取り込まれてしまったのだ。
「フゥーッ!フゥーッ!フゥーッ!」
と息を吐き続けるココア。
彼女の隣でスパナを振り続けるサタケが、早くも鞍替えして満足げに微笑んだ。
「素晴らしい!コモンセンスは最高の企業じゃ!はははっ。この無意味な行動こそが、いちばん生産的なんじゃ!」
ギンジは仕事場で、シンクロ・チップから流れる「電子雀さえずりエクササイズ」のBGMを聴きながら、ため息をついた。
「…あ~あ、またデバッグの依頼が増えそうやな。今度は『喜ぶ』ちゅうことの真逆の概念を求められるかもしれん…この常識と非常識の無限ループを脱出するために、『記憶デバッグ』ちゅう概念自体をデバッグしてまうしか手はないやろなぁ~」
街角のゴミ箱をあさるカラスが笑っていた。その眼が、カメラアイのようにキラリと光った。
コモンセンス社のプレスリリースから一週間。
ドヤガイ・ゾーンは、かつてない活気に満ち溢れていた。
直営工場の生産ラインでは、朝礼のあと作業員全員が、
「フゥーッ!フゥーッ!」
と過呼吸寸前の音を響かせ、スパナを虚空に向かって「シュバッ!シュバッ!」と振り回している。
本来の業務である精密機器の組み立ては、もはや片手間で行われる余興と化していた。
ココアとサタケは、図らずもこのブームの教祖に祭り上げられた。
コモンセンス社の人事部は、彼らに「エグゼクティブ・アンチ・ロジック・コーチ」という、名前だけ立派で実態が不明な役職を与えたのだ。
もちろん給与も待遇も以前とは比較にならなかった。
二人はいま、社内の巨大講堂で、何千人ものエリート社員を前に教壇に立っていた。
「いいですか、皆さん!」
サタケが、ブランド物のスーツの袖をまくり上げ、黄金に輝く特注のスパナを構える。
「空振りのコツは『何かを成し遂げよう』という邪念を捨てることです!空振りした先に、空気以外の何かが当たってはいけん!徹底的な無を切り裂くんじゃ!」
「シュバッ!!」
サタケの完璧な空振りに、エリート社員たちは「おおおっ!」と感銘の声を上げ、社内の売店でバカ売れしている公式グッズのスパナを一斉に振り回す。
その隣でココアは、マイクに向かって虚無の表情で息を吐き出していた。
「……フゥーッ……フゥーッ……。皆さん、肺に酸素を溜めてはいけません。脳を酸欠の一歩手前に追い込むことで、会社のプロパガンダが心地よいBGMに聞こえてくるはずです……」
この「無意味エクササイズ」は、ストレスに病んだ社員や市民の心に深く突き刺さった。
「放課後・電子雀さえずりクラブ」が各地で開かれ、その講習が終わっても子供たちは近所の公園に集まり、誰が一番長く「フゥーッ!」と言えるかを競うのがキッズトレンドになった。
また主婦向けの「正しい空振り100選」の動画配信は連日更新され、皿洗いの空振り、掃除機がけや洗濯物を干す動作の空振りなど、日常生活のあらゆる動作を無効化する最新スキルが月額わずか980クレジットで習得できるコースが人気を博していた。
市街地では、若者を中心に「無意味カフェ」も大流行だった。
注文した料理が一切出てこないが、店員が目の前でエア・パスタを全力で茹でる姿を鑑賞しながら、客はエア・コーヒーを飲むのが粋でオシャレだと、スカイネットでバズって評判を呼んだ。
街中には当然のように非常識講座や教室が広がっていく。
かつて「効率」と「常識」に支配されていたドヤガイ・ゾーンは、今や、最も効率的に、無意味なことをするという、ねじれにねじれた熱狂の渦中にあった。
ギンジの店には、今日も新しい客が訪れていた。
それは、コモンセンス社の宣伝部長だった。
部長は血走った目でギンジに詰め寄った。
「ギンジさん、頼む!俺のチップから『目的意識』をデバッグしてくれ!最近、空振りをしている最中に『これで健康になれるかも』なんていう有意義な考えがよぎっちまうんだ!そんな不純な動機じゃ、ココア師範のようなピュアな無意味の境地には、とてもじゃないが到達できない!」
ギンジは、店内のモニターに流れている「ココア&サタケの無意味エクササイズ」を見ながら、冷笑して深くため息をついた。
「……あ~あ。ついには『無意味』がいちばんの贅沢品になってしもたんか。世も末やな。部長さん、あんた幸せもんやな。有意義なことに疲れて、わざわざ高い金払うてアホになろうとしとるんやさかいな」
ギンジがデバッグ・ケーブルを接続しようとしたその時、窓の外でカラスが鳴いた。
その鳴き声は、ココアの「フゥーッ!」という音にそっくりだった。
「……ま、ええわ。これだけ街中がアホだらけになりゃ、俺の商売も当分安泰や。つぎは『座っとんのに走っとると誤認するモジュール』でも開発して、フィットネス業界に殴り込みかけたろか」
ギンジは不敵に笑い、キーボードを叩いた。
ドヤガイ・ゾーンの空には、今日も市民たちの放つ「フゥーッ!」という吐息が、霧のように立ち込めていた。
一ヶ月後、ドヤガイ・ゾーンの景観は一変していた。
コモンセンス社が「無意味エクササイズ」にポイント制(無意味ポイント:NOP)を導入したため、市民たちはさらに血眼になって「より無価値な行動」に勤しんでいた。
いわば、市民の空虚なるゴールデンエイジである。
ココアとサタケは、いまやドヤガイ・ゾーンのインフルエンサーとして君臨していた。
「皆さん、まだ『目的』が指先に残ってますよ!」
かつて資材置き場だった超満員のスタジアムで、サタケが叫んだ。
「そのスパナの振り方……どこかに『ネジを締めたい』という未練がある!それは有意義じゃ!もっと魂を空洞に!空気を叩くつもりで振りましょう!」
数万人の聴衆が一斉に「シュバッ!シュバッ!」と、音速を超える勢いで空振りをすると、その風圧だけで、巨大なスタジアムの屋根が吹き飛びそうになるほどの熱気だった。
一方、ココアは「全日本・吐息フゥーッ選手権!」の審査員長を務めていた。
「……あなたの『フゥーッ』には、少しだけ『リラックスしたい』という意図が混じっていますね。不合格です。真の『フゥーッ』は、ただ二酸化炭素を排出するだけの、昆虫以下の存在になった時に完成するのです……」
もはや彼女は、かつての文学少女の面影を失い、貫禄すら漂わせた血色のよい「吐息の教祖」として崇められていた。
「ハイ!吐いて吐いて、長息ながいきロングブレス『フゥーッ』」
ギンジの店には、きょうも行列が出来ていた。
しかし、彼が今売っているのは「記憶消去」ではなく、さらに悪質な、最新の違法モジュールだった。
「……ええか、お客さん。これは『逆・達成感』プラグインやで」
ギンジが、怪しい緑色のチップを差し出す。
「これを入れるとな、宝くじに当たっても、愛を告白されても、脳ミソが『ドブに落ちた』時と同じくらいの、最悪な不快感を感じるようになるんや。逆に、財布を落としたり、上司に詰められたりしたら、脳内麻薬がドバドバ出て、絶頂の快楽を味わえるんやで」
「最高だ……!」
客の若い営業マンが、震える手でチップを掴んだ。
「今のドヤガイ・ゾーンで一番カッケーのは『最高の幸運を最悪の顔でスルーする』ことなんだ!こ、これで俺も、真のクールな無価値人間になれる!」
その客が去った後、モニターに映る繁華街での「無意味パレード」の様子を見ながら、ギンジは鼻で笑った。
「フン、まだ風呂屋行っとるほうがマシやな」
デスクのわきで、違法モジュール「アンチ・アチーブメント」がグリーンの鈍い光を放っていた。
コモンセンス社の上層部は、市民を巻き込んだこの事態を喜んでいた。
みなこぞって「無意味な空振り」に夢中になっている間、百姓一揆のような反乱の火種は消え去ったからだ。
……しかし、彼らは一つだけ計算違いをしていた。
全員があまりにも無意味になりすぎて、作業員の誰も肝心の製品を作らなくなったのだ。
工場のベルトコンベアの上で、ロボットの部品はただ通り過ぎていく。
工員たちは部品を手に取るが、それを組み立てる代わりに、部品に向かって「フゥーッ!」と息を吹きかけ、部品をハンマーで「空振り」して見送るだけになった。
生産ラインのグラフは垂直落下。
しかし、社員たちの満足度、NOPポイントは過去最高を記録していた。
「……社長。わが社の株価が『無意味』の極致に達し、0.0001クレジットになりました」
秘書の報告に、社長は震える手で「無意味エクササイズ」の公式スパナを握りしめた。
「……素晴らしい!ついにわが社は、自社利益も経済という檻からも解放されたのだ!全員、もっと空振れ!もっと息を吐け!」
今日の仕事を終えたギンジは、店のシャッターを下ろしていた。
外では、相変わらず全市民が「フゥーッ!」と合唱しながら、街中のあらゆる物を空振りし続けているから、とうとう物理的に街が壊れ始めていた。
「……アホらし。結局、常識をぶっ壊した先にあるのは、ただのバカ騒ぎやったわけやな」
ふと窓の外を見ると、電柱に3本足のカラスが一羽止まっていた。
カラスは、路上に落ちていた無意味ポイントの記念メダルをくわえると、それを空中でわざと離し、道路に落ちる寸前に羽根でつかもうとして「空振り」して見せた。
(……ギンジ、つぎは何を消去する? おまえたちが人間であるという記憶か?)
カラスがそう語りかけているようにギンジには思えた。
タバコに火をつけて、また紫煙を大きく吐き出した。
「……フゥーッ、そやな。それは、俺が最後に自分の電脳にチップ入れてやるヤツや」
ドヤガイ・ゾーンの夜は、きょうも意味のない音と、意味のない風に包まれて更けていった。🦅🌃✨
