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水琴窟🐠🌿

どこにも逃げ場のないような、容赦ない酷暑だった。

アスファルトは灼熱を照り返し、白昼の視界を白く焼き切ってしまう。

けれども、この地下水族館は、冷気と闇のなかに静まりかえっていた。
蒼い暗がりの中に、ぼんやりとした楕円形の光が幾つも浮かんでいる。
アクリルの向こうを過ぎる魚たちは、うまく水流を分けて泳ぎ、また岩の影に消えていく。

ーーーポン、ペチン、コン。

どこかで、水滴が落ちるような音が聞こえた。
湿った空気を揺らして消える。

ベンチの端に、若い女が座っていた。
膝の上で固く結ばれた細い指。

女は、水槽の向こう側を透かして見ている。

隣に腰掛けた男が、サイダーの冷たさを掌で確かめるように転がした。
プシュー、と小さく蒸気が抜ける音。

「……よく冷えてるな」

男が言った。
低い声が、壁の結露に吸い込まれていく。

「上は、四十度近くあったな」

「うん」

「ここはいい。誰もいないし、暑くもない」

女は返事をしなかった。
男は、ちょっと肩をすくめた。

「あのさ」

「なに」

「……寒天に、金魚が浮いてるやつ。好きだったろう。買って帰ろうか」

「……いい。いらない」

静寂が戻ってくる。

ーーーポン、ペチン、コン。

また水滴の音がした。

「あいつとは、もう終わったんだな」

男の声には、女を傷つけまいとする慎重さと、どう足掻いても上手く言葉を選べない不器用さが混ざっていた。

女は、ゆっくりと首を横に振った。

「終わったっていうか……」

向こうの水槽から聞こえてくるように、遠い声だった。

「最初から、なかったんじゃないかなって」

「なかった?」

「私と彼がいたこととか。付き合ってたこととか。……それだけじゃないの。自分がここに座ってるのかどうかも、よくわからないの」

男は、缶を握る手に少しだけ力を入れた。
かすかにアルミが歪む音。

「疲れてるんだよ。外が暑すぎたし、いろいろあったから」

「ううん、違うの」

女は顔を上げ、男を見た。
澄んだ眼は、ガラス玉のように見えた。

「さっきここへ降りてくるとき、階段の途中でふと思ったの。私、いつから階段を降りてたんだろうって。一歩前の私は本当に私だったのかなって。指先をこうやって動かすでしょ?」

女は細い人差し指を宙にかざした。

「動かそうと思って動かしてるのか、誰かが動かしてるのを見て『私が動かした』って思い込んでるだけなのか、区別がつかないの。ほんとに、いま、ここに居るのかな」

「なにを言ってるんだ。君は、ここに居るじゃないか」

男は手を伸ばし、女の肩に触れようとした。

けれどその手は、途中で止まった。
触れてしまえば、女の肩を透いてスッと消えてしまうのではないか?という思いが、胸をかすめた。

「ねえ」

「なに」

「この世界って、もう終わってるんじゃない?」

ーーーポン、ペチン、コン。

少しだけ、音が小さくなった気がした。

「終わってるって……外は暑いけど、みんなちゃんと生きてるぞ。車も走ってるし、店も開いてる」

「それは、残像じゃないかな」

女は静かに微笑んだ。

「ホントはこの世界、終わってる気がするの」

「終わってる……」

「さっきの、寒天の金魚みたいに」

「…….」

「あれ、きれいだけど、金魚じゃない」

「それは……」

「あれを見て」

女が指さした水槽を、大きなエイがゆっくりと滑り落ちていく。

「あの子たち、私たちがここを出たら、どうなると思う? 」

「さあ、そのままだろ」

「閉館したら、あの子たち、魚のままでいるのかな」

「生き物なんだから、人が見ていようがいまいが、ずっと生きてるよ」

「じゃあ、あなたはどうやって自分を証明するの?」

その言葉に重さはなかった。
羽毛が落ちてくるような、静けさ。

男は返事に窮した。
平衡感覚が、ゆっくりと輪郭を失っていく。

「……証明なんて、できないかもしれないな」

頭をかきながら、男は、ぽつりと言った。

「そうでしょ?」

「ああ」

男は、空缶を足元に置いた。
床に、コツンと軽い音。

「でも、君が哀しんでいるのは、たしかだ」

女がピクリと眉を動かした。

「世界が終わっていようが、ただの残像だろうが……君が傷ついてることだけは、嘘じゃない」

水槽の光が、女の横顔を淡く照らした。

ーーーポン、ペチン、コン。

「それって……すごく曖昧だね」

「ああ、寒天みたいに、突けばすぐに崩れちまう」

男は少し照れたように笑い、深く息を吐いた。

「もし、世界がただの幻で、もう終わっているんだとしたら、別れたことなんて、大したことじゃない」

女はしばらく、男の顔を見つめた。
それから、ゆっくりと膝の上に視線を落とした。

固く結ばれていた指が、少しだけ緩んだ。

「……ひどい慰めかた」

「すまん」

「ううん」

女は小さな溜息をついた。

「寒天の金魚……食べたくなったわ」

「え?」

「冷たくて、甘くて、口の中に消えるやつ」

「……うん。金魚ソーダ、買って帰ろう」

ーーーポン、ペチン、コン。

また水滴が、堕ちて弾けた。💧🏺





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