💠雨野川💠
リリコは、駅前のコンビニの軒下で雨宿りをしていた。
誰かが置き忘れたのか、傘立てのビニール傘が乱雑に刺さっている。
きょうはアパートに早く帰るよりも、リリコにとって大事な用があった。
月曜日の夕方5時半すぎにこの道を彼が通ることを、リリコは知っていた。
けれど、リリコが知っているのは彼の背中だけだった。
週に一度、この時間、水色のスリッポンを濡らしながら団地の方へ歩いていく、ちょっと猫背の男。
先週に商店街で買ったばかりの大きめの赤い傘を、リリコは胸元に抱いていた。
彼女がなぜ、わざわざ赤い傘を用意したのか……
彼に「可愛いな」と思われたいから――
そんな可愛らしい理由なら、まだ救いがあった。
リリコの内心は、もっと冷え冷えとしていた。
雨の日に、暗いアスファルトの上でいちばん映えるのは赤だろう、とリリコは思った。
彼が通り過ぎるその刹那、視界に飛び込ませるためのシグナルとして、リリコはこの傘を選んだのだった。
(私の存在を、彼の網膜に焼き付けるわ……)
5時38分前。
コンビニの自動ドアが開閉するたびに、レジわきのチキンの油の匂いを、湿った風が運んでくる。
駅前のロータリーから風鈴の音ような、自転車のベルのような音が、チリンと響いた。
ふいに雨音が不自然に変調した。
ザーザーという濁音から、古いレコードのチリノイズのような、どこか籠もった、モワッとした音響のエコーへと変わっていく。
歩道沿いに走る車のタイヤが弾く水溜まりの飛沫が、スローモーションのようにゆっくりと宙に弧を描いた。道行く人々は、みな立ち止まったままだった。
(……来たっ!)
リリコは狙い澄まして、赤い傘をパッと開いた。
予定どうり、あの猫背の彼が駅の階段から降りてくる。
リリコは、彼が自分の「赤」に気づいて視線をよこす瞬間を、息を潜めて待った。
でも、何かがおかしかった。
彼の足元には、いつもの水色のスリッポンじゃなくて、ぬいぐるみのような大きなカタツムリが吸い付いていた。
いや、彼自身が、歩道橋の影からじわじわと滲み出てくる透明なゼリーのような、湿気た粘膜に包まれているように見えた。
「ちがう、、、いままでのあの人じゃないわ.…..」
リリコが口元に手を充てて息を呑んだ瞬間、男は機械のような正確さで首を真横に曲げ、リリコの赤い傘を凝視した。
その眼は、水まんじゅうのようにプルプルと濡れている。
「待っててくれたんだね!」
男の声は、すぐ耳元で囁かれたようにウェットに響いた。
距離はあるはずなのに、二人の間だけ、すべての気圧が水に満たされているようだった。
「あなた.…..だれ?」
「アルタイルだよ。連れ合いの顔も忘れたのかい?」
「いえ、そんなつもりじゃ.…..」
「だって、それは僕を呼ぶためのアンテナだろ?君が呼んだんじゃないか。その赤いアンブレラで」
男は、真顔でそう言った。
上からの頑固な兄ような口調だったけれど、声だけは、雨の底から響くチェロのように甘かった。
「いいえ違います、これはただの傘で、私はあなたを――」
「オリヒメレッドは発信のサインだよ。僕たちの星ではね」
リリコが怯えて一歩下がると、背後のコンビニの自動ドアが「ペコン」と音を立てて歪み、折り紙のように店舗まるごと綺麗に折り畳まれて、壁の中に消えた。
そのあとに残るのは、延々と続く舗道の植え込みと、雨に煙るコンクリートの壁だけだ。
月曜日だったはずの空は、いつの間にか、ねっとりとした雨の水曜日の濃紺色に染まっている。
「さあベガ、もう帰ろう、天野ヶ原へ。あそこにはカササギにそっくりな橋があるんだよ」
そう言って男が手を伸ばす。
その指先から、ポツリ、ポツリと、赤い雨が滴り落ちていた。
「駅のむこうに、笹舟を待たせてあるんだ。さあ」
リリコは自分の差している赤い傘を見上げた。
違う。傘が赤いんじゃない。
傘の骨を伝って、どろりとした赤いものが、リリコの頭の上へ、こころの中へと、ゆっくり溢れ出そうとしていた。
リリコは、自分がなぜこの場所で彼を待っていたのか、やっと思い出した。彼のことが好きだったのか嫌いだったのか、その理由も蘇ってきた。
けれど、それ以外のことは、なにも覚えていなかった。すべてモワッとした雨雲の彼方へと流れていくのを感じていた。
ただ、男の差し出す手のひらが、ひんやり冷たくて、アイスみたいに美味しそうだと、それだけをぼんやり思っていた。
気づけばリリコの靴は、洪水のような雨水の流れの中に浸っていた。
けれど、濡れた靴も靴下も、それほど気持ち悪くはなかった。
だんだんと、雨のシャワーを浴びているような心地良さが広がっていく。
植え込みからアスファルトに落ちたアジサイの花が、雨水に押し流されて折り重なるように排水溝にたまると、今にも動き出しそうな花の塊をかたち作って、じっとこちらを見上げていた。
(キョウモ アシタモ ズット ヒメサマノ オソバニ.…..)
ひときわ蒼く光るあじさいの声が、リリコの頭の中に響いた。💠☂️
