大人の「現代文」143……『山月記』6 一般には理解されない李徴の苦悩
寓話に隠された真実
しかし、李徴が「人生の不条理」に死を思ったその瞬間、彼の思いはもっと強烈な「今を生きる現実」の前にかき消されます。目の前を一匹のウサギが駆けすぎたのでした。この瞬間李徴はホントに100%「ウサギを捕食する虎と化した」のです。
以来この告白をする今まで、どんな所業をし続けてきたかそれはとうてい語るに忍びない(彼の前科はうさぎだけではありません)と彼は言います。だから、彼は最終的には自分を許せないのでしょう。また許すつもりはないのでしょう。でも、その彼が最も恐怖するのは、自分が犯した罪なる所業より、そのことを苦悩する「人間としての心を喪失すること」だと言うのです。
彼は叫びます。
おれのなかの人間の心がすっかり消えてしまえば、おそらくその方がお
れは幸せになれるだろう。だのに、おれのなかの人間は、そのことをこ
のうえなく恐ろしく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐ろし
く、哀しく、切なく思っていいるだろう!おれが人間だった記憶のなく
なることを。この気持ちは誰にもわからない。誰にもわからない。おれ
と同じ身の上になった者でなければ。
虎に化した変身譚(という一種のエンタメ性ゆえに)、この叫び、今ひとつリアリティが乏しくなります。表向きの寓話性の故に真実性が削がれてしまうように私には思えるんです。ここで李徴は気も狂わんばかりに(いや……狂っていたのか)絶叫しているにもかかわらず、その苦悩が共有しづらいのはいかんともしがたいです。でもここ、「人間」という我々日本人の最も大切にしている概念を喪失するとどういう苦悩をもたらすかを、モロに、素直に語っている実に希有な文学的場面だと私は思うのです。
つまりこの小説、寓話に託して、ほとんどギリギリの人間の倫理の危機的状況を語っている一種の哲学小説なのです。いまや死語になりつつある「純文学」小説だからこそ成り立つ世界でしょう。
だからこそまた彼はこう言うのです。繰り返しますが、
この気持ちは誰にもわからない。誰にもわからない。おれと同じ身の上
になった者でなければ。……と。
