台湾映画「霧のごとく」
浜大津のアーカスに「阿里山」という中華料理店があったのを覚えている人はどれくらいいるだろう?
阿里山は台湾にある山の名前。その山を擁する街、嘉義は阿里山へ登る時の起点でもある。標高が高い阿里山近くに泊まると、朝には霧がおりてきて、たっぷりと水分をたたえた澄んだ空気と共に目の前に白いベールがかかる。
台湾映画の「霧のごとく(原題「大濛」)」の主人公、阿月の故郷は、その嘉義である。
物語の舞台は第二次世界大戦少し後の台湾。白色テロで兄を亡くし、孤児になった妹が、兄の遺体を引き取りに形見の腕時計を持って台北に行く話。途中、悪い大人に騙されたりしながら、公道という若い退役軍人と共に過ごす数日間が描かれている。
これは「祝宴シェフ」や「1秒先の彼女」など、比較的コメディ色強めで食べ物を美味しそうに撮影する監督が挑んだ、重めの時代を描いた作品。
蒋介石が中国から台湾に来てからの言論弾圧が厳しかった時代の市井の人々を、監督ならではの軽やかさで描いていて、だからこそ、人々の逞しさや生きること、食べること、振るわれる様々な形の暴力や理不尽さがより鮮明になっている気がした。
主人公を助けた退役軍人である公道は、中国南部から兵隊として台湾に来た後、上司がスパイだったことで自身もスパイ容疑をかけられ、中国に帰れなくなっている。
このような人々が集まって住んでいる村や、阿月の故郷である嘉義の村、警察などの公的機関など、場面によって台湾語や中国語(北京語と広東語?)といった複数の言語が入り混じる。
この時この人が台湾語である理由、広東語である理由、北京語である理由に都度都度はっきりとした意味を感じた。言語は単なる道具ではなく、それぞれのアイデンティティに紐付いた個人の歴史でもあり、その瞬間瞬間に担っている役割の象徴でもある。
外省人(祖先が近代に中国大陸から来た人)が必ずしも権力者や悪者とは限らず、本省人(昔から台湾に住む人)の中にも様々なグラデーションがある。
泥棒も時には主人公を助けてくれたりするし、公道も必要に迫られれば平気で人を殴るし、遺体を見ても何とも思わないあたりに、厳しい環境を生き抜いてきた過酷さを感じずにはいられない。一人一人が皆、異なる混沌の中にいる。
長いスパンで人生を描くことがままならない時代、その日その日をどうにか生き延びる市井の人を、正義や悪、白や黒の二項対立させずに描いている感じがとても良かった。
私としては、「人は異なる考えを持つものを恐れて殺したがる、だけど勇敢であれ。辛い時は遠い未来を想像して」という主旨のことを兄が妹に言うシーンがめちゃくちゃ刺さった。
暴力シーンがトリガーになったのか、私は途中、パワハラに耐えていた頃の自分を重ねて見ていた。異国の軍事統制下の話なのに。
人間の普遍的な部分には、こういう邪悪な部分もあって、それはこれまでもこれからも変わらないのかもしれない。
人は時に、権力を持つことでバグったり、不安や嫉妬にかられたり、他人を支配したり搾取することが自分の権利であると勘違いしたり、権力側におもねることで自分も強い側になったと思い込むことがある。そして世の中、勧善懲悪とは限らない。
だけど、勇敢であろうとする人もいる。善悪のグラデーションを行き来しながらご飯を食べて、一日一日を生きていく。そのたくましさこそ希望でもある。
※この映画「霧のごとく」は6/2現在、京都シネマでは6/11まで上映予定。Netflixでは原題「大濛」として放映中。
