ショートショート つんどく
田中は、四十二歳になった年から本を読み始めた。
きっかけは些細なことだった。
職場の後輩が「人生変わりますよ」と言って、自己啓発書を押しつけてきたのだ。
渋々読んだが、確かに何かが変わった気がした。気がした、というのが重要で、実際には何も変わっていなかった。
ただ、次の本が読みたくなった。
最初はわかりやすいところから入った。
カーネギー、コヴィー、アドラー。
読むたびに「これだ」と思った。
線を引き、ノートに書き写し、職場でもうっかり語ってしまった。
同僚たちが少しずつ席を遠ざけたが、気にしなかった。
半年後、物足りなくなった。
もっと深いところへ行かなければ、と思った。
ニーチェを手に取った。「神は死んだ」というフレーズを読んで三日間考え込んだ。
結論は出なかったが、なんとなく賢くなった気がした。
次にカミュ。不条理という概念に打ちのめされ、一週間ほど会社でぼんやりした。上司に呼ばれたが、「実存的危機です」と答えたら、産業医に回された。
産業医の先生は穏やかな人だったが、田中の話を聞きながら微妙な顔をしていた。
「幸せを探しているんです」と田中は言った。
「今、幸せじゃないんですか?」
「それがわからないんです。わかってから幸せになろうと思って」
先生は少し黙ってから、「運動でもしてみては」と言った。
田中は傷ついたが、帰り道に「運動と幸福に関する科学的研究」について書かれた本を三冊注文した。
一年が経つころには、本棚が二つになっていた。
東洋哲学に転じた時期もあった。
老子を読んで「無為自然」に感動し、二週間ほど何もしないことを試みた。家が荒れた。
荘子に進むと、夢と現実の区別がつかなくなってきた気がして少し怖くなった。
仏教の本では「欲望を手放せ」と書いてあったので、欲望を手放す方法を調べる本を十冊買った。
妻が「あなた、何か変わった?」と聞いてきた。
「変わってきてるよ」と田中は自信を持って答えた。
「そう」と妻は言い、それ以上何も言わなかった。
二年目に入ると、田中は読んで自分の考えをまとめるノートをつけ始めた。
「今日の気づき」という欄を設けたが、気づきが多すぎて一日に何ページも埋まった。
読書のための読書ノートが必要になり、それをまとめる週次レビューが必要になり、月次レビューが必要になった。
本を読む時間より、本を読んだことを整理する時間が長くなった。
三年目のある朝、田中は本棚の前で立ち尽くした。
ざっと数えて三百冊はある。哲学、心理学、宗教、科学、文学。
人類が数千年かけて積み上げた知恵が、ここに圧縮されている。自分はそれをすべて読んだ。線も引いた。ノートにも書いた。
だが、という声が頭の中で響いた。
だが、何だ?
幸せか、と自問した。
わからない、と自答した。
その日の夜、妻が「今日ね、スーパーでたこ焼き売ってたから買ってきたよ」と言った。
田中は食べた。
熱くて、少し甘くて、ソースの匂いが良かった。
「おいしいな」と言ったら、妻が笑った。
その30秒間だけ、田中は何も考えなかった。
翌日、田中は「なぜたこ焼きが幸福感をもたらすのか」というテーマで本を探し始めた。
神経科学と食の関係についての書籍を中心に、四冊注文した。
本は、三日後に届いた。
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