小説 月影病棟の記録
第一夜:頭皿の融解
あれは、満月が異常に膨れ上がった夜のことだった。
私は長年、芥川龍之介が狂死の直前に見たという「河童の世界」の境界線を探していた。彼が名作『河童』を書いたのは単なる風刺ではない。
精神を病むプロセスの中で、本当に「それ」と接触してしまったのだという確信があった。私は芥川が這い回ったとされる川辺に、泥をすするような思いで足繁く通い、ついにその夜、野営を敢行した。
焚き火の爆ぜる音が、だんだん人間の骨が折れるような音に聞こえ始めた頃だ。
背後に、じっとりとした湿気を感じた。
振り返ると、そこに「それ」がいた。
緑色の皮膚は腐った魚の腹のように澱み、頭頂部の皿には、ドロドロに濁った川水がなみなみと湛えられている。
「月が、綺麗ですね」
私は恐怖を押し殺し、夏目漱石のそれではなく、単なる生存本能の懇願としてそう声をかけた。河童は、人間の粘膜を引き裂くような低い声で笑った。
「あぁ、全く。人間の脳漿が沸き立つには、絶好の夜だ」
それが、すべての始まりだった。
彼は私のすぐ隣に座り、皿の中の液体を指でかき混ぜながら言いました。
「君の探している真実は、この川底の泥の中にある。何度も満月を迎え、脳の皿を満たす覚悟があるなら、見せてあげよう」
私は、その濁った瞳に吸い込まれるように、深く頷いてしまった。
第二夜:四つの壊れた器
次の満月。私の視界はすでに狂い始めていた。川辺の草むらから、さらに四匹の「それら」が這い出してきた。彼らはもはや、お伽話の住人ではなかった。
最初に近づいてきたのは、異様に肥大化した肉体を持つ個体だった。
そいつは、ぶよぶよとした自分の腹を爪で掻きむしり、皮膚を剥がしながら、おっとりとした声で囁いた。
「芥川の肉も、これくらい柔らかかったよ。彼はここで、自分の内臓を一つずつ引き抜いて、我々に差し出したんだ」
次に現れたのは、関節が逆に曲がった、細長い手足の個体。
そいつは木々を見上げるように首を不自然に傾げ、気取った口調で骨を鳴らした。
「そうさ。人間社会なんてものは、ただの家畜小屋だ。芥川はそれに気づいて、自分の頭蓋骨を叩き割って、中身を外にぶちまけた。それが彼の文学さ」
さらに、口が耳元まで裂けた個体が、私の鼓膜を突き破らんばかりの早口で喚き散らす。
「ねえ知ってる!?芥川はね、自分が人間であることに耐えられなかったんだよ!首を吊るか、毒を飲むか、河童になるか!彼は河童を選ぼうとして、半分だけ失敗して死んだんだよ!ギャハハ!」
最後に、最も小さな、しかし眼球だけが異常に巨大な個体が、私の足元に泥を吐き出しながら呟いた。
「次は、お前の番だ。光も闇も、全部この皿の中で混ぜ合わせてしまえば、楽になる」
私は彼らの言葉を聞きながら、頭頂部がじりじりと熱くなるのを感じていた。彼らが呼ぶ「月影」という場所へ行けば、私も芥川と同じ領域に到達できる。そう信じて疑わなかった。
第三夜:水底の亡霊
三度目の満月。川面から立ち上る霧は、もはや呼吸を困難にするほど濃かった。
私は「月影」と呼ばれる、水面と地面の境界が消滅した空間に立っていた。
私の足元から伸びる影は、いつの間にか私自身の形をしていなかった。それは四足歩行の、頭の凹んだ化け物の影だった。私はそこで、自分がこれまで目を背けていた「狂気への恐怖」と完全に同化した。
霧の向こうから、一人の男が歩いてきた。
ひどく痩せ細り、着古した浴衣をまとった男。芥川龍之介だった。
彼の顔には、目も鼻もなかった。ただ、額のあたりがぽっかりと陥没し、そこから緑色の液体が滴り落ちていた。
彼は、私の脳内に直接響く声で囁いた。
「君も、こちら側へ来たのだね。人間の言葉は、もうすぐ意味をなさなくなる。この乾きを、水で満たせ」
彼は冷たい手で私の頭頂部を触った。その瞬間、私の頭蓋骨がペコリと凹み、冷たい川水が流れ込んでくるような強烈な快感と悪寒が私を襲った。私は、自分が「完成」したことを悟った。
手紙:白い檻からの呼び声
拝啓
この汚れた紙切れを拾ってくれた、幸福で哀れなあなたへ。
私は今、四方を柔らかい白い壁で囲まれた、窓のない部屋にいます。服には袖がなく、後ろで縛られています。医者という名の河童たちが、毎日私に透明な毒を注射しにきます。彼らは、私があの川辺で自分の頭を石で激しく打ち付け、血を流しながら泥をすすっていたと言います。芥川も河童も、すべては私の脳が作り出した「妄想」だと、あの冷たい目で笑うのです。
でも、見てください。
今、この部屋の天井には、爛々と輝く満月が浮かんでいます。
ほら、「太っちょ」が私のベッドの下で、自分の皮膚を食べる音が聞こえます。「ノッポ」が天井の隅で、蜘蛛のように張り付いて私を見下ろしています。「おしゃべり」は私の耳元で、芥川の遺書を逆再生でずっと唱え続けています。そして「物静か」は、私の頭の凹みに、ゆっくりと冷たい水を注いでくれている。
彼らは実在します。私の中に、完全に根を下ろしたのです。
お医者様は私を狂人と言います。お医者様は私を狂人と言います。お医者様は私を狂人と言います。でも私は知っている。あの川底こそが、私の本郷(ふるさと)だ。もうすぐ、この白い壁がふやけて、泥に変わる。
もしあなたが今夜、満月を見上げるなら、どうか自分の頭頂部を触ってみてください。
少し、凹んでいませんか?
もしそうなら、耳を澄ましてください。川のせせらぎの向こうから、私たちがあなたを呼ぶ声が聞こえるはずです。恐れることはありません。こちら側は、とても冷たくて、気持ちがいいですよ。
さあ、
さあ、
さあ、
水底で、お待ちしています。
敬具
あなたを中から見つめる者より
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