夏が終わる前に
今年の夏は、北九州の祭りを中心にかなりの枚数の写真を撮り、noteに記事を投稿した。祭りを通して浮かび上がってくるものの中に、日本の精神文化を知る手がかりが潜んでいる。カメラのファインダーを通して見えてくる世界は、目に見える光景以上に被写体そのものが持つエッセンスを際立たせてくれるように感じた。
8月も終わりに近づき、久しぶりに雷雨も降った。雨音を聞いて、そういえば、今年はいつも季節ごとに出かけている地元の植物公園にまだ行っていなかったということに、はたと気づいた。
この公園に来る度に、いつも思うことがある。ここでは季節の進行が街中よりもずっと早く進んでいる。繊細な季節の移り変わりを先取りしているのだ。
街中ではまだ34度を超える厳しい暑さが続いているというのに、ここではもうすでに夏が終わろうとしている。あちらこちらで草木の葉が枯れ、涼し気な秋の風が吹き、秋の白い陽射しが降り注いでいる。暑さの中に秋の気配がすでに漂い始めていた。


春分から秋分までが、自然界の「成長の半年」としたなら、秋分から春分までの半年は「休息の半年」と言える。
膨大な地球の歴史から見たら、それは人間の「一呼吸」のようなものかもしれない。
吸気と呼気。
それはすべての生き物がもつ偉大な神秘であり、奇蹟だ。
人間が生まれたとき、まず息を吸って人生が始まる。
死ぬ間際、最後は息を吐くことで人生が終わる。
この生と死の間に、呼吸は一回も止まることなく繰り返されている。
成人の場合、一日の呼吸回数は約2万回前後。
一年では約730万回。
日本人の平均寿命が約84歳なので、生涯の平均呼吸数は約6億1,320万回ということになる。
身体の自動システムによって、私たちは日常生活すべての時間を呼吸に気を取られずに、様々な思考活動や身体行動に集中できる。就寝中も呼吸を忘れて、睡眠と夢見に没頭することができるのだ。

この吸気と呼気に注意深く意識を向けると、そこには味わい深い神秘性と美しさが潜んでいることが分かる。
鼻から息を吸う。すると、涼し気な風が鼻腔や喉元を通り抜け、気管支から肺の中へと入っていく。横隔膜が押し下げられ、お腹が膨らんでいく。大きく広がった肺はピークを迎えるとすぐに収縮し始め、ほのかに温かい二酸化炭素を排出する。
酸素を取り入れるだけでなく、吸気の時には交感神経が活性化され、呼気の時は副交感神経が優位になる。この繰り返しによって自律神経のバランスが維持される。
吐く息と共に、ネガティブな感情を解放し、身体の緊張を緩めることも起こる。
こうした呼吸のグラデーションは、すべて1/fゆらぎがもたらす心地よさを含んでいる。脳はこの不規則な強弱を感知すると、深い安心感を覚えるようにできている。
たった1回の呼吸の中に、これほど彩り豊かな「内的風景」が広がっているということに気づけたなら、もう「人生で大きなものを取り逃している」という焦燥感や欠乏感からは、一歩抜け出すことができるに違いない。
毎日の生活の中で2万回も繰り返されているこの「静寂の彩り」は、いつでも、どこにいても、私たちが意識を向けるだけで瞬時にアクセスできる無料のサンクチュアリ(安らぎの場)なのだ。


呼吸によって思考活動も活性化される。その逆に、意識的に数十秒間息を止めただけでも、思考ができなくなることがよく分かる。
この吸気と呼気の間にある折り返し地点では、それぞれインターバルとしての瞬間的な「静止点」が繰り返される。
この静止点では、交感神経(吸気)と副交感神経(呼気)の切り替えが一時的に停止し、自律神経系が緊張からもリラックスからも解放されるニュートラルな状態になる。
この呼吸の動きが止まる静止点では、脳への波立つような刺激が途切れ、思考の雑念が一時的に静まる。その一瞬の「間」の中で、思考のない「純粋な意識状態」を体験することができる。
カメラのシャッターもまた、息を吐き切った静止状態で切るのがよいとされている。それは緊張でもリラックスでもなく、覚醒した状態で被写体の美と同調できるからではないだろうか。

このような呼吸の度に繰り返される2回の静止点は、生涯の平均呼吸数が約6億1,320万回ということからすれば、その倍の約12億回以上も無意識のうちに経験していることになる。
この静止点は地球環境に当てはめてみれば、「秋分・春分」のようなものと言えるだろう。
昼と夜とが同じ時間になること。それは夏でもなく冬でもなく、どの季節にも属さない中間点を指し示している。
日本の仏教では、春分・秋分を挟む7日間を「お彼岸」と呼んでいる。太陽が真東から上り真西に沈む。その日は、此岸(この世)と彼岸(悟りの世界)が最も通じやすくなる時期とされ、修行や先祖供養が行われてきた。
実際に、昔の修行者の中で光明を得た人たちの多くは、このお彼岸に目覚めることが多かったという。


呼吸における2回の静止点は、意識のベースにある「静寂」を知るためのまたとない機会だ。
呼吸の合間にある静寂に敏感になると、私たちは思考と思考の狭間、言葉と言葉の合間、音楽が生まれるベースにある静寂、雑踏の中にある安らぎ、移り変わる季節の中にある沈黙など、生のあらゆる瞬間に潜む「存在の美」をより深く感知できるようになる。
「静寂」は、事象の背後にある「真・善・美」の別の側面を映し出している。この静寂こそが、自然界の事象と人間の純粋意識との分離感を解消し、二元性の背後で共鳴し合うための通路を開いてくれるのだ。
現代社会の狂騒が、生きる不安や恐怖から逃れようともがいているように見えるのは、呼吸の狭間にある静止点から目を背け、ひたすら息を吸うことばかりに意識が向けられているからではないか。
豊かさを追い求めることによって「得られるもの・蓄積できるもの」が幸福の尺度になり、人生の勝利と謳われる。だが、それは息をひたすら吸い続けているようなものだろう。

吸気の後に続く静寂は、誕生直後の最初の吸気を彷彿とさせるような瑞々しさ、明るさ、躍動感が漲っている。
その一方で、呼気の後の静寂は、深い安堵、虚無への入り口、死を連想させるような暗闇が静かに開いている。 だが、地球に昼と夜とがあるのと同じように、その吸気と呼気の二面性はコインの裏表に過ぎない。
地球が自転しながら、淡々と昼を迎え、ただ厳かに夜へと沈んでいくように、私たちもまた、一日に2万回の日没と日の出を休むことなく繰り返している。
吸気の後の「光の静寂」で再生し、呼気の後の「闇の静寂」で一旦死を迎える。私たちは一生のうちに6億回、生と死を繰り返す旅をしている。
それは人生という壮大な交響曲の「クレッシェンド(漸強)」と「デクレッシェンド(漸弱)」の繰り返しだ。
肉体の「死」とは、人生の最期に突然やってくる最大の不幸でも最悪の恐怖体験でもない。毎瞬繰り返される「闇の静寂」の延長線上に訪れる、壮大な交響曲の「モレンド(消え入るように)」なのだと思う。


人は生涯を終えるその瞬間、最後に息を吐くことによって、存在の大いなる静止点へと導かれていく。
その先に待ち受けているのは、この世に生き続ける重荷から解放され、人生経験から学んだ魂の教訓を携えて、新たな次元へと旅立っていくことなのだろう。
ものごとの大小にかかわらず、この世に生きている間に出会う様々な美や崇高さに対する「感動・喜び・至福」といった経験は、人生の恩寵として訪れるだけでなく、いわば死に対峙したときに忽然と現れる永遠性を感知するための「予行演習」のようなものなのかもしれないと思う。
北九州市 白野江植物公園



























A Heart Full of Spring
Franz Gordon
いつもありがとうございます

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