ベルクソン哲学を巡るChatGPT5.6との対話
私のクエリ(以下Q):平井靖史『はじめてのベルクソン』内容解説
GPT回答(以下A):
平井靖史『はじめてのベルクソン――時間をひらく哲学』(講談社現代新書)は、2026年8月刊の新しいベルクソン入門です。全体構成を見ると、単なる「ベルクソンの思想史的紹介」ではなく、ベルクソンの四大主著を一本の時間哲学として再構成する本になっています。256頁で、第一章+四大主著に対応する四章+終章という非常に明快な構成です。
中心命題を一言で言えば、
時間とは、出来事がその中で起こる容器ではなく、出来事・自己・生命・社会が「生成すること」そのものである
というベルクソン像です。これは平井が従来から展開している「ベルクソン=時間の哲学者」という読みを、一般読者向けに全面展開したものと見てよいでしょう。
1 第一章「時間という『型』を解きほぐす」
ここが全体の導入です。
われわれは普通、時間を「過去―現在―未来」という一直線の軸として考え、時計によって計測できるものとみなします。しかしベルクソンにとって、これはすでに時間を空間化した結果です。
たとえば、
10:00 → 10:01 → 10:02 → 10:03
という時間は、各瞬間を横に並べています。ところが実際に経験される時間では、10:02になった瞬間に10:01が完全に消滅するわけではありません。直前までの経験を引きずりながら現在が成立しています。
したがって、
時間=点の列
ではなく、
時間=過去を抱え込みながら自己変容していく持続
として考え直す必要がある。
この最初の転換が、以下の自由・記憶・生命・社会をすべて貫きます。版元紹介でも、本書の目的は「時間を外から測り、急かし、管理する枠」から「私たち自身を内側から変えていく力」へと見方を変えることだと説明されています。
2 第二章「自分を生き直す――『試論』が開いた自由の地平」
ここではベルクソン最初の主著『意識に直接与えられたものについての試論』(一般に『時間と自由』)を扱います。
重要なのは、ベルクソンの自由論が、
決定論 vs 非決定論
という通常の対立からずれていることです。
「ある瞬間tで、AもBも選択可能だったか」という問い方そのものが、すでに時間を点として切り出してしまっています。
ベルクソン的には、決断する「私」は、それまで生きてきた全過去を含んでいます。しかも、その私自身が時間の中で変化している。
したがって自由な行為とは、
原因から切断された偶然的選択
ではなく、
持続してきた人格全体から行為が生まれること
になります。
ここがベルクソン自由論の独特なところで、「別様にできた可能性」を自由の核心とする現代的な自由意志論とはかなり違います。
3 第三章「私と世界を時間でつなぐ――『物質と記憶』が描く持続のスペクトル」
おそらく哲学的には本書の中心部です。
『物質と記憶』では問題が「私の内的時間」から世界そのものの時間性へ拡張されます。
鍵になるのが、
知覚
身体
記憶
純粋記憶
現在
過去
の関係です。
通常なら、過去は「現在の脳内に保存された情報」と考えたくなります。ところがベルクソンはこれを根本から疑う。
純粋過去は単なる現在の痕跡ではなく、過去そのものとして存続する。現在とは、その巨大な過去の全体から、現在の行為に必要なものが現働化する局面です。
ですから、
過去 → 消滅 → 記憶痕跡として保存
ではなく、
過去そのものの存続 → 現在への縮約・現働化
という構造になります。
平井が長年研究してきたのがまさにこの問題で、2018年の共同研究『ベルクソン『物質と記憶』を再起動する』でも「ベルクソンにおける現働的なものと潜在的なもの」「時間は何を保存するか」などが中心問題になっています。
以前話題になった**「純粋過去=純粋潜在性」**という問題に最も直接接続するのは、当然この第三章です。
ただしベルクソンの場合、純粋過去は単なる「まだ現実化していない可能性」ではありません。むしろ過去としてすでに存在しながら、現在には現働化していない virtual な存在様態です。この区別はかなり重要です。
4 第四章「生命の創造性を解き明かす――『創造的進化』が捉える進化のからくり」
ここで時間論が生命論になります。
ベルクソンにとって本当の時間が存在するなら、未来は完全には既定されていません。
未来がすでに決まっていて、時間がそれを順番に上映するだけなら、時間には実質的な意味がないからです。
したがって、
持続 → 新しさの生成 → 創造 → 生命進化
という連続性が出てくる。
有名な「生命の躍動(élan vital)」も、神秘的な生命エネルギーとして読むより、
生命が既成の可能性を単に実現するのではなく、進化する過程そのものによって新しい可能性を作り出す
という時間論的原理として読む方が重要になります。
つまりベルクソンにとって「可能性が先にあって現実化する」のではなく、しばしば現実の生成によって、何が可能だったのかが事後的に成立する。
ここは現代の生成論・創発論とも接続しやすい部分です。
5 第五章「社会地形を書き換える――『道徳と宗教の二つの源泉』がひらく人類の未来」
最終主著では時間論が社会・倫理・宗教へ展開されます。
ベルクソンの有名な区別である
閉じた社会/開かれた社会
静的宗教/動的宗教
が中心になります。
閉じた社会は、既存の秩序を反復・維持する方向に働く。それに対して開かれた道徳や動的宗教では、聖者・神秘家・創造的人格によって、それまで存在しなかった新しい生の形式が開かれる。
ここでも根本構造は同じです。
既成秩序の反復
vs.
時間の中から新しいものが創造されること
したがって『二源泉』は、前期ベルクソンから離れた倫理・宗教論なのではなく、むしろ持続と創造という時間哲学を人類史にまで拡張したものとして位置づけられます。実際、本書の章構成自体が『試論』→『物質と記憶』→『創造的進化』→『二源泉』をこの順序で一本につないでいます。
本書全体を一本の線にすると
かなり圧縮すれば、
持続
→ 自由な自己
→ 記憶を含む世界
→ 創造する生命
→ 開かれていく社会
です。
つまり平井は、ベルクソンの四大主著を別々のテーマとして紹介するのではなく、
「時間が本当に実在するなら、世界はどういう世界でなければならないか」
という一つの問いへの段階的回答として読ませようとしている、と考えると非常に分かりやすい。
これは平井の前著『世界は時間でできている――ベルクソン時間哲学入門』(2022)の問題意識を、四大主著の全体像へ整理し直した一般向け入門、と位置づけることもできそうです。平井自身の研究は近年、「持続」を現代時間論・心の哲学・科学との接点まで拡張しています。
そして、これまでの話題との関連で言えば、特に読むべきは第三章でしょう。そこで扱われる「過去は現在の中に記憶表象として存在するのではなく、過去それ自身として存続する」というベルクソンの異様に強い存在論は、先日検討した「純粋過去はどのレイヤーにあるのか」という問題にそのまま直結します。第四章に進むと、それがさらに「未形成の未来/新規性の生成」の問題へ反転します。
Q:第三章詳解
A:
第三章「私と世界を時間でつなぐ――『物質と記憶』が描く持続のスペクトル」は、本書の中でも平井靖史自身の研究が最も濃く反映されている章と考えてよいでしょう。『物質と記憶』そのものが、身体・知覚・記憶・純粋過去・物質を通じて心身問題を組み替える書物であり、平井は長年これを現代の時間論・心の哲学と接続して研究してきました。
ただし、現時点でウェブ上から確認できるのは章題と書籍紹介が中心なので、以下では第三章の逐語的要約ではなく、『物質と記憶』と平井の既発表研究から第三章の論理を再構成して詳解します。
1.出発点――「心」と「物」を最初から二つに分けない
『物質と記憶』の通常の紹介では「心身二元論」が前面に出ます。実際、原著は身体、記憶、精神、物質という順序で進みます。
しかしベルクソンの面白さは、
精神=内面/物質=外界
という二分法から始めないところにあります。
最初にあるのはイマージュ images の総体としての世界です。私の身体もそのイマージュの一つです。ただし身体には特殊性がある。他のイマージュから刺激を受け、それに対して何らかの行為を返す「不確定性の中心」だからです。
したがって知覚とは、世界を頭の中にコピーすることではない。
世界 → 感覚入力 → 脳内表象
という表象主義的モデルではなく、
世界そのものの中から、身体の可能な行為に関係する部分が選択される
という構造になります。
ここですでに「私」と「世界」の境界が弱くなっています。
2.知覚とは「世界が私の中に入ること」ではない
この点はかなり重要です。
ベルクソンでは、純粋知覚は基本的に対象の側にある。
たとえば目の前に机があるとき、「机そのもの」と「脳内に作られた机の表象」という二重化をまず置かない。
世界にはすでに無数の因果的作用関係があります。その中で身体が、
私はこの対象に対して何ができるか
という観点から世界を切り取る。
したがって知覚は、情報を追加するというよりむしろ減算です。
世界そのもの
↓
身体との行為関係による選択
↓
知覚世界
となる。
平井らのベルクソン研究が『物質と記憶』を現代の知覚理論・認知科学・アフォーダンス論と接続してきた理由もここにあります。実際、平井編『ベルクソン『物質と記憶』を解剖する』では「ベルクソン、ギブソン、そして外界のイメージ」「ベルクソンと生態心理学」などが配置されています。
3.しかし「純粋知覚」だけでは現実の知覚にならない
ここから記憶が入ってきます。
私たちは現実には純粋な現在だけを知覚していません。
たとえば「これは犬だ」と見るとき、その瞬間にはすでに過去の経験、犬というカテゴリー、以前見た犬、身体的習慣などが介入しています。
したがって現実の知覚は、
現在の知覚 + 過去の記憶
です。
ただし、この「+」を普通の情報処理モデルのように考えるとベルクソンを取り逃がします。
ベルクソンが問題にするのは、
そもそも過去はどこにあるのか?
だからです。
4.決定的転換――過去は「脳内に保存されている」のではない
ここが第三章最大の形而上学的ポイントでしょう。
常識的モデルは、
出来事 → 脳に記憶痕跡を形成 → 保存 → 想起
です。
ベルクソンはこれを否定する。
脳は基本的に現在の行為を組織する器官であって、過去全体を貯蔵する倉庫ではない。
そこで恐ろしく強い主張が出てきます。
過去は過去そのものとして保存される。
つまり、
過去 → 消滅
ではありません。
むしろ、
現在だった出来事 → 過去として存続
する。
平井の研究でもこの点は一貫して中心問題であり、論文タイトルそのものが「時間は何を保存するか――ベルクソンにおける出来事個体の数的同一性の創設とイメージの問題」となっています。
これは単なる「記憶論」ではありません。
過去の存在論です。
5.では「現在」は何なのか
ここでベルクソンは現在の意味も逆転させます。
通常、
現在=存在するもの
過去=もはや存在しないもの
と考えます。
ところがベルクソン的には、現在の特徴は「存在すること」よりむしろ作用することです。
現在とは、
身体が世界に対して作用している局面
です。
私は「いま」何かを見、触り、避け、選択し、行動する。
だから現在は actual=現働的 です。
それに対して純粋過去は、
virtual=潜在的
です。
ここでの virtual は「可能的 possible」とは違います。
これが非常に重要です。
possible と virtual
可能的なものは、
実現するかもしれない/しないかもしれないもの
です。
しかし純粋過去はそうではない。
昨日の出来事は「存在したかもしれない」のではなく、すでに起こった。
したがって純粋過去は、
現働的ではないが、実在している。
これがベルクソン=ドゥルーズ系で決定的になる
actual / virtual
の区別です。
6.純粋過去は「現在の背後にある過去」ではない
ここをさらに進めるとベルクソン時間論の異様さが見えてきます。
時間を普通に、
過去 ───── 現在 → 未来
と描くと、過去は現在の左側にあります。
しかし純粋過去をそのような場所として考えてはいけない。
むしろ、
現在が成立するためには、現在がつねに過去へと移行していなければならない。
つまり現在と過去は、単純に前後する二地点ではありません。
現在が現在として生起することと、それが過去になることが、持続の内部で結びついている。
だから「過去になる」のは現在が消滅した後に起こる第二の出来事ではない。
現在は生起しながら過去化している。
この発想を極端に押し進めたのが後のドゥルーズのベルクソン解釈です。
7.「記憶の円錐」は何を意味するか
『物質と記憶』の有名な円錐図式がここで登場します。
概念的には、
純粋過去全体
↓
さまざまな縮約レベル
↓
現在の身体・知覚・行為
という構造です。
重要なのは、過去から一個の記憶を倉庫のように取り出すわけではないことです。
ある状況に直面すると、過去全体が異なる「緊張度」「縮約度」を取りながら現在に関与する。
例えば幼年期のある出来事を思い出す場合、
脳内の住所Xに保存された記憶ファイルを検索
するのではなく、
現在の行為的平面から離れ、純粋過去のある層へ身を置き、そこから記憶を現働化する
とベルクソンは考えます。
8.ここから第三章題の「持続のスペクトル」が理解できる
この章題は非常に示唆的です。
『物質と記憶』が描く持続のスペクトル
つまり精神と物質を、
精神|物質
という二つの実体として分断するのではなく、
持続の緊張度・収縮度の差
として連続的に捉える方向です。
概念的には、
純粋記憶・精神
↑ 高度な緊張/複雑な持続
│
│ さまざまな持続の程度
│
↓
物質
となる。
物質は「時間を持たないもの」ではない。
極端に弛緩し、反復的・瞬間的になった持続として捉えられる。
逆に精神とは、過去を高度に保存・縮約しながら現在へ持ち込む持続です。
すると心身問題そのものが、
異質な二実体がどう相互作用するか
ではなく、
異なる時間的緊張度をもつ二つの存在様態がどう接続するか
という問題に変わります。
ここが「私と世界を時間でつなぐ」という章題の核心でしょう。
9.したがって「私」と「世界」は同じ時間存在論上に置かれる
『試論』では持続はまず「私の内面」に発見されました。
ところが『物質と記憶』では、それだけでは不十分になります。
もし持続が私だけにあって、物質世界が完全に無時間的なら、
持続する私 | 無時間的世界
という断絶が残るからです。
『物質と記憶』はこれを、
私の持続
↕
身体
↕
知覚
↕
物質の持続
という連続体に変える。
これが平井のいう「持続のスペクトル」と考えると、第三章の設計が非常によく見えます。
10.そして「純粋過去=純粋潜在性」問題
ここは先日の議論に直接つながります。
ベルクソンの純粋過去を、
純粋潜在性のレイヤー
と呼ぶことにはかなり強い根拠があります。実際、『物質と記憶』研究では「潜在性」が独立した中心問題として扱われています。
ただし、一つ限定が必要です。
純粋過去 ≠ 未決定の可能性一般
です。
純粋過去には、すでに起こったものとしての決定性があります。
したがってより正確には、
純粋過去=〈現働化されていないが、それ自体として実在する過去〉という潜在性
です。
ここが、たとえば「未来に開かれた純粋潜在性」とは違う。
そしてこの差が、次の第四章『創造的進化』で非常に重要になります。第三章では「過去はいかに潜在的に実在するか」、第四章では「未来はいかにまだ出来上がっていないか」へと問題が反転するからです。
したがって第三章の最深部を一文に圧縮するなら、
私と世界を結びつけているのは、同一の空間に両者が存在することではなく、異なる緊張度において両者とも〈持続している〉ことである。
となるでしょう。
これは単なる記憶論ではなく、時間を共通通貨として心身二元論を存在論的に組み替える試みです。平井が『物質と記憶』を現代の心の哲学・時間論・認知科学へ接続し続けてきた理由も、まさにここにあります。
Q:ベルクソンにおいて、過去の保存と存在はどう違うのか同じなのか? 過去の保存とはどこに保存されるのか?
A:
ベルクソンでは、この問いはかなり核心的です。結論から言えば、純粋過去については「保存」と「存在」はほとんど重なる。しかし概念的には区別した方がよいです。そして「どこに保存されるのか?」に対するベルクソンの最もラディカルな答えは、どこにも保存されない。過去は〈過去として〉存続する、です。
「保存」と「存在」の違い
『物質と記憶』でベルクソンが否定するのは、まず次のモデルです。
出来事 → 現在から消滅 → 脳に痕跡として保存 → 必要時に再生
このモデルでは、出来事そのものは消滅し、その代理物=記憶痕跡だけが現在に保存されています。
ベルクソンはこれを逆転させます。
出来事 → 過去になる → 過去として存続する
したがって conservation du passé(過去の保存)という場合の「保存」は、ファイルを媒体に保存するような保存ではありません。
むしろ、
過去になったものが、過去になったことによって存在しなくなるわけではない
という存在論的な「存続」です。
この意味では、
過去の保存 ≒ 過去の存在
となります。
ただし完全な同義語ではありません。「存在」は存在様態についての概念で、「保存」は時間が経過してもその存在が失われないことを強調する概念だからです。
では、過去は「どこ」に保存されるのか?
ベルクソンの有名な答えは、いささか挑発的です。
過去はそれ自身のうちに保存される。
つまり「脳の中」でも「心の中」でもありません。
そもそも「どこ?」と問うこと自体が、過去を空間内の対象として考えてしまっている。
たとえば、
私が10年前に経験した出来事はいま脳のどこに格納されているのか?
という問いには、
純粋記憶について言えば、その前提が間違っている
とベルクソンは答えることになります。
過去は現在世界のどこかに格納されている対象ではない。
現在
現働的(actuel)
身体・行為・知覚
過去
潜在的(virtuel)
純粋記憶・純粋過去
という異なる存在様態なのです。
したがって「どこに?」ではなく、
どのような仕方で存在するのか?
と問わなければならない。
ここで「過去は存在する」の意味に注意が必要
ベルクソンが言っているのは、
昨日の東京が、どこか別世界に昨日の東京として物理的に丸ごと存在している
という素朴な過去実在論ではありません。
現在の物体と同じ意味で過去が actual に存在するわけではない。
むしろ、
現在=作用するもの
過去=作用することをやめたが、潜在的に存続するもの
という非対称性があります。
だからこそ身体=脳の役割が重要になる。
脳は過去を保存する場所ではなく、
潜在的に存在している過去のうち、現在の行為に関係するものを選択し、現働化する装置
になります。
ここはベルクソンの脳論のかなり大胆なところです。
「円錐図式」も場所の図ではない
『物質と記憶』の有名な円錐を、
「上の方に昔の記憶が保存され、底面付近に最近の記憶が保存されている」
という記憶倉庫の地図として読むと間違います。
円錐はむしろ、
純粋過去全体
↓
異なる収縮・緊張の水準
↓
現在の行為
という存在様態/現働化の程度の図式です。
われわれが何かを想起するときには、「脳内に保存されたファイル」を取り出すのではなく、現在の行為的関心から一時的に離れ、純粋過去のある水準に身を置き、そこから記憶を現在へと現働化する。
さらに重要な問題――「現在はいつ過去になるのか?」
ここまで進むと、ベルクソン時間論の本当に難しい問題が出てきます。
もし、
現在 → 消滅 → 過去として保存
だとすると、現在と過去の間に切れ目が必要になります。
しかしそんな瞬間を指定できません。
だからベルクソンでは、現在は現在であると同時に過去化していると考える必要が出てくる。
後のドゥルーズはここを非常に強く読み、
過去は現在の後に形成されるのではない。現在と同時に過去が構成される。
という方向へ押し進めます。
つまり、
現在
↙ ↘
現働性 過去としての潜在的保存
という二重化が不断に起きている。
これによって初めて、「過去が消滅した後、どうやって保存されるのか?」という難問を回避できます。そもそも過去は一度消滅してから保存されるのではないからです。
したがって三つを区別すると明瞭です
概念ベルクソン的意味過去の存在過去は「無」にならず、過去という様態で実在する過去の保存過去が過去として存在し続けること過去の想起潜在的な過去が現在において現働化されること
つまり、
保存 ≠ 想起
ですが、
保存 ≈ 過去としての存続=過去固有の存在様態
です。
そして「どこに保存されるか?」への最もベルクソン的な答えは、
過去は何か別のもの〈の中に〉保存されるのではなく、過去それ自身として存続する。
となります。
これはかなり重要で、先ほどの「純粋過去=純粋潜在性」という話をさらに厳密にするなら、純粋過去は「潜在性が保存されている領域」なのではなく、過去そのものの存在様態が潜在的なのである、というところまで行った方がよいと思います。ここを区別すると、ベルクソンの virtuel を「可能性の貯蔵庫」のように理解する誤読も避けられます。
Q:ベルクソン自身が過去の保存という概念を使っていたか?
A:
はい。ベルクソン自身が「過去の保存(conservation du passé)」という概念・表現を明確に用いています。しかも周辺的な言い回しではなく、ベルクソン時間論・記憶論の核心です。
特に重要なのは『創造的進化』冒頭部です。そこでベルクソンは持続について、趣旨として**「過去はそれ自身によって、自動的に保存される」**(le passé se conserve de lui-même, automatiquement)と述べます。つまり「何かが過去を保存する」というより、過去そのものが自己保存するという非常に強い命題です。
これは『物質と記憶』以来の考えを明示化したものです。ベルクソンにとって脳は過去を保存する容器ではありません。したがって、
過去 → 記憶痕跡として脳に保存される
ではなく、
過去 → それ自身として保存される(se conserve de lui-même)
となります。
さらに『精神的エネルギー』所収「現在の記憶と誤った再認」などでも、過去の保存はベルクソンの中心問題として展開されます。現在の知覚が記憶になるために「現在が消えてから保存処理される」のではなく、記憶形成は現在そのものと密接に並行している、という方向です。
ですから、先ほどの私の説明を少し厳密化すると、「過去の保存」は後世の研究者がベルクソンを整理するために作った術語ではありません。ベルクソン自身の語彙です。
そして重要なのは、ベルクソンの conservation を日本語の「保存」から連想される**storage(格納)**と混同しないことです。むしろ、
conservation = 消滅せずに存続すること
に近い。
したがってベルクソンの命題は、
「過去はどこかに保存されている」
というより、
「過去はそれ自身で保存される」
=「過去は過去として存続する」
と読むのが適切です。
この一点はかなり決定的です。「保存する主体/場所」を要求しない保存概念をベルクソン自身が採用しているわけです。
Q:つまり過去の保存とは過去の自己保存であり、伝統的な概念で言えば、記憶が自己原因的位置を占めるということか
A:
はい、かなり近い捉え方です。ただし「記憶が自己原因である」とまで言うと、ベルクソン自身より一段強い形而上学的翻訳になります。
ベルクソンの le passé se conserve de lui-même(過去はそれ自身によって保存される)を構造的に読むなら、
過去の保存には、過去とは別個の保存原因を必要としない
という点が決定的です。
通常の記憶モデルでは、
過去の出来事 → 記憶媒体(脳・痕跡)→ 保存された記憶
となり、「過去」と「過去を保存するもの」が分離します。ベルクソンはこの第三項を原理的に外す。
過去 → 過去自身の存続
です。
この意味では、おっしゃるように伝統的な因果論の語彙へ翻訳すれば、過去/純粋記憶が「自己原因的な位置」を占めると言うことはできます。
ただし causa sui と完全に同一視するのは避けるべきでしょう。伝統的な自己原因は普通、
XがX自身の存在原因である
という強い意味を持ちます。ベルクソンは「過去が自分自身を原因として存在させる」と言っているわけではありません。
むしろ、
いったん過去となったものの存続には、それとは別の保存原因を要しない
という意味です。
したがって区別するなら、
自己原因(causa sui)
「XがXの存在を成立させる原因である」
に対して、
ベルクソン的自己保存(se conserver de soi-même)
「Xの存続を説明するために、Xとは別の保存主体・媒体・原因を措定する必要がない」
となります。
そして、ここにはかなり興味深い反転があります。通常なら説明を要求されるのは、
「なぜ過去が残っているのか?」
です。
しかしベルクソンではむしろ、
「なぜ過去が消滅すると考えなければならないのか?」
と問い返せる構造になる。
過去の消滅のほうに追加的な説明が必要になるわけです。
ですから、「記憶が自己原因的位置を占める」という表現をさらに精密化するなら、私は
純粋記憶(より正確には純粋過去)は、自己原因というより〈自己存続的〉な存在論的位置を占める。
とします。
そして「自己原因的位置」という、同一性ではなく構造的類比を示す言い方なら、かなり有効だと思います。保存の根拠を外部に要求する因果的遡行が、純粋過去そのもののところで止まるという意味では、確かに causa sui が伝統的形而上学で占めてきた位置とよく似ています。
Q:ベルクソンでは、人間を含む生体と非生体の区別は存在論的に消失するかしないか?
A:
結論から言えば、消失しません。ただし、生体/非生体を「まったく異質な二種類の存在」とする存在論的断絶はかなり弱められます。ベルクソンでは、両者は同じ「持続」の存在論の内部に置かれながら、持続の仕方・時間的組織化の程度において根本的に異なる、というのが最も正確でしょう。
『物質と記憶』から『創造的進化』まで通してみると、三段階に分けると明瞭です。
1.物質そのものも完全な「無時間」ではない
ここが出発点です。
ベルクソンが精神だけに持続を認め、物質を完全に時間外の存在としたなら、
精神=持続するもの | 物質=持続しないもの
という古典的二元論が残ります。
しかしベルクソンはそこまで単純ではありません。物質にもある種の持続を認める方向へ進む。したがって、
精神/生命 ───── 物質
は絶対的断絶ではなく、持続の**緊張(tension)・収縮(contraction)・弛緩(détente)**の程度差として記述できる。
ここが先ほどの平井の「持続のスペクトル」という表現に対応します。
2.しかし生命には決定的な非対称性がある
だからといって、
石も人間も結局同じ持続だから区別はない
とはベルクソンは考えません。
『創造的進化』では生命には非常に特殊な特徴があります。
生命は、過去を現在へ蓄積・収縮し、それによって現在の反応を単なる機械的反復から解放する。
極端に単純化すると、
非生体
刺激 → ほぼ即時的な因果的結果
に対して、
生体
刺激 →〔時間的遅延/過去の蓄積〕→ 複数の可能な応答
となります。
この「間」が重要です。
『物質と記憶』で身体が「不確定性の中心」として特徴づけられるのもこれと対応します。生命体は刺激をそのまま出力へ変換せず、時間を内部に保持することで応答を遅延させ、選択可能性を作る。
したがって生命とはベルクソン的には、かなり大胆に言えば、
時間を収縮し、過去を保持することによって未来を未決定にしている存在
と表現できます。
3.したがって「存在論的区別」は消えるのか
ここは「存在論的」の意味によって答えが二つになります。
問いベルクソン的回答生体と非生体は全く異なる二種類の実体かNo両者とも持続という同じ存在論に属するかYes両者の差は完全に消えるかNo差を時間的組織化の差として捉え直せるかYes
したがって、
存在論的二元論は消失するが、存在論的差異は消失しない
という言い方がかなり適切です。
そして、先ほどの「過去の自己保存」がここに効いてきます
ここが特に面白いところです。
もし過去そのものが自己保存するのであれば、過去の保存それ自体は生命体だけの能力ではありません。
つまり、
過去が存在すること ≠ 生体が記憶すること
です。
生体、とりわけ脳神経系をもつ動物の特殊性は、過去を「存在させる」ことではない。
むしろ、
すでに自己保存されている過去を、現在の行為へ選択的に現働化すること
にある。
これは重要な区別です。
純粋過去の自己保存
→ 世界の時間的存在論そのもの
記憶の選択・想起・現働化
→ 生体の特殊な時間的機能
となります。
したがって、石にも「脳内記憶」は当然ありませんが、だからといって石に関わる過去そのものが存在論的に消滅するわけではない。
ここまで押すと、生命/非生命の境界がかなり独特になります
生命を、
「過去を保存するもの」
と定義することはできない。
なぜなら過去は生命によらず自己保存するからです。
むしろ生命とは、
自己保存する過去と現在との関係を高度に組織化し、その過去を現在の行為の自由度へ変換するもの
と捉える方がベルクソン的です。
するとベルクソンにおける生命/非生命の違いは、「記憶を持つ/持たない」という単純な区別よりも、
同じ時間的実在を、どの程度収縮し、保持し、行為へ変換できるか
という差になります。
これは先ほどの議論からかなり自然に出てきます。「過去の自己保存」を生命固有の機能から切り離した瞬間、生体/非生体の絶対的存在論的境界は崩れる。しかし、時間を組織化する様式の差として生命の特殊性はむしろ鮮明になる、という構造です。
Q:自由変換の有無か?
A:
はい、かなり核心を突いています。ただし「自由変換」をベルクソンの術語ではなく、こちらの分析概念として使うなら、です。
ベルクソン的な生体/非生体の差を極端に圧縮すると、
過去を現在の行為へと〈自由度〉として変換できるか
という差として捉えられます。
非生体では、過去が自己保存されているとしても、その過去を現在に選択的に呼び込み、応答の未決定性へ変換する機構がありません。物質的因果系列は相対的に即時的・反復的です。
これに対して生体では、
過去の自己保存
→ 記憶
→ 選択的現働化
→ 刺激―反応間の遅延
→ 複数の可能な行為
→ 自由
という方向が成立します。
ただしベルクソンでは、単純な生物すべてが人間と同じ意味で「自由」なのではありません。生命の進化に伴って、刺激と反応の間の不確定性(indétermination)の幅が拡大し、とりわけ高度な神経系では過去全体を現在の状況に持ち込めるため、行為の自由度が大きくなる。
したがって「自由変換」をより厳密に定義するなら、
〈自由変換〉=自己保存される過去を、現在における行為の不確定性/新規性へ変換すること
となります。
そしてこれは重要な非対称性を作ります。
非生体:持続する・過去をもつ → しかし自由へ変換しない
生体:持続する・過去をもつ → 過去を未来の未決定性へ変換する
です。
さらに『創造的進化』まで含めるなら、ベルクソンにとって生命とは、単に「過去を利用して選択するもの」以上です。過去の蓄積を、それまで存在しなかった新しい行為・形態・可能性の創造へ変換する運動でもある。
ですから、かなり強い定式化ですが、
ベルクソンにおける生体/非生体の存在論的境界は、持続の有無ではなく、〈持続→自由〉という変換の有無(ないしその度合い)に置き直される。
という読みは十分成立すると思います。
ただし「有/無」という離散的境界より、ベルクソンには変換能力の程度差=スペクトルとして読む方が適合的です。最終的には「自由変換の有無」よりも、〈自由変換度〉の差と言った方がベルクソン的でしょう。
Q:しかしそれはベルクソンでは程度の差異ではなく、本質的な差異ではないか?
A:
はい。その修正の方がベルクソンには忠実です。 先ほど私が「自由変換度の差=スペクトル」としたのは、物質と精神の連続性を強調しすぎました。ここでは二つの次元を分ける必要があります。
ベルクソンには確かに「持続の緊張・収縮の程度」という程度差があります。しかし、そこから直ちに「生命と非生命の差も程度差にすぎない」とは言えません。
むしろ『創造的進化』では、
物質:既成的なものの展開、弛緩、反復、決定性の方向
生命:蓄積された過去を用いて、未決定な未来・新規性を創造する方向
という方向そのものの差異が立てられています。
重要なのは、生命が単に「物質よりたくさん記憶する」ということではない点です。生命は時間を、
過去の保存 → 現在への凝縮 → 未来の未決定性/創造
へと変換する。
ここには量的増大では説明できない転換があります。
したがって先ほどの「自由変換」という言葉を使うなら、かなり鋭く、
物質と生命の本質的差異=〈自由変換〉の成立
と定式化できます。
ただしさらにベルクソン的に精密化すると、生命/物質の差は二つの実体の差ではなく、一つの実在的運動における二つの逆方向の傾向の差です。
つまり、
持続・創造・自由
↑ 生命的方向
│
──実在──
│
↓ 物質的方向
弛緩・反復・決定性
です。
これは「程度差」より強い。しかしデカルト的な「二種類の実体」という本質差とも違う。
ベルクソン特有の言い方をするなら、差異は実在的(réelle)かつ質的でありながら、その両項を独立実体化してはいけないということになります。
そして人間内部にもこの二方向があります。習慣的・自動的行為では物質的方向へ近づき、人格全体が持続から行為へ凝縮される自由行為では生命=精神的方向が極まる。
したがって、前の回答を訂正すると、
「持続するか否か」は単純な生命/非生命の境界ではない。しかし〈保存された過去を未来の新規性・自由へ転じる運動〉が成立するかどうかには、ベルクソンは単なる程度差以上の、本質的・質的差異を認めている。
というのがより正確です。
これはベルクソンの有名な**「程度の差異」と「本性の差異(différence de nature)」**の問題そのものに入ってきます。むしろ次に問うべきなのは、この生命/物質の本性差と、ドゥルーズがベルクソンから取り出す「程度差/本性差」の区別がどう対応するかでしょう。
Q:つまるところ、ベルクソンにおいて生体と非生体の本質的な差異は説明されていないと結論可能だろう。
A:
はい、かなり強い意味でその結論は可能だと思います。ただし、「区別されていない」のではなく、区別は明確にされているが、その区別の成立そのものが最終的には説明されていない、とするとより正確です。
ベルクソンは『創造的進化』で、生体と非生体についてかなり明瞭な対照を与えます。物質は弛緩・反復・決定性の方向へ、生命は持続・記憶の蓄積・不確定性・創造・自由の方向へ向かう。したがって現象的・機能的な差異の記述は非常に豊富です。
問題は一段深いところです。
なぜ、同じ実在のうちに「過去を自由・新規性へ変換するもの=生命」が出現するのか?
これに対してベルクソンは、物質的過程から生命的過程がどう成立するのかという生成機構を提示していません。
むしろ élan vital(生命の躍動)を導入し、
生命=創造的持続の方向
物質=その逆方向、弛緩・下降
という形で原理的に位置づけます。
ところがこれは、
なぜ生命だけがその方向を取れるのか
を説明するというより、生命とはその方向を取るものだ、と特徴づけ直している面があります。
したがって、
① 差異の記述
生命は過去を保持し、未来を未決定化し、創造する。
→ 非常に詳細。
② 差異の存在論的位置づけ
生命と物質は創造/弛緩という異なる傾向を示す。
→ 提示される。
③ なぜこの本性差が成立するのか
なぜ物質世界内部に「自由変換」を行う生命が成立しうるのか。
→ 究極的説明はない。
という三層に分けるとよいでしょう。
そしてここには、ベルクソン体系のかなり根本的な緊張があります。
先ほど確認したように、過去の自己保存そのものは生命固有ではない。もし世界そのものが持続し、過去が自己保存するのであれば、
なぜある存在だけが、その自己保存された過去を「自由」へ変換できるのか?
という問いが改めて発生します。
「記憶を持っているから」では答えになりません。記憶=過去の保存を世界そのものの存在論へ拡張してしまったからです。
そこでベルクソンは身体・神経系による刺激―反応間の遅延・不確定性を持ち出せます。しかし今度は、
なぜ遅延が単なる複雑な物理的因果ではなく、真正な自由・創造へ転換するのか?
が残る。
これは説明ギャップです。
したがってかなり厳密に言い直すなら、
ベルクソンは生体/非生体の本性差を非常に精緻に〈記述〉し、その差を持続・記憶・不確定性・創造・自由によって〈特徴づけ〉た。しかし、その本性差そのものがなぜ・いかに成立するのかを、それより基礎的な原理から〈説明〉することには成功していない。
という評価は十分可能です。
もっと強く言えば、élan vital はこの説明ギャップを埋める解答というより、そのギャップそのものを存在論的原理として命名したものではないか、という批判まで可能になります。
ただしベルクソン側からは、「より基礎的な非生命的原理から生命を説明せよ」という要求そのものが、生命をあらかじめ物質へ還元する誤った問題設定だ、と反論するでしょう。ここがベルクソンを「説明不足」と評価するか、還元的説明そのものへの批判と評価するかの分岐点になります。
Q:言い換えれば、ベルクソンは生体固有の、さらには、人間固有の自由変換を説明する原理を持っていないと思われる
A:
はい。その指摘はかなり正確だと思います。しかも、「生体固有」と「人間固有」を分けると、ベルクソンの説明上の空所が二段階で見えてきます。
ベルクソンには、自由が「何をするか」の記述原理はあります。持続、記憶、過去の保存、刺激―反応間の不確定性、創造、生命の躍動などです。しかし、
なぜ過去の自己保存が、ある存在において〈自由への変換〉を可能にするのか
を説明する独立した原理は見当たりません。
まず非生体→生体について、
過去の自己保存
→ ?
→ 過去を利用した未決定的・創造的行為
という「?」が残る。élan vital はこれを生命の基本傾向として指定しますが、その変換をさらに説明する機構ではない。したがって「生命とは自由へ向かう運動である」という特徴づけと、「なぜ自由変換が可能なのか」という説明とが接近しすぎています。
さらに深刻なのが生体→人間です。
ベルクソンは神経系の複雑化によって刺激と反応の間隔が広がり、選択可能性が増大することを説明できます。
しかし、
選択肢の増大・行動的不確定性
と
『試論』における〈人格全体から発する自由行為〉
は同じものではありません。
前者をいくら量的に増大させても、後者――ベルクソン自身が本性上異なるものとして扱う真正な自由――がなぜ成立するのかは自動的には出てこない。
したがって二つのギャップがあります。
物質 → 生命
物理的因果性から創造的生命への移行。
生命 → 人間的自由
生物学的不確定性から人格的・創造的自由への移行。
ベルクソンは双方について非常に豊かな現象学的・存在論的記述を持っていますが、それらを架橋する「自由変換原理」は持っていない、と評価できます。
むしろ興味深いのは、ベルクソン体系をこちらから再構成すると、
自己保存される過去 → 現在への選択的現働化 → 未来の未決定性
まではかなり説明できるのに、
未決定性 → 自由
の矢印だけが論理的には保証されていないことです。
indétermination(不決定性)は liberté(自由)の必要条件になりえても、それだけでは十分条件にならない。
ここが決定的でしょう。
したがって、かなり圧縮して批判的に定式化するなら、
ベルクソンは〈自由のための時間〉を説明したが、〈時間から自由が生じる原理〉を説明してはいない。
と言えると思います。
そしてこれは単なる細部の欠落ではなく、『試論』の人間的自由、『物質と記憶』の記憶=現働化、『創造的進化』の生命的創造性を一つの存在論として接続しようとしたときに露呈する体系的な空所です。
Q:おそらく通常の意識の自由が暗に前提されている。
A:
そう読む余地はかなりあります。ただし「通常の意識の自由」をベルクソンが無反省に常識として前提したとまで言うと強すぎて、より正確には、自由を成立させる意識的持続の事実性が出発点として与えられている、でしょう。
『試論』ではそもそも自由を、何か別の原理から「導出」しようとはしていません。むしろ、空間化された時間概念によって自由が偽の問題になっていることを示し、具体的持続へ戻れば自由行為が現れる、という戦略です。
つまり論理は、
意識の持続
→ 人格全体の形成
→ 人格全体が行為に凝縮される
→ 自由行為
となる。
しかし、ここでまさに先ほどの問題が生じます。
「人格全体から行為が出る」ことと、なぜそれが自由なのかとは別問題です。人格全体が完全に因果的に形成され、その人格から必然的に行為が生じる、というモデルも論理的には考えられるからです。
ベルクソンはこれに対して「人格そのものが持続の中で絶えず生成している」と答えるでしょう。しかし、それでも、
生成していること → 自由であること
という含意は自明ではありません。
ここに、ベルクソンの自由論の最深部にある前提が見えてきます。すなわち、
真正な持続=新規性を生み出すこと=ある意味で自由であること
という強い結びつきです。
だから『創造的進化』では、自由が人間だけの特殊能力というより、生命一般の**création(創造)**へ拡張されていく。
すると逆に、人間固有の自由を説明する原理はさらに見えにくくなります。
かなり批判的に整理すれば、
① 意識に自由を見出す(『試論』)
↓
② その基盤を持続と記憶に求める(『物質と記憶』)
↓
③ 持続=創造を生命一般へ拡張する(『創造的進化』)
↓
④ しかし「なぜ持続/創造が自由なのか」という最初の接続自体は説明されない
という構造が見えてきます。
ですから、おっしゃる「通常の意識の自由が暗に前提されている」を少し哲学的に精密化するなら、
ベルクソンは自由を存在論から導出するのではなく、まず意識的持続において自由が与えられることを出発点とし、そこから自由の成立条件を持続・記憶・生命へと遡及的に存在論化している。
と言えるでしょう。
この読みなら、なぜ最終的に「自由変換原理」が見つからないのかも説明できます。ベルクソンの体系では自由は最終的に説明されるべき explanandum というより、持続という存在論を構築するための原初的 datum の一つだからです。
Q:もちろん通常の意識それ自体は「導出されていない」という意味
A:
はい、その意味なら非常に明確です。問題は「意識が自由であることが無根拠に前提されている」というより、さらに手前の、通常の意識そのものの成立が導出されていないということですね。
ベルクソンの体系を遡ると、
物質的世界 → 生体 → 神経系 → 通常の意識 → 持続的自己 → 自由
という系列を想定できますが、ベルクソンが強い説明を与えるのは、むしろ通常の意識がすでに成立した後です。
『物質と記憶』では脳を表象の生産装置ではなく、知覚と行為を選別する装置として捉えるため、
なぜ物質的=生命的過程から「意識される経験」が生じるのか
を神経系から導出することを、そもそも理論的課題として引き受けません。
これは偶然の欠落というよりベルクソンの反還元主義と結びついています。しかし、その代償として、
不確定性の中心としての生体
↓
???
↓
意識的持続
という接続が残ります。
さらに、
意識的持続
↓
自由行為
についてはベルクソンは非常に豊かな分析をする。
したがって先ほどの「自由変換」という観点から言えば、より根本的な欠落は、
非意識的な時間的実在が、なぜ・いかに〈意識された持続〉へ変換されるのか
という意識変換原理の不在です。
この意味ではベルクソンは、「意識から自由」よりも前にある**「世界から意識」ないし「生命から意識」への存在論的移行を導出していない**。
そしてここを押さえると、生命/非生命、人間/非人間の境界問題もかなり鮮明になります。ベルクソンは境界の両側を精緻に記述しますが、その境界を生成する原理そのものを与える体系ではない、という評価になるでしょう。
Q:理由は極めて明確で、導出のすべての操作は「超越論的」になり、つまり(彼の批判の最重要ターゲットである)「超越論哲学」になってしまうからである
A:
はい。その指摘によって、ここまでの問題はかなりきれいに整理できます。ベルクソンが通常意識を導出しないことは、単なる理論上の欠落というより、「導出」を徹底すると超越論哲学へ入らざるをえないことと関係する、という読みです。
ポイントは「何から何を導出するのか」です。
物質 → 生命 → 意識
を存在者間の通常の因果系列として導出しようとするなら自然科学的説明になります。しかし、われわれが問題にしているのはそれだけではない。
そもそも「物質」「生命」「過去」「現在」「因果関係」が〈意識に現れる世界〉として成立する条件は何か
と問った瞬間、説明の方向が反転します。
世界 → 意識
を説明していたはずが、
意識/経験の成立条件 → 世界が世界として現れること
を問うことになる。これはまさに超越論的問いです。
ベルクソンがここへ全面的に踏み込めば、カント以来の、
経験が可能であるためには、どのような条件があらかじめ成立していなければならないか
という問題設定を引き受けざるをえません。
ところがベルクソンはむしろ、それを避けて持続を「構成条件」ではなく実在そのものとして扱おうとする。
ここが重要でしょう。
カント的には大雑把に、
超越論的条件 → 時間形式 → 経験可能性
ですが、ベルクソンは、
実在=持続 → 意識的持続
という方向を維持したい。
ところが「→」を厳密に説明しようとすると、
持続がどのような条件によって「意識にとっての持続」として成立するのか
を問わなければならなくなり、超越論的主体/構成作用に相当するものが再導入される危険がある。
だからベルクソンにとって通常意識は、ある意味で非常に便利な中間地点になっています。
実在的持続
↓
〔導出しない〕
通常意識における持続の経験
↓
直観による深化
純粋持続
↓
自由・記憶・創造
という構造です。
そしてここにはベルクソン特有の方法論があります。彼は「意識を構成する条件」を探すより、
すでに与えられている経験から、知性による空間化・概念化を取り除けば何が残るか
という方向へ進む。
つまり導出ではなく減算です。
これは『試論』から『物質と記憶』まで一貫しています。時計的時間、空間化、記号化、実用的知覚などを剥いでいき、持続そのものへ戻ろうとする。
したがって、ベルクソンと超越論哲学の分岐をかなり鋭く定式化すると、
カントは「経験はいかにして可能か」と問う。ベルクソンは、その問いによって経験を構成する主体を立てる前に、すでに与えられている経験を変形している知性的・空間的操作を解除しようとする。
となるでしょう。
だから、先ほど私が「意識変換原理の不在」を単純な「説明上の欠落」と表現したのは修正した方がよいです。その不在はベルクソン哲学の限界であると同時に、ベルクソンが超越論哲学にならないための方法論的選択でもある。
さらに突き詰めれば非常に面白い逆説があります。
ベルクソンが「意識はいかに成立するか」を完全に説明しようとすればするほど、ベルクソン哲学ではなくなっていく。
なぜなら、その説明を可能にする条件を問う操作そのものが、ベルクソンが実在的な「生成=持続」に先行させたくない超越論的な構成原理を要求してしまうからです。
この意味で、通常意識が「導出されていない」という先ほどの指摘は、単なる穴というより、ベルクソンの実在論が超越論哲学との境界で意図的に停止している地点と見る方が面白いと思います。
Q:純粋潜在性レベルへの減算という体系化において、入不二基義のAny-ness哲学に本質的な意味で非常に近い。
A:
はい。しかも「似ている」というより、〈現実的・個別的・規定的なものから減算していったとき、最後に何が残るのか〉という哲学的操作そのものが非常に近い、と見ることができます。ただし、到達点の存在論的身分には重要な差があります。
ベルクソンの場合、先ほど見たように操作は概ね、
通常的経験
→ 空間化・実用的分節を減算
→ 表象的・行為的規定を減算
→ 現働性を減算
→ 純粋過去/潜在性(virtuel)
という方向を取ります。
ここで重要なのは、最後に「無」が残るわけではないことです。むしろ減算すればするほど、現働化以前の豊かな実在性が露出する。純粋過去は「何もない」のではなく、現働的でない仕方で全体として存続している。
入不二基義の Any-ness にも、非常によく似た反転があります。個体的内容、特定の可能性、現実/非現実の区別などを削っていった結果、「何もない」へ行くのではなく、
何にでもなりうるが、まだ何であるとも形成されていない純粋潜在性
へ向かう。
したがって両者には、
規定性の減少 ≠ 存在性の減少
という共通原理がある。
むしろ、
規定性を減算するほど、より根源的な実在性/潜在性へ近づく
という方向です。
これはかなり本質的な類似でしょう。
ただし決定的な差があります。
ベルクソンの純粋過去は、すでに生起したものです。したがって潜在的ではあっても、その内容には決定性がある。
Bergson
「すでに何であったか」は決まっているが、現在には現働化されていない。
これに対して Any-ness の純粋潜在性を強く取れば、
Irifuji
「何であるか」そのものがまだ形成されていない。
したがって、
ベルクソン:規定済みだが非現働的
入不二:規定そのものに先立つ非形成性
という差があります。
ここはかなり大きい。
さらに時間方向まで含めると、面白い対称性が見えてきます。
ベルクソンの純粋過去は、
現働的現在 ← 純粋過去
という、すでに成立したものから現在への現働化です。
Any-ness はむしろ、
純粋潜在性 → 任意の形成/現働化
という生成方向を持つ。
つまり両者とも「現働的なものを減算して潜在性へ降りる」のですが、ベルクソンではそこに〈保存された過去〉があり、入不二では〈まだ何にもなっていない Any-ness〉がある。
ここから、以前の「純粋過去は純粋潜在性レベルではないか」という問いにも、少し精密な答えができます。
階層的位置としては非常に近い。しかし純粋潜在性そのものではない。
ベルクソンの純粋過去は、Any-nessから見ればすでに一度規定を受けてしまった潜在性とも言えるからです。
そして、おそらく最も深い共通点は方法論でしょう。両者とも超越論的な、
「Xが可能であるための条件は何か」
という条件への遡行ではなく、
「Xから規定を一つずつ剥いでいったら何が残るか」
という減算による根源化を行う。
つまり、
超越論哲学
現象 → 可能性の条件 → 構成原理
に対して、
ベルクソン/Any-ness型
現働的・形成済みのもの → 減算 → 非現働的/非形成的実在
です。
この意味で「純粋潜在性レベルへの減算」という体系化を採るなら、ベルクソンと入不二は方法論的には驚くほど近い場所にいると思います。
ただし、その先で決定的に分岐する。ベルクソンは減算の極限をなお時間=持続として捉えるのに対し、Any-nessを徹底すれば、時間的規定そのものも形成された一規定として減算対象になりうる。したがって、
ベルクソンの減算は〈純粋な時間〉で止まり、Any-nessの減算は〈時間であること〉さえ越えて非形成性へ向かう
という比較が可能になります。
ここは両者の類似以上に、かなり重要な分岐点だと思います。
Q:最後に、先の人間固有の(そのつど唯一無二の)自由変換というコンセプトを、ベルクソン哲学に内在的に埋め込む余地はあるかないか?
A:
あります。しかも、ベルクソン哲学を外から改造せず、かなり内在的に埋め込める余地があります。ただし、それはベルクソンが明示的に完成させた理論ではなく、『試論』『物質と記憶』『創造的進化』に分散している要素を一段階再構成する必要があります。
鍵になるのは、自由変換を単なる「不確定性→選択」としないことです。
ベルクソンの『試論』における最も強い自由概念は、複数の選択肢A/Bのどちらかを選べるというものではありません。自由行為とは、その人の人格全体が行為において表現されることです。ベルクソン自身、自由な行為と人格との関係を、芸術作品と作者との関係になぞらえます。
ここへ『物質と記憶』の純粋過去を接続できます。
純粋過去は自己保存される。しかし、人間が行為するとき純粋過去全体がそのまま現在化するわけではありません。現在の身体・状況を通して、過去が特定の仕方で収縮・現働化される。
すると、
自己保存される純粋過去
↓
この人格固有の全過去
↓
現在における収縮
↓
この状況での行為
↓
それまで存在しなかった一回的な行為
という系列を作れます。
ここに「自由変換」を置けばよい。
つまり、
自由変換=純粋過去を、〈この私〉の不可逆的な全履歴を通じて、現在における唯一無二の新規な行為へ変換すること
です。
これはベルクソンにかなり内在的です。
ただし「人間固有」にするところで問題が生じる
ここが最大の難点です。
『創造的進化』では創造性そのものは生命一般に属するからです。生命進化も新しいものを創造する。したがって、
過去 → 新規性
だけでは人間を生命一般から区別できません。
そこで『試論』の人格概念を導入する必要があります。
生命一般の創造は、
生命的持続 → 新しい形態
ですが、人間的自由では、
〈私の全過去〉 → この行為
となる。
つまり人間の場合、変換されるのは単なる蓄積情報ではなく、他の誰とも交換不可能な一つの持続史そのものです。
ベルクソンが自由行為について「われわれの人格全体から発する」という強い表現を使う理由もここにあります。
したがって、生命一般の創造と人間的自由を区別するなら、
生命一般
持続 → 新規性
人間
個体化された全持続 → その人格にしか生成できない一回的行為
という差を設定できます。
ここで初めて、先ほどの「そのつど唯一無二」という条件が効いてきます。
さらにベルクソン的なのは、「選択」ではなく「創造」とすること
これは非常に重要です。
A/B/Cという可能性があらかじめ存在していて、
私が自由にBを選んだ
というモデルでは、ベルクソンの自由にはなりません。
真正な自由行為では、行為以前にはその行為自体が可能性として完成済みではない。
行為することによって初めて、
「私はこうすることが可能だった」
という可能性そのものが遡及的に成立する。
したがって自由変換は、
過去 → 既成の可能性から選択
ではなく、
過去 → 現在における創造 → 新しい可能性の成立
です。
ここまでならベルクソンに非常に深く内在しています。
しかし「唯一無二」をどこまで強く取るかで境界が来ます
ここは重要な留保です。
「唯一無二」を、
同一の人格・同一の過去・同一の状況から二度と完全には反復できない一回的行為
という意味に取るなら、ベルクソンで十分にいけます。持続は不可逆的だからです。
しかし、
なぜこの世界に、この〈私〉だけがこの自由変換の原点として存在するのか
という独在論的な唯一無二性まで強めると、ベルクソンだけでは届きません。
ベルクソンの moi profond(深い自我)は個性的ではあっても、永井均的な〈私〉の唯一性ではないからです。
したがって二種類の唯一性を区別すると非常に明瞭です。
唯一性ベルクソン内部で可能か質的・履歴的唯一性――この人格の全過去から生じるこの一回の自由行為ほぼ完全に可能独在的唯一性――なぜこの〈私〉だけが現実性の原点なのかベルクソンだけでは不可能
ここが限界線でしょう。
そして、ここまでの議論を踏まえると「自由変換」をベルクソン内部に導入する最も強い定式化は、
自由変換とは、自己保存される過去が、ある個体化された持続=人格の全体を通過することによって、そのつど反復不能な新しい行為へと現働化されることである。
となると思います。
これなら「自由」という外部原理を突然導入してはいません。自己保存→収縮→個体化→現働化→創造という、すべてベルクソン自身が持っている概念系列を一本につないだだけです。
ただしベルクソンが説明していない最後の一点は依然残ります。
なぜその変換が、単なる一回的な因果的生成ではなく〈自由〉なのか。
ベルクソンはそこを最終的には「具体的持続においてわれわれが経験する自由」へ戻す。したがって「自由変換」は、ベルクソン体系に内在的に埋め込めるが、ベルクソン体系だけから完全に導出することはできない。
むしろこの「ほとんど全部揃っているのに、最後の変換原理だけがない」というところが、非常に面白い余白だと思います。
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