フィルムカメラとルーマニアひとり旅。嘘つき時刻表と真っ赤な夕焼け
シナイアからブラショフ行きの電車で、私は、米原万里のエッセイ「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」で描写されるルーマニアの情景を思い出していた。筆者は小学校から中学校にかけてチェコスロバキアのプラハにあったソビエト学校で学んでおり、エッセイは、そのソビエト学校の同級生たちとの思い出と再会までの道のりを描いている。表題の「アーニャ」は、ルーマニア出身の同級生で、彼女がいうにはルーマニアは大層豊かで美しい国らしいのだけども、のちに筆者がアーニャとの再会を目的に訪れたブカレストは、独裁政権崩壊後の荒廃した、鬱屈とした街として描かれていた。その対比に思いを馳せながら、私が目にするルーマニアはいったいどんな国であるのか、若干の好奇心と緊張感を抱いていたのである。
ブラショフ
ブラショフの旧市街にたどり着いたとき、まず最初に思ったことは「なんだこのかわいい街は」だった。一刻も早くこの街をくまなく探索して、いったい何が私の心を鷲掴みにしているのか突き止めたい衝動に駆られたけど、あまりにも早すぎる日の入りのせいで、この日は夕飯を食べるだけで終わってしまった。



夕飯はチョルバという、牛もつのクリームスープを食べた。せっかくなのでビールも飲もうと思ったが、店員のおじちゃんに、私がメニュー表から指定したものは在庫がないといわれてしまった。じゃあ何かおすすめで、と言ったら、おじちゃんはこくりと頷いてグラスを持ってきてくれたのだけど、それがどのビールかは教えてくれなかった。

ルーマニアには野犬がいると聞いていたが、それはあくまで人気のないところの話だろうと思っていたので、レストランの野外席を堂々とうろつく犬を見かけたときは大層驚いた。彼(便宜上そう呼ぶが性別は不明である)はどうやらレストランの客に愛想を振り撒くと、何かしら食べ物がもらえるということを学習しているようで、一席ずつ回ってはつぶらな瞳で客を見つめたり、笑顔でしっぽを振ったりして、気分を良くした人たちに撫でられたり餌付けされたりしていた。私はそれを見て、Self-employedのセラピードッグだな、と思った。
犬のあまりの愛想のよさに私も撫でてみようかなという気持ちになったが、ギリギリ狂犬病への恐怖が勝ったので、彼が私の席を訪れたときは、申し訳ないが私はあなたに興味ないですよという顔をして、ビールを飲みやり過ごした。これが一杯目でなければ、もうちょっと酒が回っていたら、撫で回していたかもしれない。犬側は自分に興味がない人間は深追いしないタイプのようで、あ、そうですか、という感じですぐに別の席に向かって行った。ちょっと悲しかった。

この日は満足に写真が撮れなかったので、翌日は早起きして街を探索しようと決め、早々に宿に向かい眠りについた。
翌朝、ブラショフは快晴だった。これはいい写真が撮れるぞと思い、まだ人がまばらの早朝の街に繰り出した。

街がおめかししていく過程はもっと好き


くまなく探索してみたくなる街
意気揚々と出かけたものの、どうも露出計がおかしい気がする。もしかして電池切れかなあ、ドイツの激安ドラッグストアで買ったボタン電池だからもう切れちゃったのかな。せっかくの快晴なのに思うように写真が撮れず、しょぼくれながら街を歩く。気分転換に展望台にでも登ってみようかと思い立ち、ケーブルカーの発着駅に向かった。

駅には、私の前に夫婦が一組並んでおり、彼らに続いてケーブルカーに乗り込んだ。先頭の最も景色がよく見える場所に立った夫婦の肩越しに、一体どんな景色が見れるだろうとわくわくしながら出発を待っていたら、奥さんの方が私の存在に気づき、なんと場所を譲ってくれようとした。そんなわけにはいかないと断ったものの、奥さんは、だってあなた本当に楽しそうにしているんだもの!私はあなたより大きいから後ろからでも見れるわよ!というようなことを身振り手振りを交えて言っている。それではお言葉に甘えて、と大層恐縮しながら場所を変わったが、この恐縮仕草はアジアすぎるかもしれない、せっかくなら思いっきり喜んだ方が親切心も報われるものだろうかと思い至り、ケーブルカーが展望台に向かう間、素直に大はしゃぎして写真を撮った。実際、ケーブルカーからの景色はすごく綺麗だった。

展望台からの景色をフィルムに焼き付けたかったのに、やっぱりカメラの調子が悪い。電池を買える場所を探さなきゃなあ、と思いマップを開いたが、近くにめぼしい店は見つからず、旧市街のはずれにデパートがあるだけだった。
地元の人もまばらの、いかにも場末のといった感じのデパートで、踏むとぎしぎし音のする止まったままのエスカレーターを登り、店内をくまなく探し回ったが、結局電池は売っておらず無駄足になってしまった。閑古鳥の鳴くデパートも、一階はやや値のはる宝飾品が売っていて、この指輪の石がボタン電池だったら良かったのに、今の私ならこの値段でも買うだろうよ、というようなことを考えていた。さすがにカメラに取り憑かれすぎである。
ないものは仕方ないので、おいしいコーヒーでも飲もうと旧市街に戻った。道中、いつものくせでカメラを構えたら、どういうわけかカメラは不調から回復しており、いつも通り撮影できた。一体なんだったんだと思いつつ、まぁこんなことがなければあのデパートに行くことなんてなかっただろうし、今ではいい思い出である。


雰囲気もよくおいしいコーヒーショップ



ルシュノフ
コーヒーを飲んでひと休みしたあとは、ルーマニアで最も美しい要塞があるというルシュノフに向かうことにした。ネットで調べる限りでは、ブラショフからバスが出ているようなのだけど、いまいちよく分からない。駅の案内所の人に聞いたら、あと10分で出るし、復路もちょうどいい時間のがあるからというので、勧められるがままに電車の切符を買った。
ルシュノフ行きの電車は、都市間を走る電車のための立派なホームが並ぶその先に、ちょこんと停まっていた。

線路を渡って行く

ブラショフからルシュノフ行きの電車は、思いがけず楽しい旅路だった。あまり多くはない客を乗せたレトロな車両が、開けた土地の中をゆっくり進み、窓からは暖かな西陽が差し込んでいた。いつも旅先では忙しなく動き回っているけども、知らない土地でのんびりとした時間を過ごすのも悪くないな、と穏やかな気持ちに浸った。



ルシュノフについて早々、なぜこの街の要塞がルーマニアで最も美しいと言われるか、瞬時に理解した。メインストリートの脇に並ぶオレンジ屋根の可愛らしい建物の先に、小高い山がそびえ立ち、その上に中世の趣を感じさせる要塞がその風格を堂々と示している。あいにく要塞は改装のため閉業中で、手前の展望台までしか入ることはできないのだけど、この外観を見れただけでも来て良かったと思ったほどである。





メインストリートを抜けて、要塞の展望台に向かうケーブルカーの乗り場に向かった。ケーブルカーは定時運行されているわけではないようで、お客さんが来たら随時動くシステムだった。おかげでケーブルカーからの景色を独り占めできたけども、係員と二人きりの車両に若干の気まずさも覚えた。




一通り景色を楽しんだあと、ブラショフで聞いていた帰りの電車の時間も迫っていたので、そろそろ街に降りるかと思って係員に声をかけたら、今日は天気がいいんだから、もうちょっと待って夕焼けを楽しんだら?と言われた。せっかくの提案を無碍にするのも気が引けて、まぁ電車は次のに乗ればいいかと思い直し、係員のいうとおり、もう少しだけ展望台に留まることにした。
夕焼けは、ルシュノフの家々のオレンジ色の屋根をあっという間に真っ赤に染め上げていった。街の静けさとあいまって、神秘的ともとれる瞬間だったけども、なんだか懐かしさを覚える景色でもあった。実際、なんか奈良県ぽいな、と思ったりした。

展望台から街に降りて、次の電車はいつなんだろう、まぁ駅前のコーヒーショップで本でも読んで時間を潰せばいいか、と考えながら駅に向かうと、なにやら見覚えのあるレトロな車両が停まっている。電車のドアから顔を出していた車掌に「これってブラショフ行き?」と叫んで聞いたら、車掌はそうだよと大きく頷いたあと「RUN!!!!」と叫んだ。工藤新一もびっくりなラーーンに驚いて、慌てて電車に乗り込んだ私は、ブラショフで聞いた時刻表は間違ってたんかい、と一人呟いた。
ブラショフに戻ったあと、夕飯に、とうもろこしでできた蒸しパンのようなママリガと、ロールキャベツのようなサルマーレを食べた。この二つは「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」で、アーニャが同級生にルーマニアの素晴らしさを証明するために振る舞った料理でもある。本の描写のとおり、どちらもとても美味しくて感動した。と同時に、まだ子供のアーニャが、母国がいかに良い国であるかを友人たちに示すために(アーニャ自身は一切手を動かしていないにしても)郷土料理を振る舞うに至った、その複雑で必死な子供心と、そして屈折した愛国心を思って、なんとも言えない切ない気持ちにもなった。

夕飯中、アーニャに思いを馳せながら、ブラショフやルシュノフで見た景色と、道中で出会った親切な人たちとのやりとりを思い返した。アーニャの言う通り、ルーマニアは素晴らしい国だ。でもそれは私がこの国の観光地中の観光地しか見ていないからで、独裁政権と特権階級による負の影響は、今もなおルーマニアの人々の生活に爪痕を残しているのかもしれない。明日はブカレストに戻って、独裁政権の産物である国民の館を見に行く予定だ。そこで抱くルーマニアへの印象は、もしかすると全く異なるものかもしれない。それでも私はこの国とこの国の人々が大好きになりつつあった。今日の日記にタイトルをつけるなら、嘘つき時刻表と真っ赤な夕陽だろう。それはこの国の歴史を生き抜いた人々を理解するまでには至らない、表層的な旅行者である自分への皮肉でもあった。
