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暇と退屈の倫理学が見捨てたモノ

本文についてはダラダラと書かない。
暇と退屈の倫理学は通読することに意味がある。反復して、心に留めて生き続けることに意味がある。と、信じている。
この文章群の最後の一文は、暇と退屈の倫理学を通読して得た、僕個人の浅はかな感想である。國分功一郎先生の試みを否定するものでなく、この自由な言論空間で僕が表現したくなった僕の言葉だ。



確かに「人間であり」ながら「動物になること」を待ち構えるという結論はひと言で言って素敵だ。暇と退屈と向き合い続ける僕を含めた読者全員に、赦しを与える結論だと思う。
この結論は「俺はこのまま生きていって大丈夫なんか」という僕の疎外感を受け入れてくれた。
これから先も僕は人間にも動物にもなりながら、少なくとも週に40時間は奴隷にもなって生きていく。
動物になれるチャンスを逃さない為に、色んな世界に触れていこう。英語の本を読んで英語脳を身に着けよう。哲学の本を読んで答えのない海を泳いだり漂ったり沈んだり浮かんだりしていよう。何度もインターステラーを観てアン・ハサウェイの美しさに心奪われて、相対性理論のロマンに胸を踊らせよう。


 



でも奴隷を選んだ人達はどうなる。
そもそも奴隷という言い方もどうなんだ。なぁ、ハイデッガーよ。
暇を持て余す時間がもったいなくて、資格取得の為の勉強に時間を費やして、晴れて合格してより収入の高い職に就いた彼らを指して、「退屈という苦しみから逃れる為に安直にも資本主義の奴隷になる事を選んだ愚かな民」と呼ぼうとでもいうのか。
奴隷とカテゴライズした者たちこそ、現代社会で胸を張って発言権を得ているじゃないか。
分かっている。全ての人に発言権があることは。
だが説得力を持つのは彼ら奴隷達だ。
それが現代社会の病理だと言いたいのか。




友達に居るんだよ。努力して年収を上げた奴らが。
頑張り続けている奴らが。
あいつらも精一杯人生を謳歌しようとしてるんだ。



僕の友達を、奴隷呼ばわりしないでくれ。

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