つかこうへい『出発』@中野テルプシコール 主宰・ドラマトゥルク 川口典成挨拶 新たな「つか劇」の種を探して
つかこうへいの戯曲を読むことは、案外難しい。テキストだけを読んでいるつもりでも、気づけば私たちは「つか劇」を読んでしまっている。
戯曲を読むとき、私たちはつねに、何かしらの演劇観や演技観を通して読んでいる。ただ、つかこうへいの場合、そのことがとりわけ顕著なのである。テキスト自体を読む、というよりむしろ、つかこうへいの「劇的さ」というイメージのフィルターを通して読んでいる、読んでしまっている。
つかは稽古場で俳優と向き合い、自らが台詞をいい、それを俳優が口にするという、「口立て」という手法を繰り返しながら、劇を立ち上げる。そこで生まれるのは台詞だけではない。俳優の身体が変わり、関係が変わり、空間が変わる。その変化のなかで、演技が立ち上がり、その結果として戯曲もまた生成されていく。私たちは、そうした「つか劇」にまつわるあらゆるイメージを戯曲に重ね合わせながら、つかこうへいの戯曲を読んでしまうし、上演を見てしまう。
つかこうへいが岸田國士戯曲賞を受賞した「熱海殺人事件」(1973年)は、初稿版である文学座アトリエに書き下ろされたテキストと、その後に上演されているテキストとには大きな隔たりがあることはよく知られているが、今回の「出発」(1974年)というテキストもまた、文学座に書き下ろされた戯曲であり、その後、つかこうへい自身によって改訂版が作成されている。(「出発」は『熱海殺人事件』に併録されている)
「出発」には、大きく分ければ、主に二つのバージョンがあると言って良い。
①1974年に文学座に書き下ろしたバージョン
②1978年に劇団つかこうへい事務所が上演したバージョン
(「出発」というテキストをめぐる変遷については、林廣親「つか版『父帰る』の問題性──「出発」論」(『つかこうへいの世界 ─消された〈知〉─』)の中に詳細に記述されている)
今回ドナルカ・パッカーンの上演は①に基づいて上演される。
つかの特徴である「口立て」とは別の形で執筆された、机の上で書かれた戯曲『出発』である。初稿だから価値がある、というわけではない。私が惹かれているのは、①のテキストが、「つか劇」の完成された上演イメージに回収されていない点である。
②の改訂版は、つか本人が演出したこともあり、つかこうへいの演出や「つか劇」を代表する俳優たちの身体や声が、読むたびに立ち上がってくる。すでに一つの劇として確固たるイメージが存在しているのだ。
一方、①のテキストは、つか劇の上演スタイルが固まる以前に書かれた、幾つもの可能性に開かれたテキストなのだ。そこに、新たな「つか劇」の種がある。
「出発」は、日本近代の代表作家たる菊池寛の名作「父帰る」への、つかこうへいなりの応答である。
1917年 菊池寛「父帰る」
1974年 つかこうへい「出発」
2026年 ドナルカ・パッカーンによる つかこうへい「出発」
菊池寛「父帰る」から100年、といえば言えるのかもしれない。特にキリがいいわけでもないけれど、日本のここ100年という時間の中で、この「出発」という戯曲をもう一度読み、新たに立ち上げてみたいと思っているのである。
新たな「つか劇」の種を見つけ、つかこうへいの戯曲を、現在の演劇として立ち上げるという作業は、日本のここ100年のなかでいつのまにか見過ごされてきた価値や感覚を掘り起こす試みでもあるはずだ。
主宰・ドラマトゥルク 川口典成
ドナルカ・パッカーン
令和8年公演第2弾
つかこうへい「出発」

作:つかこうへい
演出:濱吉清太朗(紙魚)
ドラマトゥルク:川口典成(ドナルカ・パッカーン)
中野テルプシコール
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