【特攻隊員の死の意味とは】
先日、私は貴重な記事をみなさまに忘れて欲しくないため、魂を込めて記載しました。
私の性格上、興味があるものには、隈なく追求するタイプです。
従って、深掘りしました。
生きては帰れない「特攻」
特攻とは、搭乗員が乗った軍用機や小型艇、潜水艇で連合軍の艦船に体当たりする攻撃です。
太平洋戦争末期に日本軍が組織的に行いました。
決して生きて帰ることのないこの戦い方は、多くの若者の命を奪い、攻撃を受けた連合軍の将兵たちに圧倒的な恐怖を与えました。
特に航空特攻は、戦後81年たった今も「KAMIKAZE」として世界で語り継がれています。
1945年3月に始まった沖縄戦では大規模な特攻を繰り広げ、その出撃基地は鹿児島県、宮崎県、熊本県といった南九州に集中しました。
なぜ日本は特攻に踏み切ったのか
太平洋戦争は1941年12月8日、日本軍がイギリス領マレー半島とハワイ・真珠湾を奇襲攻撃して始まりました。
しかし翌1942年ミッドウェー海戦やソロモン諸島を巡る消耗戦では、熟練搭乗員と航空機を数多く失い、工業生産力に勝るアメリカに軍事力で逆転されます。
1944年6月のマリアナ沖海戦では400機もの空母艦載機と空母3隻を失い、日本軍は機動力をなくします。
軍上層部は、太平洋で優位に立った連合軍には通常の攻撃では対抗できないと判断しました。
そして、特攻による体当たり攻撃をするしかないと考えるようになりました。
1944年10月、第一航空艦隊司令長官に着任した大西瀧治郎中将が、神風特別攻撃隊と名付けた部隊を編成しました。
10月下旬、マッカーサー率いる大上陸部隊がフィリピンのレイテ島に侵攻しました。
同時に起きたレイテ沖海戦でフィリピンから出撃した神風特別攻撃隊は、護衛空母を撃沈するなど戦果を挙げました。
その結果、軍上層部は、特攻をその後の攻撃の柱と位置付けるようになりました。
苛烈だった沖縄での特攻
1945年3月、沖縄に50万を越す連合軍部隊が押し寄せました。
日本で唯一の地上戦となった「沖縄戦」の始まりです。
南九州を中心に奄美群島、石垣島、台湾の基地から沖縄本島周辺の連合軍艦艇に向けて、数多くの特攻隊が出撃しました。
特に4月6日には、陸海軍合わせて300機もの戦闘機、爆撃機が体当たり攻撃を行ったのです。
沖縄戦で被害を受けた連合軍の艦船は200隻以上にのぼります。
そのうち40隻以上の駆逐艦が撃沈されるか、終戦まで戦線復帰できないほどの被害を受けました。
軍艦は、通常の爆撃や雷撃なら戦闘機や対空射撃、操船によってある程度は防御できました。
しかし搭乗員が最後まで操縦し続ける特攻は、容易に避けられませんでした。
1隻の駆逐艦に、同時に5機の特攻機が体当たりしたこともありました。
出撃した若き特攻隊員の思い
出撃した特攻隊員の多くが20歳前後の若者でした。
陸軍少年飛行兵学校や予科練習生を経た少年、学徒出陣で動員された大学生もいました。
戦争の時代と言える昭和初期に育ち、お国のために戦争におもむくのは当然、戦場で命を散らすのは名誉なことだという価値観の中で彼らは、生きてきました。
特攻隊員になることは志願制とされましたが、そこには命令や指名もあり、拒否することはできませんでした。
そのなかで、万に一つも生き残る可能性のない特攻を前に、苦悩したり疑問を感じたりした若者も少なくありません。
慶應義塾大学から学徒出陣した上原良司さんは、当時の日本という国家に対する疑問を呈しながら出撃しました。
「自由の勝利は明白なことだと思います」
「権力主義、全体主義の国家は一時的には隆盛であろうとも必ずや最後には敗れることは明白な事実です」
「一器械である吾人何も云う権利もありませんが、ただ、願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです」
戦場になった南九州 空襲で小学生も犠牲に
多くの特攻基地があった南九州は、繰り返し空襲を受けます。
特攻機が出撃する飛行場などの施設や工場が標的になり、大勢の市民が犠牲になりました。
鹿児島県は奄美群島から種子島、本土の各地に数十回に及ぶ空襲があり、3300人を超す犠牲者が出ています。
宮崎市では、5月11日にB29の爆撃を受けて集団下校の小学生16人が犠牲になりました。
熊本県は、7月1日にサイパンから来たB29による大規模な空襲で焼け野原になった後にも、米軍が占領した沖縄の基地から飛来した戦闘機と爆撃機の空襲を何度も受けました。
連合軍は、11月に予定していた鹿児島・宮崎への上陸作戦の前に、徹底的に南九州の軍事施設とインフラを破壊しようとしたのです。
沖縄戦での特攻犠牲者は日本軍3000人、連合軍5000人
沖縄戦の特攻での日本軍の死者は3000人余りです。
一方、攻撃を受けた連合軍側は5000人にのぼりました。いずれも20歳前後の若者です。
4月6日、米掃海駆逐艦エモンズは、特攻機5機に体当たりされました。
エモンズに乗っていたアンソニー・エスポジトさんは2021年、NHKの取材に対してこう語っています。
「私は直撃を免れましたが、海面に死体がいくつも浮かびあたり一体は火の海と化し、特攻機のエンジンとパイロットの死体を見て、人生がこれからだという若者がカミカゼのパイロットになるなんて。恐ろしさに、私は海軍を去りました」
特攻は、命を落とした若者たちだけでなく、家族や友人、特攻機の製造のために動員された人々など、多くの人の心を深く傷つけ、今もその非情な出来事は語り継がれています。
なぜ戦争をするのか、その中でなぜ命がこうも軽く扱われるのか、こうした事態が起きる世界の、社会の仕組みはどういうことなのか。
そうした問いには、今も解が与えられていません。
特攻による死を「国体の護持」と美化する視点がある一方で、非情な作戦による「犬死に」であったとする批判的な視点も存在します。
この死の意味は、現代においても戦争の愚かしさや平和の尊さを考える象徴として様々な議論の対象となっています。
『全文、調査検索し、編集しました』
しかし、いまでも有識者などによる、論評があるのも事実です。
『執筆ん終えて』
若き青年だった若本は、『約半数の、50%が、望んだ、死では、なかったこと』が分かりました。
それが事実であることが、分かりました。
8月15日、終戦記念日に寄せて、筆を執らせて頂きました。
毎年この日には、政府主催の「全国戦没者追悼式」が日本武道館(東京都千代田区)で開催され、正午に1分間の黙祷が捧げられます
更新日:2024.08.15 公開日:2022.08.15

1945年8月15日正午すぎ
大阪・梅田の曽根崎警察署前
8月15日は「終戦の日」です。
1945(昭和20)年の8月15日、日本が無条件降伏をしたことで、第二次世界大戦が終結しました。
戦争が終わった日として「終戦記念日」、追悼と平和への意志を込めて「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とも呼ばれています。

戦争や平和に関する内容を報じます。
散った桜、散り終えた桜、私たちは、これを忘れてはならないと、私的ながら思います。
Photo & philosophy donchan
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