かみながや|||シン小説 no.105
世の中、カミさんは、至るところにいらっしゃるようでございまして。
家に帰れば、カミさん。
神社へ行けば、神さん。
偉くなると、お上さん。
どれも、逆らわないほうがよろしい。
とくに最初のカミさんなんぞは、下手に逆らいますと、神頼みをすることになります。
さて、昔から長屋というところは、壁一枚隔てて暮らしておりまして。
壁なんて申しましても、いまのマンションみたいな立派なもんじゃございません。
隣で味噌汁をこぼせば、こっちまで味噌の匂いがする。
夫婦喧嘩をすれば、翌朝には長屋中が判決を出している。
誰かが夜中に腹を壊せば、本人より先にみんなが知っている。
秘密なんてものはございません。
そんな長屋で、ここんところ、妙な声が聞こえるってんですよ。
毎朝。
そして、毎晩。
決まった時刻になりますと、
「イキガミ!」
なんとも妙な声でございます。
男とも女ともつかない。
大人とも子供ともつかない。
「イキガミ!」
最初に気にしたのが、長屋のご隠居でございまして。
歳は七十をとうに過ぎている。
朝起きると、お茶を一杯。
仏壇に手を合わせて、
「ああ、今日も生きてる。ありがたい」
そういう人でございます。
ある朝。
「イキガミ!」
ご隠居、ぴたりと止まった。
「……いま、なんと?」
「イキガミ!」
「生き神……?」
手を合わせた。
「ありがたや、ありがたや」
そこへ隣の八五郎がやってきまして、
「ご隠居、なに拝んでんです?」
「しっ。聞こえんか」
「なにが?」
「生き神様じゃ」
「どこに?」
「知らん」
「知らねえ神様、拝んでんですかい?」
「神様なんぞ、だいたい知らんだろ」
「まあ、そりゃそうですがね」
「毎朝毎晩、こうしてお声をくださる」
そのとき、
「イキガミ!」
八五郎、首を傾げる。
「これ、生き神って言ってますかね?」
「ほかになんと聞こえる」
「いやあ……」
「お前は信心が足りん」
それからご隠居、毎朝毎晩、その声が聞こえるたびに手を合わせるようになった。
すると長屋というところは面白いものでございまして。
ひとりが拝み始めると、気になる者が出てくる。
次に聞きつけたのが、辰公。
これが、なにかにつけて格好をつけたがる。
煙草の吸い方ひとつにも、
「こういうのは野暮じゃいけねえ」
なんて言う。
ある晩、
「イキガミ!」
辰公、ニヤリ。
「なるほどねえ」
八五郎が、
「なにが、なるほどなんだ」
「粋だよ」
「イキ?」
「粋の神だ」
「粋の神?」
「いるんだよ。粋ってのを極めるとな」
「どこに」
「そこまでは知らねえ」
「お前も知らねえのか」
辰公は構わず、
「いいか。粋ってのはな、見せびらかしちゃいけねえ。見せびらかした時点で野暮になる」
「お前、いつも見せびらかしてるじゃねえか」
「だから、まだ修行中だ」
長屋には、大工の熊さんもおります。
職人というものは、なにかと『腕』にうるさい。
朝、ノコギリをかけておりますと、
「イキガミ!」
熊さん、手を止めた。
「……そうか」
八五郎がまたやってくる。
「今度はなんだい」
「域だ」
「なんの?」
「職人の域だよ」
「なに言ってんだ」
「腕ってのはな、あるところを越えると、自分でやってるのか、道具がやってるのかわからなくなるんだ」
「へえ」
「俺も、そろそろその域に……」
ノコを見る。
木を見る。
もう一度、ノコを見る。
「……まだだな」
「神様も、そこまでは面倒見きれねえよ」
また別のところには、甚兵衛さん。
これが身体が弱い。
少し走るだけで、
「はあ、はあ、はあ」
いつも息を切らしている。
ある朝。
「イキガミ!」
甚兵衛さん、青い顔をして出てきた。
「みんな……聞いたか」
「また聞こえたね」
「息が……」
「息?」
「息が、神なんだよ」
「なんだそりゃ」
「生きてるってことは、息をしてるってことだろ」
「まあ、そりゃそうだ」
「吸って、吐いて。吸って、吐いて。それだけで人は生きてる」
「まあ、そりゃそうだ」
「だから俺は、これから一息一息を大切に……」
「イキガミ!」
「うわっ!」
びっくりして、息が止まっちまった。
長屋の婆さん。
「イキガミ!」
婆さん、顔を曇らせまして。
「あら……」
「どうしたんだい、婆さん」
「誰か逝くんじゃないかね」
「また縁起でもないことを」
「逝き神だよ」
「そんな神様いるのかい」
「生き神がいるんなら、逝き神だっているだろ」
「対にしなくていいんだよ」
「こうして毎朝毎晩、誰を連れていこうか、見まわってるんだよ」
ご隠居が怒った。
「馬鹿なことを言うな。
あれは生き神様じゃ」
「粋の神だって」
「域だよ、域」
「息だってば」
「逝きだよ」
そこへ魚屋の政吉が威勢よく入ってきた。
「なんだい、なんだい。朝っぱらから」
「政吉よ、お前はどう聞こえる」
「決まってらあ。意気だよ、意気!」
「意気?」
「人間、最後は意気だ。
意気がなきゃ始まらねえ!」
「お前はいつも威勢だけだな」
「それが魚屋ってもんだ!」
こうなってきますと、もう声の正体なんぞ、どうでもよくなる。
「イキガミ!」
ご隠居は手を合わせる。
辰公は襟を直す。
熊さんはノコギリを研ぐ。
甚兵衛さんは深呼吸。
婆さんは誰かの顔色を見る。
政吉は気合を入れる。
そういやね、朝だけじゃない。
夜も聞こえる。
「イキガミ!」
朝と晩。
毎日。
一日も欠かさない。
「変じゃねえか?」
「なにが」
「神様ってのは、こんなに時間に正確なもんかね」
「なんてたって神様だからねえ」
「でも朝晩だぜ?」
「ありがたいことじゃ」
「そういや、声のあとにドタバタ聞こえるんだけどね」
「神事だろう」
「神事って、そんなに暴れるもんかね」
その日の晩。
いつもの時刻。
長屋中が、なんとなく静かになった。
誰も口にはしませんが、みんな待ってるわけです。
そろそろだ。
来るぞ。
すると、
「イキガミ!」
そのとき突然、女の怒鳴り声。
「こら! 逃げないの!」
「ほら、口あけて!」
ドタドタドタ。
「やーだ!」
「磨かなきゃ虫歯になるでしょ!」
長屋中、顔を見合わせた。
八五郎が壁に耳をつける。
「おい……」
「なんだ」
「なんか、おかしくねえか」
また隣から、
「はい、あーんして!」
「んーーーっ!」
「ほら!」
「ハミガキ、いやっ!」
なにせ子供でございます。
歯ブラシを持った母親から逃げまわる。
捕まっても、口をぎゅっと閉じたまま叫ぶもんだから、
「ンミガ厶ヤ!」
「イミガミャ!」
みな互いの顔を見る。
「イミガミャ?」
――ご隠居の手が、止まった。
その手のまま、しばらく動かない。
「ご隠居?」
返事がない。
辰公の襟も止まっている。
熊さんのノコも、木の上で止まっている。
甚兵衛さんは、息をするのも忘れている。
婆さんの手から、数珠がこぼれ落ちた。
政吉だけが、まだ気づかず、
「……意気じゃねえの?」
八五郎が静かに言った。
「歯磨きだよ」
「へ?」
「毎朝毎晩、歯磨きしてたんだよ」
長い間があって、ようやくご隠居が口を開いた。
「じゃあ、生き神様は?」
「子供だよ」
「粋は?」
「知らねえよ」
「域は?」
「勝手に達してろ」
「息は?」
「してろ」
「逝きは?」
「縁起でもねえ」
政吉が、なおも食い下がる。
「意気は?」
「魚売ってこい」
よくよく聞いてみりゃ「イキガミ!」なんて風にゃ、まるで聞こえやしない。
そこへ隣から、母親の悲鳴。
「痛っ!」
「なんでい、なんでい!」
みなで駆け込む。
「どしたい、どしたい」
母親、手を押さえて涙目ときたもんだ。
「この子ったら!」
「なんだい?」
イッキにカミついてきたんだそうでございます。

おあとがよろしいようで
