【郊外都市コラム #001】青梅市_東京に、江戸城を建てた石灰石の街がある
シリーズ第1回は、東京都・青梅市です。新宿から電車で約60分。都内でありながら、多摩川が山から平野へと流れ出る山あいの街です。石灰石を江戸に届け、絹織物を全国に売り、昭和レトロで話題を集めてきた。しかし2005年を境に人口は減り続け、2040年には多摩地区で最大の落ち込みが予測されています。「産業を失った街」は、次に何者になるのでしょうか。
山と江戸をつないだ街の、400年の歴史
青梅線が1894年に開業したとき、その目的は「人を運ぶこと」ではありませんでした。
石灰石を江戸へ運ぶための鉄道だったのです。
青梅市の北部・成木(なりき)地区には、質のよい石灰石の産地があります。江戸城を建てるには大量の石灰(漆喰=しっくい)が必要でした。幕府の代官・大久保長安(おおくぼながやす)は慶長11年(1606年)、石灰石を運ぶための道として「青梅街道」を整備しました。以来、青梅は「山の資源を江戸に届ける街」という役割を400年近く担い続けます。
もう一つの主力産業が繊維業です。
江戸中期に確立した「青梅縞(あおめじま)」は全国市場に出回り、明治以降は夜具地(布団の表地)の産地として栄えました。昭和初期まで、青梅の屋台骨を支えていたのはこの布産業でした。
「青梅」という地名の由来にも、歴史のロマンがあります。
平安時代、平将門がこの地の寺を訪れた際、鞭代わりにしていた梅の枝を地面に挿し「我が望み叶うなら根づくべし」と誓いました。その梅は実をつけたものの、夏が過ぎても青いまま熟さなかった。この「青い梅」が地名の起源とされています。
昭和レトロは、本当に街を救えるのか
1998年、石灰石を運んでいた貨物列車が最後の運行を終えました。
繊維産業はとっくに衰退し、工業団地の製造業も縮小傾向にありました。「この街の産業といえば○○」と言えるものが、青梅から消えていったのです。
その空白を埋めようとして生まれたのが、「昭和レトロ」戦略でした。
1990年代から商店街に映画看板を並べ、昭和レトロ商品博物館や赤塚不二夫会館を整備しました。「昭和の風景が残る街」として話題を呼び、観光客が訪れるようになります。
しかし2005年、人口が約14万2千人でピークを迎えた後、減少が続いています。
2040年には約10万4千人になると推計され、多摩地区で最も大きな落ち込み(約25%減)が予測されています。昭和レトロは観光客を呼べても、住む人を増やすことはできませんでした。
次の青梅は、4つの選択肢のどこへ向かうか
産業を失った街が次に選ぶ道は、大きく4つのパターンに分けられます。
① 伝統産業の復刻(過去の産業をよみがえらせる)
青梅縞を復刻する小規模工房など、一部に取り組みはあります。ただし「需要がなくなったから消えた」産業の復刻は、街の柱にはなれません。「産業の記憶を伝える場所」として意味を持つ程度です。
② 新産業の誘致(外から企業や起業家を呼び込む)
クラフトビール醸造所など新しい業態も生まれています。多摩川の水や山林の気候を活かした食品加工・醸造業には可能性があります。ただし東京圏での企業誘致競争は激しく、青梅ならではの強みを打ち出せるかが問われます。
③ 歴史・観光の深化(昭和レトロをさらに磨く)
現在の青梅が力を入れているのがここです。観光客は来ますが、日帰りで終わることが多く、消費が街に根づきません。「レトロ」というコンテンツは更新が難しく、時間とともに陳腐化するリスクもあります。
④ 移住・テレワーク拠点化(都市から人を呼び込んで住んでもらう)
東京まで電車約60分という距離と豊かな自然環境は、コロナ後の「自然の中で暮らしたい」という需要と合います。青梅市も移住促進を政策に打ち出しています。医療・子育てのインフラ整備が課題ですが、若い世代を呼び込める可能性がある選択肢です。
青梅線が最近、グリーン車を導入しました(2024年)。石灰石輸送のために生まれた鉄道が、快適な通勤路線へと変わっていく。その変化は、街そのものの変化と重なって見えます。
「昭和レトロ」を超えた青梅が次に何を選ぶか。その答えが、首都圏に似た課題を抱える多くの街への、ひとつの手がかりになるはずです。
あなたが住む街にも、かつて栄えた「消えた産業」はありますか?
