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空海を見て考えた「世界の見え方」|学ぶこと、心のピント、そして日常の中の小さな気づき

テレビで『空旅中国』という番組の再放送があると、私はつい手を止めて見てしまいます。

数年前から何度も見ているはずなのに、不思議と飽きません。

見るたびに、

「こんな場所だったんだ」

「こんな背景があったんだ」

と、新しく気づくことがあります。

特に私が好きなのが、若き日の空海が唐へ渡っていく旅です。

今なら、中国へ行こうと思えば飛行機で数時間です。

でも、空海が生きていた時代は違います。

海を渡ること自体が命がけでした。

それでも空海は、自分が求めているものを学ぶために唐へ渡りました。

そして唐で学んだことを持ち帰り、仏教だけではなく、教育や人々の暮らしにも関わっていきました。

その姿を見るたびに、私は思います。

「どうして空海は、こんなにたくさんのことを学べたんだろう?」

「どうやって、それを自分のものにしていったんだろう?」

私はもちろん、空海のような人ではありません。

特別に記憶力がいいわけでもありません。

それでも、空海について調べたり、脳の仕組みについて学んだりしているうちに、

「学ぶということは、ただたくさん覚えることではないのかもしれない」

と思うようになりました。

新しいことを知る。

自分がすでに知っていることとつなげてみる。

自分の経験と重ねてみる。

実際に試してみる。

そして、

「私は、どう感じているんだろう?」

と、自分自身を観察してみる。

振り返ってみると、私は人間関係について考えたときも、食生活について考えたときも、同じようなことをしてきました。

今回は、空海の姿から考えた「学ぶこと」と、

これまで私が大切にしてきた、

「心のピントを、自分の幸せへ戻すこと」

について書いてみたいと思います。


「記憶力がいい人」って、どんな人なんだろう?

空海について調べていると、「虚空蔵求聞持法」という修行の話を知りました。

真言を繰り返し唱える、とても厳しい修行です。

私は初めて知ったとき、

「そんなに何度も唱えるの?」

と驚きました。

声に出す。

自分の声を耳で聞く。

何度も繰り返す。

身体を使う。

もちろん、これは仏教の修行なので、単純に「記憶術」として考えるものではないと思います。

でも私は、この話を知ったことで、

「人は、どうやってものを覚えているんだろう?」

と興味を持ちました。

私は以前、

記憶力がいい人というと、

一度見たものを、そのまま頭の中に保存できる人

のようなイメージを持っていました。

実際、目で見たものを覚えることが得意な人もいます。

何かを思い出すときに、

「そのとき見た景色が頭の中に浮かぶ」

という人もいると思います。

記憶を思い出すときには、最初に見たり経験したりしたときに働いた脳の領域の一部が、再び活動することも知られているそうです。

だから、

「頭の中でもう一度見る」

という感覚があること自体は、不思議なことではないのだと思います。

でも、記憶の仕方は一つではありません。

脳科学や認知心理学について調べていくと、

新しく知ったことを、それまで持っていた知識と結びつけることも、学習や記憶を助ける

ことが分かってきました。

例えば、

「これ、前に知ったあの話と似ているな」

「そういえば、私はこんな経験をしたことがあるな」

と考える。

すると、新しい知識が単独で浮かんでいるのではなく、

自分の中にすでにある知識とつながっていきます。

私は、この考え方を知ったとき、

「これは私にもできそう」

と思いました。

私は、一度見ただけで何でも覚えられるわけではありません。

でも、

自分が経験したことと結びつけながら考えることならできる。

そして実際、そのほうが私には覚えやすいように感じます。


RASを知ったときも、自分の経験とつながった

例えば、私は以前からRASという言葉について書いてきました。

RASは、脳幹にある神経系の働きに関係し、覚醒などに重要な役割を持っています。

私たちの「注意」はRASだけで決まるわけではなく、脳のさまざまな領域やネットワークが関わっています。

それでも、

私たちは目の前にあるすべての情報を、同じように意識しているわけではありません。

たくさんある情報の中から、

そのとき自分にとって意味のあるものや、気になるものへ注意が向きます。

私はこのことを知ったとき、

以前の自分を思い出しました。

私は長い間、

「人は怖い」

「嫌われるかもしれない」

「私はどう見られているんだろう」

と思うことがよくありました。

すると、人の冷たい表情や、自分にとって気になる言葉などが、とても目につきました。

反対に、

「人には優しいところもあるのかもしれない」

と思って、人の良いところを見るようにしたとき。

それまでは気づかなかった小さな親切にも、少しずつ気づくようになりました。

世の中から冷たい人が消えたわけではありません。

急に優しい人だけになったわけでもありません。

でも、

自分が何に注意を向けているのかによって、自分が受け取る世界は少し変わる。

私は脳の注意について学んだとき、

「そういえば、私自身も似たことを経験していたな」

と思いました。

知識と自分の経験がつながった瞬間でした。


「世界の見え方」は、本当に少し変わる

以前の記事で私は、

「心のピントを、自分の幸せへ戻す」

ということについて書きました。

以前の私は、人からどう見られているのかをとても気にしていました。

「嫌われていないかな」

「何か言われていないかな」

「私は変な人だと思われていないかな」

そんなことを考えていました。

誰かが視界に入っただけで、心がざわつくこともありました。

何かされたわけではない。

何か言われたわけでもない。

ただ、そこにいる。

それだけなのに、

「あ……」

と、一瞬で注意が向いてしまう。

以前の私は、

「どうしてまだ気にしてしまうんだろう」

と思っていました。

でも、脳の仕組みについて知ってから、

少し違う見方ができるようになりました。

「あ、今、私の注意がこの人に向いたんだな」

まずは、それだけ。

そこから、

「また気にしてしまった」

「私はまだダメなんだ」

と、自分を責めなくてもいい。

そして、

「あ、今ちょっと心がざわついたな」

と、自分の感情を見る。

私は、この「見る」ということが、とても大切だったように思います。


「感情=私」ではない

以前の私は、

嫌な感情を感じると、

「こんなことを思ってはいけない」

と思っていました。

怒ってはいけない。

嫌だと思ってはいけない。

不安になってはいけない。

いつも穏やかでいなければいけない。

でも、感情は、

「感じないようにしよう」

と思ったからといって、なくなるものではありませんでした。

そこで私は、

感情をなくそうとするのではなく、

少し離れて見てみる

ようになりました。

「あ、今私は嫌だと感じたんだな」

「今、心がざわついているな」

「この人が目に入って、過去のことを思い出したのかもしれないな」

そうやって見てみる。

すると、

怒りを感じている私。

不安を感じている私。

ざわつきを感じている私。

そして、

それに気づいている私。

その間に、ほんの少し距離ができました。

以前の記事でも書きましたが、

私は、

「感情=私」ではない

と思えるようになったことで、少し楽になりました。

感情は、私の中に起きているもの。

でも、それが私のすべてではありません。


心の静寂は、何も感じなくなることではなかった

以前の私は、

「その人を見ても何も感じなくなったら、完全に乗り越えたということなのかな」

と思っていました。

でも今は、そうは思いません。

心が少しざわついてもいい。

嫌だと思ってもいい。

不安になる日もある。

誰かの視線が気になることもある。

でも、

「あ、今私はこう感じているんだな」

と気づく。

そして、

その感情だけに、自分の一日全部を渡さない。

私は以前、

心の静寂とは、何も感じないことではなく、感じたものに人生の主導権を渡さないこと

なのかもしれない、と書きました。

今も、この考えは私の中にあります。

揺れない人になる必要はない。

揺れたら、

また自分へ戻ってくればいい。


「私は、そんなに恥ずかしい存在なのだろう?」

私にとって、もう一つ大きかったのが、

「私は、そんなに恥ずかしい存在なのだろう?」

と、自分に問いかけたことでした。

以前の私は、

誰かに悪く思われていると感じると、

その評価が、まるで自分自身の価値のように感じられていました。

でも、

「誰かが私をどう見るかで、私の価値まで決まるのだろうか」

と考えたとき、

「違うのではないか」

と思えました。

誰かの評価は、その人の世界の中にあるもの。

私が自分をどう見るかは、私の世界の中にあるもの。

そこは、分けて考えていい。

そう思えるようになってから、

少しずつ、

「私は私でいい」

と思えるようになりました。

そして不思議なことに、

人との関係も少し楽になりました。

人からどう見られているかより、

「私は、今どう感じている?」

と、自分へ意識を戻せることが増えたからなのかもしれません。


相手を消そうとするより、自分の世界へ戻る

以前の私は、

「どうしたら、その人が気にならなくなるんだろう」

と考えていました。

でも今は、

少し違います。

「私は、何に意識を向けたいんだろう?」

と考えます。

相手を消そうとすると、

結局、ずっと相手に意識を向けることになります。

でも、自分が大切にしたいものへ視線を向けると、

少しずつ自分の世界へ戻ってこられます。

今日飲みたいお茶。

好きな音楽。

書きたい文章。

外の空。

家族との時間。

これからやってみたいこと。

今日できた、小さなこと。

そんなものへ、

もう一度、心のピントを合わせていく。

すると、

「私には、私の人生がある」

という感覚が戻ってきます。

世界そのものは、変わっていません。

でも、

私が世界のどこを見ているのかは変わっています。

私は、この感覚が、

今回、空海について考えていたときの

「世界の見え方」

というテーマにつながっていることに気づきました。


学ぶことで、「見えなかったもの」が見えるようになる

空海について知る。

脳について知る。

人の心について知る。

食べるものについて知る。

知識が増えることで、

今までと同じものを見ているのに、

違うものが見えてくることがあります。

例えば以前なら、

「また私は気にしてしまった」

だけだった出来事が、

今なら、

「過去の経験から、この情報に注意が向いたのかもしれない」

と考えられる。

以前なら、

「嫌な感情を持ってしまった」

と思っていたことも、

「今、私はこう感じているんだな」

と見ることができる。

知識そのものが私を変えたというより、

知ったことによって、自分を見る角度が一つ増えた

のだと思います。

私は、そういう学び方が好きなのかもしれません。


身体を見ることも、心を見ることと似ていた

考えてみると、

これは食生活について私がしてきたこととも似ています。

私はこれまで、

小食を試したり、

4毒抜きを続けたり、

お米をしっかり食べる食生活を試したりしてきました。

食事には、いろいろな考え方があります。

「これが良い」

「これは良くない」

という情報もたくさんあります。

でも、私は少しずつ、

「実際に食べたあと、私はどう感じているんだろう?」

と、自分を見るようになりました。

小食をしていたときに感じた良さもありました。

一方で、しっかりお米を食べるようにしたときに、身体の変化を感じることもありました。

久しぶりに回転寿司を食べて、

「思っていたほど、おいしいと感じないな」

と思ったこともありました。

昔好きだったから、

今も好きなはず。

みんなが食べているから、

自分にも合うはず。

そう頭で決めるのではなく、

「今の私は、どう感じている?」

と見てみる。

人間関係では、

「私は今、どう感じている?」

と心を見る。

食生活では、

「身体は今、どう感じている?」

と身体を見る。

考えてみると私は、

違うことをしているようで、

ずっと同じようなことをしていたのかもしれません。


空海について考えていたら、「悟り」という言葉を思い出した

空海が広めた真言密教には、「即身成仏」という考え方があります。

私は以前、

「悟り」

という言葉を、

厳しい修行をした特別な人だけがたどり着く、とても遠いものだと思っていました。

私の日常とは関係のない世界。

そんなイメージでした。

でも、今回空海について考えていて、

私は以前より少しだけ、

「悟り」という言葉を身近に感じました。

もちろん、

私が仏教の悟りを理解した、

という意味ではありません。

また、脳科学で悟りの正体が分かった、という意味でもありません。

悟りのような宗教的・哲学的な体験を、

脳の一つの仕組みだけで説明することはできないと思います。

ただ、私は脳や瞑想について調べる中で、

少し興味深いことを知りました。


DMNを知って、少しだけつながったこと

脳には、

DMN(デフォルト・モード・ネットワーク)

と呼ばれるネットワークがあります。

これは、よく「ぼーっとしているときに働く脳」と説明されることがありますが、

実際にはもっといろいろなことに関わっています。

自分自身について考えること。

過去を思い出すこと。

未来を想像すること。

人の気持ちを考えること。

頭の中でさまざまなことを思い巡らせること。

そうした内側の思考にも関係しています。

だから、DMNは「悪い雑念を作る回路」というわけではありません。

私たちにとって必要な働きです。

一方で、瞑想について調べた研究では、

瞑想をしているときや、瞑想を続けた人では、

DMNを含む脳のネットワークの活動やつながり方に変化がみられることがあるそうです。

ただ、研究結果は一つではありません。

脳の一部分だけが単純に「静まればいい」という話でもありません。

そして、

「悟り=DMNが止まること」

でもありません。

それでも私は、このことを知ったとき、

自分がこれまでしてきたことを思い出しました。


「あ、今私はこう感じている」と気づく

以前の私は、

一つ嫌なことがあると、

そこから考えがどんどん広がっていました。

「あの人は私をどう思っているんだろう」

「周りの人もそう思っているのかな」

「私はそんなに変なのかな」

一つの出来事から、

過去へ行ったり、

まだ起きていない未来を想像したり、

他人の頭の中を考えたりしていました。

でも今は、

「あ、今私はこのことを考えているな」

と気づくことがあります。

「あ、今ちょっと不安になったな」

「あ、今、他人の評価に心のピントが向いていたな」

そうやって気づくと、

ほんの少しだけ、自分の思考から離れることができます。

そして、

「私は今、何を大切にしたい?」

と、自分へ戻ってくる。

私は、この感覚と、

「悟り」という言葉から受け取るものに、

どこか重なる部分があるように感じたのです。


「悟り」は、心が動かなくなることではないのかもしれない

以前の私は、

心が穏やかな人は、

いつも穏やかなのだと思っていました。

怒らない。

不安にならない。

傷つかない。

何があっても動じない。

でも、自分の心を観察してきたことで、

今は少し違うように感じています。

人間だから、心は動く。

悲しいときは悲しい。

嫌なことは嫌。

不安になることもある。

それでも、

「私は今、こう感じている」

と気づくことはできる。

その感情を消さなくても、

その感情だけに、自分の人生のすべてを渡さなくてもいい。

以前の記事で私は、

「心の静寂とは、何も感じないことではなく、感じたものに人生の主導権を渡さないこと」

と書きました。

今振り返ると、

私が「悟り」という言葉に惹かれた理由の一つは、

この感覚とどこか似ているように感じたからなのかもしれません。

もちろん、

これが仏教でいう悟りそのものだとは思っていません。

でも、

自分の考えに完全に飲み込まれるのではなく、

「あ、今私はこう考えているんだな」

と気づく。

そして、

今ここにいる自分へ戻ってくる。

私にとっては、

それだけでも以前とはずいぶん違う世界に感じます。


「私は私でいい」という場所へ戻る

私がこれまで、

何度も戻ってきた言葉があります。

「私は私でいい」

誰かが私をどう見ているか。

誰かが私をどう評価するか。

それは、その人の世界にあるもの。

私は、自分の世界を生きている。

だから、

誰かにどう思われたとしても、

その人の評価だけで自分自身の価値まで決めなくていい。

もちろん、

人から学ぶことはあります。

自分が間違っていることもあります。

反省したほうがいいこともあります。

でも、それと、

「私は存在してはいけない」

「私は恥ずかしい人間だ」

と思うことは別です。

私は私でいい。

間違えたら、また学べばいい。

心が揺れたら、また戻ってくればいい。

私は、そんなふうに考えるようになりました。


学ぶことは、自分へ戻る道を増やすことなのかもしれない

空海について考え始めたとき、

私は最初、

「空海は、どうしてそんなにたくさん覚えられたんだろう?」

ということに興味を持っていました。

でも、考えていくうちに、

私は記憶力そのものより、

学んだことを、どう自分の人生につなげていくのか

ということに惹かれているのだと気づきました。

RASについて知ったこと。

注意の仕組みについて知ったこと。

自動的に浮かぶ思考について知ったこと。

自分の感情を、一歩離れて見るということ。

食べたあとの身体の感覚を見ること。

どれも、

「知識をたくさん持っている人になるため」

だけではありませんでした。

私が苦しくなったとき、

「こういう見方もできるかもしれない」

と思わせてくれるものになりました。

知識が増えることで、

自分へ戻ってくる道が、一つずつ増えていった。

私は今、そんなふうに感じています。


日常の中の、小さな「気づき」

「悟り」という言葉は、とても大きな言葉です。

だから私は、

「私は悟った」

とは思っていません。

でも、

「あ、そうだったのか」

という小さな気づきなら、

日常の中で何度も経験してきました。

「私は人が嫌いだったのではなく、傷つくことが怖かったのかもしれない」

と気づいたこと。

「人は思っていたより優しいのかもしれない」

と思えるようになったこと。

「嫌な感情が浮かんでも、それが私そのものではない」

と気づいたこと。

「誰かの評価は、その人の世界にある」

と思えたこと。

「私は私でいい」

と思えるようになったこと。

「昔好きだったものが、今の自分にも合うとは限らない」

と身体から教えてもらったこと。

「相手を消したかったのではなく、自分の人生へ戻りたかったんだ」

と気づいたこと。

そんな小さな気づきによって、

世界そのものは変わっていなくても、

私から見える世界は、少しずつ変わってきました。

もしかすると私は、

「悟り」という大きな言葉そのものではなく、

その中にある

「気づくこと」

に惹かれているのかもしれません。


まとめ|世界は変わらなくても、見えるものは変わっていく

空海の姿を見ていると、

学ぶことは、

「たくさん覚えること」

だけではないのだと思います。

知る。

自分の経験とつなげる。

考える。

実際に試してみる。

そして、

自分の心や身体に起きていることを見てみる。

その中で、

「あ、そうだったのか」

と気づく。

そんなことの繰り返しなのかもしれません。

私はこれまで、

他人からどう見られているのかに、心のピントを向けていたことがありました。

でも今は、

「あ、今そちらを見ていたな」

と気づいたら、

少しずつ自分へ戻ってくるようにしています。

「私は今、どう感じている?」

「私は本当は、何を大切にしたい?」

「私は今日、どんな一日を過ごしたい?」

と、自分に問いかけてみる。

心がざわついてもいい。

揺れてもいい。

迷ってもいい。

また戻ってくればいい。

食生活についても同じです。

頭で決めた正解だけではなく、

「今の私の身体はどう感じている?」

と聞いてみる。

人間関係でも、

「どう見られている?」

ではなく、

「私はどう感じている?」

と聞いてみる。

そして、

「私は私でいい」

という場所へ戻ってくる。

空海が1200年以上前に歩いた道と、

私が今歩いている道は、もちろんまったく違います。

空海が考えた悟りと、

私の日常の小さな気づきを、

同じものだと言うこともできません。

それでも、

自分や世界について知ろうとすること。

自分の思い込みに気づくこと。

今、自分に何が起きているのかを見ること。

そして、

そこで気づいたことを、自分の生き方へつなげていくこと。

そこには、時代を越えてどこか通じるものがあるのかもしれない。

私は今、そんなふうに感じています。

今日ひとつ、新しいことを知る。

今日ひとつ、

「あ、私は今こう感じているんだな」

と気づく。

そして今日ひとつ、

自分にとって大切なものへ、

心のピントを戻してみる。

そんな小さなことなら、私にもできます。

世界そのものを自由に変えることはできません。

でも、

自分が今どこを見ているのかに気づいて、もう一度見たい方向へ心のピントを戻すことはできる。

私はこれからも、

いろいろなことを学びながら、

自分の心や身体の声にも耳を傾けながら、

そんな小さな「気づき」を大切にしていきたいと思います。

そして今日も、

心のピントを、自分の幸せへ。

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