心のピントを、自分の幸せへ。|RASと「客観的な視点」が教えてくれた、心を穏やかに取り戻す方法
「どうして、もう気にしていないと思っているのに、ある人が目に入ると、心がざわつくんだろう?」
そんな経験はありませんか?
私自身も、以前はよくありました。
その人を攻撃したいわけではありません。
相手にも、その人なりの事情や背景があるのだろうと思えるようにもなっていました。
以前のような強い怒りや憎しみを感じることも、ずいぶん少なくなっていました。
それなのに。
その人が視界に入った瞬間、
「あ……」
と、一瞬で意識がそちらへ向いてしまう。
何かを言われたわけでもない。
何かをされたわけでもない。
ただ、そこにいる。
それだけなのに、心が少しざわつく。
そして、ほんの一瞬のことなのに、なぜかどっと疲れてしまう。
以前の私は、そんな自分を不思議に思っていました。
「どうして、まだ反応するんだろう」
「どうしたら、もっと穏やかに過ごせるんだろう」
そんなことを考えながら、私は脳の仕組みや心理学、RAS(網様体賦活系)について学んできました。
そして、少しずつ考え方が変わっていったのです。
それは、
「この反応をなくさなければ」と頑張らなくてもいいのかもしれない。
ということでした。
心がざわついたら、
「ああ、今、私の脳がこの情報に注意を向けているんだな」
と、一歩引いて眺めてみる。
「私は今、こう感じているんだな」
と、自分の感情をそのまま認める。
そして、
「でも、この感情のまま、ずっとここに意識を留めておかなくてもいい」
と、自分の世界へ戻っていく。
そんな小さな選択が、私にとっては大きな意味を持つようになりました。
そして、もう一つ。
私の中には、もっと根本的な変化がありました。
それは、
「私は、そんなに恥ずかしい存在なのだろうか?」
と、自分自身に問いかけたことでした。
今日は、ある人の存在や周囲の視線が気になってしまうときに、私自身が意識するようになった「脳の仕組み」と「客観的な視点」。
そして、自分自身を認められるようになったことで、少しずつ人との関わり方まで変わっていった経験。
そこから見つけた、
「心のピントを、自分の幸せへ戻していく方法」
について書いてみたいと思います。
「私は、そんなに恥ずかしい存在なのだろう?」
今回のことを考えるうえで、私にとって大きな転機になった問いがあります。
それは、
「私は、そんなに恥ずかしい存在なのだろう?」
というものでした。
以前の私は、人から自分がどう思われているのかを、とても気にしていました。
誰かに何かを言われる。
自分について何かを言われていると知る。
誰かから否定的に見られていると感じる。
そんなとき、表面的には平静を装っていても、心の奥では、
「そんなふうに思われている自分って、恥ずかしいのではないか」
と感じていたのだと思います。
だからこそ、ある人の存在が気になることは、単純に「その人が気になる」というだけではなかったのかもしれません。
その奥には、
「私は、人からどう見られているのだろう」
という、自分自身への意識があったのだと思います。
けれど、あるときふと、
「私は、そんなに恥ずかしい存在なのだろうか?」
と思いました。
誰かが私をどう見るか。
誰かが私をどう評価するか。
それによって、私自身の価値まで決まるのだろうか。
そう考えてみると、
「それは違うのではないか」
と思えたのです。
誰かの評価は、その人の世界の中にあるもの。
私が自分自身をどう見るかは、私の世界の中にあるもの。
そこは、分けて考えていい。
そう思えるようになってから、少しずつ自分の中に変化が起こりました。
以前よりも、精神的に堂々としていられる部分が生まれたのです。
そして不思議なことに、
以前より、自分のことを好きになっていきました。
「私は私でいい」
そう思える瞬間が、少しずつ増えていったのです。
自分を守ってあげたい。
自分を大切にしてあげたい。
自分の気持ちを、自分がちゃんと聞いてあげたい。
そんな感覚も、少しずつ育っていきました。
そして、その変化は、自分の中だけにとどまりませんでした。
自分を認められるようになると、人との距離感も少し変わっていった
以前の私は、人と接することにも、どこか緊張していました。
「どう思われるだろう」
「変に思われないだろうか」
「嫌われたらどうしよう」
「何か間違ったことを言ってしまわないだろうか」
そんなふうに、相手の反応を気にしながら人と接していたように思います。
人と話すことそのものより、
「人から見た自分」
を気にしていたのかもしれません。
だから、人と接することに少し苦手意識がありました。
でも、自分に対して、
「私はそんなに恥ずかしい存在ではない」
「誰かにどう見られても、私の価値まで決まるわけではない」
「私は私でいていい」
と思えるようになってから、少しずつ変化が起きました。
人と接するときの緊張が、以前より少し和らいできたのです。
もちろん、今でも緊張することはあります。
誰とでも自然に話せるようになったわけでもありません。
それでも、
「どう見られるか」より「私はどう感じているか」
に意識を戻せるようになりました。
これは私にとって、とても大きな変化でした。
もしかすると、人との関わりが苦手だったのではなく、
「人と接するとき、自分自身を守ることができていなかった」
のかもしれません。
自分のことを自分で認めてあげられるようになったことで、
「もし相手にどう思われても、私は私で大丈夫」
という、心の土台のようなものができてきた。
だから、人と接することへの苦手意識も、少しずつ和らいでいったのではないか。
今の私は、そんなふうに感じています。
RASを知って、「反応」と「自分」を分けられるようになった
そんな自分の変化があった頃、私はRAS(網様体賦活系)について改めて考えるようになりました。
RASは、脳幹にある神経ネットワークの一部で、覚醒や注意などに関わっています。
私たちの周りには、毎瞬間、膨大な量の情報があります。
人の声。
車の音。
空調の音。
目に入る景色。
周囲の人の動き。
自分の体の感覚。
すべてを同じ強さで意識していたら、とても処理しきれません。
そこで脳は、状況や過去の経験などをもとに、重要な情報へ注意を向けやすくしています。
例えば、新しい車を買おうと思った途端、それまであまり気にしていなかった同じ車種が、街中で急に目に入るようになった。
そんな経験はありませんか?
車が突然増えたわけではありません。
自分の中で「重要なもの」になったことで、注意が向きやすくなったのです。
人間関係でも、似たことは起こり得ます。
過去に強い感情を伴った経験や、自分にとって意味の大きかった出来事に関係する情報は、自然と注意が向きやすくなることがあります。
だから、ある人が視界に入ったとき、
「あ、あの人だ」
と、瞬間的に意識が向く。
そのとき、過去の記憶や感情が一緒によみがえることもある。
私はこのことを知ったとき、
「私の心がおかしいわけではなかったんだ」
と思いました。
「まだ気にしている自分はダメなんだ」と考えなくてもよかった。
ただ、脳が過去の経験をもとに、その情報へ注意を向けている。
そういうこともある。
そのくらいに捉えてみると、心に余裕が生まれました。
「目に入った」と「心を留め続ける」は同じではない
ここで、私がとても大切だと思うことがあります。
それは、
「注意が向いたこと」と「そこに心を留め続けること」は別だということです。
ある人が視界に入った。
これは、ただ起きたこと。
その瞬間、少し心が動いた。
これも自然な反応かもしれません。
でも、そのあと、
「何を考えているんだろう」
「私のことをどう思っているんだろう」
「また何か言われるのではないか」
「周りの人はどう見ているんだろう」
と、考え続けるかどうかは、また別の話です。
もちろん、すべてを意識的にコントロールできるわけではありません。
でも、
「今、私はこのことに意識を向けているな」
と気づくことはできます。
そして、気づいたら、
「私は、何に意識を向けたい?」
と、自分に問い直すことができます。
その小さな「気づき」が、私にとって大切でした。
感情をなくすのではなく、少し離れて眺めてみる
私は以前、
「嫌な感情を持ってはいけない」
と思っていました。
怒ってはいけない。
人を悪く思ってはいけない。
いつも穏やかでいなければいけない。
でも、それではかえって苦しくなります。
なぜなら、
「怒ってはいけない」
と思っている時点で、すでに怒りを感じているからです。
だから今は、感情をなくそうとはしません。
ただ、
少し離れて眺めてみる。
「あ、今ちょっとざわついたな」
「この情報に注意が向いたんだな」
「過去の記憶と結びついているのかもしれないな」
そんなふうに見てみる。
感情の中に完全に入り込むのではなく、
「私は今、こう感じているんだな」
と観察する側に立ってみるのです。
すると、
「感情=私」
ではなくなってきます。
怒りを感じている私。
悲しみを感じている私。
ざわつきを感じている私。
そして、それを静かに眺めている私。
その間に、ほんの少し距離ができます。
その距離が、心の余白になるのだと思います。
客観的な視点は、自分の感情を否定することではない
「客観的になりましょう」
と言われると、
「感情的になってはいけない」
「いつも冷静な人でなければいけない」
と思ってしまうかもしれません。
でも、私が思う客観性は、そういうものではありません。
悲しいなら、悲しくていい。
嫌なら、嫌でいい。
心がざわつくなら、ざわついていい。
ただ、
「今、私はそう感じているんだな」
と、一歩引いて見てあげる。
それだけです。
雨が降っているとき、
「雨を止ませなければ」
と頑張る必要はありません。
窓の内側から、
「雨が降っているな」
と眺めている。
それだけでもいい。
感情も、少し似ているのかもしれません。
怒りがある。
悲しみがある。
不安がある。
でも、
私は怒りそのものではない。
私は不安そのものでもない。
感情は「私の中に起きているもの」であって、
「私そのもの」ではありません。
そう思えるだけでも、心は少し自由になります。
「誰が悪い?」から、一度離れてみる
人間関係で心が疲れると、
「相手が悪い」
か、
「自分が悪い」
か。
そんな二択になってしまうことがあります。
もちろん、誰かの言動によって傷ついたのなら、その事実をなかったことにする必要はありません。
嫌だったことは、嫌だった。
傷ついたことは、傷ついた。
そこまで否定する必要はありません。
でも、
「相手が悪い」
「いや、私にも問題がある」
と、何度も考え続けていると、それだけで心が疲れてしまいます。
そんなときに、私は第三の視点を持つようにしています。
それは、
「誰が悪いか」ではなく、「今、私の中で何が起きているのだろう?」と見ること。
例えば、
ある人が視界に入った。
↓
注意が向いた。
↓
過去の記憶が浮かんだ。
↓
少し嫌な感情が出てきた。
↓
私は今、それを感じている。
ここまで、一歩引いて眺めてみる。
すると、
「私が悪い」
でも、
「相手がすべて悪い」
でもなく、
「今、私の中でこういう反応が起きているんだな」
と見ることができます。
この視点は、相手を責めるためでも、自分を正当化するためでもありません。
ただ、自分の心を少し自由にするための視点です。
「この人は、この人の人生。私は私の人生」
最近の私は、こんな言葉も大切にしています。
「この人は、この人の人生。私は私の人生。」
相手が何を考えているのか。
なぜそのような言動をするのか。
本当はどんな人なのか。
そこまで考え続けなくてもいい。
相手には相手の世界がある。
私には私の世界がある。
誰かが私をどう評価するかまで、私が管理する必要はありません。
誰かの中にある「私のイメージ」を、私が一生懸命修正し続ける必要もない。
それよりも、
「私は、自分の人生をどう生きたい?」
と考える。
こちらのほうが、ずっと大切なのではないかと思うのです。
自分を認めると、「人からどう見られるか」から少し自由になれる
私が以前、人からどう思われているのかを気にしていた頃。
心の中心には、いつも、
「他人から見た自分」
があったように思います。
どう見られているのか。
何と思われているのか。
恥ずかしくないか。
嫌われていないか。
そんなことに意識が向いていました。
でも、
「私は、そんなに恥ずかしい存在なのだろうか?」
と考えたことをきっかけに、少しずつ変わっていきました。
私は、誰かの評価だけで自分の価値を決めなくていい。
失敗してもいい。
誰かに好かれなくてもいい。
すべての人に理解してもらわなくてもいい。
自分自身が、
「私は私でいい」
と思えることのほうが、ずっと大切なのかもしれない。
そう思えるようになると、少しずつ、心の中心が「他人」から「自分」へ戻ってきました。
そして、自分のことを以前より好きになりました。
自分を大切にする感覚も、育ってきました。
そして、そのことが、人との関わり方にも影響しているように感じています。
以前よりも、人と接するときの緊張が少し和らいだ。
以前ほど、「どう見られているだろう」と身構えなくなった。
相手にどう思われるかを気にするより、
「私は今、どう感じているんだろう」
「私はどうしたいんだろう」
と考えられるようになった。
もちろん、まだ苦手に感じる場面もあります。
それでも、
「人と接することが苦手な私」
と決めつけるのではなく、
「私は私のままで、人と関わっていい」
と思えるようになった。
それだけでも、ずいぶん違うのだと思います。
相手を消すのではなく、自分のピントを戻す
以前の私は、
「どうすれば、その人を気にしなくなるんだろう」
と考えていました。
でも、今は少し違います。
「どうすれば、その人を気にしなくなるか」
ではなく、
「どうすれば、自分の大切なものへ意識を戻せるか」
と考えています。
この違いは、とても大きいものだと思います。
相手を消そうとすると、結局ずっと相手を見続けることになります。
でも、自分の世界へ戻ろうとすると、自然と視線が前を向きます。
今日飲みたい温かいお茶。
好きな音楽。
書きたい文章。
楽しみにしている予定。
大切な人との会話。
きれいな空。
今日できた小さなこと。
そんなものへ、もう一度ピントを合わせる。
すると、
「私には、私の大切な世界がある」
という感覚が戻ってきます。
「見えなくする」のではなく、「重要度を下げていく」
ここで大切なのは、
「その人を視界から消さなければ」
と思わないことです。
現実には、同じ場所にいれば目に入ることもあります。
声が聞こえることもあります。
たまたま近くにいることもあります。
それを無理に変えようとしなくてもいい。
ただ、
「見えた。でも、それ以上の意味を持たせなくていい」
と思ってみる。
「あ、いるな」
それだけ。
必要なことがあれば、必要な対応をする。
でも、それ以上は自分の世界へ戻る。
そうしているうちに、その存在が、
「自分の感情を大きく動かす重要な対象」
から、
「視界に入ることもある一つの情報」
へと変わっていくことがあります。
もちろん、一日で変わるものではありません。
でも、少しずつでいい。
目に入った。
意識が向いた。
気づいた。
そして戻ってきた。
その繰り返しです。
徳とは、「相手を許すこと」だけではないのかもしれない
今回このことを考える中で、「徳」という言葉についても改めて考えるようになりました。
以前の私は、徳というと、
「人に優しくすること」
「相手を許すこと」
「良い人でいること」
というイメージを持っていました。
でも今は、もう少し違う意味で考えています。
私にとって徳とは、
誰かから受けたものを理由に、自分まで同じような苦しさを周囲へ返さないこと。
そして、
誰かの言葉や態度によって、自分の心まで荒れたままにしないこと。
必要なら距離を置く。
必要なら自分を守る。
嫌だったことを「嫌だった」と認める。
それでも、自分の人生をその出来事だけで満たさない。
これは相手のためというより、
自分自身の心を大切にするための選択
なのだと思います。
相手を変えなくてもいい。
相手に勝たなくてもいい。
相手より上に立たなくてもいい。
ただ、
「私は私の心を、私が大切に扱う」
それだけでいいのかもしれません。
心の静寂は、「何も感じないこと」ではない
以前の私は、
「その人を見ても何も感じなくなったら、完全に乗り越えたことになる」
と思っていました。
でも今は、そうは思いません。
一瞬ざわついてもいい。
少し嫌だなと思ってもいい。
過去の記憶が浮かんでもいい。
それでも、
「あ、今ちょっと反応したな」
と気づいて、自分のところへ戻ってくる。
それで十分なのだと思います。
心の静寂とは、
何も感じないことではなく、感じたものに人生の主導権を渡さないこと。
私は、そんなふうに考えるようになりました。
心が揺れない人になる必要はない。
揺れたあとに、自分の場所へ戻ってこられる人になればいい。
その「戻る力」を少しずつ育てていく。
それも、自分を大切にするということなのだと思います。
幸せは、「誰かがいなくなった世界」ではなく「自分が戻ってきた世界」にある
ここまで考えてきて、私はあることに気づきました。
本当に欲しかったのは、
「その人がいなくなること」
ではなかったのかもしれません。
「その人の存在によって、自分の心が揺さぶられなくなること」
でも、それだけでもない。
もっと大切だったのは、
「私は私の人生を生きていい」と思えること
だったのだと思います。
誰かが私をどう思っているか。
誰かが私をどう評価しているか。
誰かが私について何を言っているか。
そこから少し離れて、
「私は今日、何をしたい?」
「何を楽しみたい?」
「どんな時間を過ごしたい?」
と、自分の人生へ戻ってくる。
すると、世界の見え方が少し変わります。
誰かがいる世界ではなく、
「私の人生がある世界」
として見えてくるのです。
おわりに|心のピントを、自分の幸せへ
もし今、誰かの存在や言葉が気になってしまうことがあるなら、
「私はまだ囚われている」
と決めつけなくてもいいのだと思います。
過去に意味のあった情報だから、脳が自然に注意を向けているのかもしれない。
心が一瞬反応しただけかもしれない。
それは、あなたの価値とは何の関係もありません。
だから、
「あ、今、私の注意がそちらに向いたんだな」
と、少し離れて眺めてみる。
「私は今、こう感じているんだな」
と、自分の感情を認める。
そして、
「でも、この感情だけが私の世界ではない」
と思ってみる。
相手を変えなくてもいい。
無理に好きになる必要もない。
無理に許す必要もない。
自分の感情を否定する必要もない。
ただ、
「私は、何に意識を向けて生きたいんだろう?」
と、自分に問いかけてみる。
今日の一杯のお茶。
好きな音楽。
書きたい文章。
大切な人との会話。
窓から見える空。
これから楽しみにしていること。
今日できた小さな一歩。
そんな、自分にとって大切なものへ、もう一度心のピントを合わせていく。
そして、もし人と接することに緊張したり、周囲の目が気になったりしたときも、
「私はどう見られているだろう」
だけではなく、
「私は、私自身をどう見てあげたいだろう」
と、自分に問いかけてみる。
誰かの評価を変えることはできなくても、
自分が自分を見る目は、少しずつ変えていくことができます。
「私はそんなに恥ずかしい存在ではない」
「私は私でいい」
「私は、自分の人生を大切にしていい」
そうやって自分自身を認めてあげられるようになると、もしかすると、人との関わり方も少しずつ変わっていくのかもしれません。
人と接するときの緊張が、ほんの少し和らぐ。
相手の反応を必要以上に気にしなくなる。
「どう思われても、私は私」と思える瞬間が増えていく。
それは、誰かに勝ったからでも、誰かを見返したからでもありません。
自分で自分を認めてあげられるようになったから。
私は、そんなふうに感じています。
そして、ある人が目に入って、心が一瞬動いたとしても、
「あ、今、私の注意がそちらに向いたんだな」
それだけでいい。
「私は、こっちを見よう」
と、自分にとって大切なものへ戻ってくる。
その小さな選択を繰り返していると、
「誰かに心を奪われている世界」から、
「私は私の幸せを見て生きている世界」
へ、少しずつ変わっていくのかもしれません。
私たちの心は、いつでも完璧に穏やかでなくていい。
ざわついてもいい。
揺れてもいい。
誰かの視線が気になる日があってもいい。
人と接することに少し緊張する日があってもいい。
それでも、
「私は私でいい」
という場所へ、また戻ってこられればいい。
その「戻る力」を育てていくことが、自分を大切にするということなのだと思います。
誰かを変えることより、
自分の心を大切にする。
誰かの評価を変えることより、
自分が自分を見る目を変えていく。
誰かを消すことより、
自分の人生へ戻ってくる。
そして今日も、
心のピントを、自分の幸せへ。
誰かが私をどう見ているかではなく、
私は、私自身をどう見ていたいのか。
誰かが何を思っているかではなく、
私は、今日をどう過ごしたいのか。
そのことを大切にしながら、今日という一日を過ごしていきたいと思います。
