ブーニンの夢
「ブーニンから手紙が来た夢」を見た。
ピアニストのスタニスラフ・ブーニンから、である。
手紙、と言っても、
便箋に書かれたものではなかった。
A3くらいの大きな紙に、雑誌から切り抜いたような写真がたくさん貼ってある。
自然の景色、海外の街並み……。
写真の間に文字が書かれていたけど、
日本語の文字でもなく、かと言ってアルファベットでもなかった。
なんか、文字があるな、という認識。
そして紙の上の方には、なぜか切手がいっぱい貼ってあった。
ブーニンの写真もない。
ブーニンという文字も書いていない。
なのに、私は「ブーニンから手紙が来た」と疑うことなく認識しており、感激して喜んでいた。
突然の夢。
夢って本当に不思議。
ブーニンが1985年のショパン国際ピアノコンクールで優勝し、その後に熱狂的な旋風を巻き起こしたことは、今でも鮮やかな記憶として残っている。
当時、ピアノを弾くブーニンからは、
「楽しい。楽しくてたまらない。」
というオーラが全身から矢のように四方八方に飛び出していた。
聴いているこちらが、もう否応なしにブーニンの音楽の世界に連れ込まれてしまうような、強烈な魅力のあるピアノ。
中でも強烈な印象だったのは、この曲。
ショパン《華麗なる円舞曲》第4番 ヘ長調 Op.34-3
Frédéric Chopin: Grande Valse brillante No.4 in F major, Op.34 No.3
ピアノ:スタニスラフ・ブーニン
Stanislav Bunin (Piano)
別名「猫のワルツ」と呼ばれて有名だが、この目にも止まらぬ速さ、若さがあふれる演奏。
鮮やかなオレンジ色の光が、ロケットみたいにビュンビュン飛んでくる。
首を振りながら聴いてしまう。
フレーズの終わりが、ふわっと着地する。
高速技巧だけでなく、エレガントさも兼ね備えた演奏。
聴く人を幸せにする力がある。
楽しさがこちらに伝わってくるところが好きだ。
音楽って楽しいんだよ。
そんな、原点を思い出させてくれた演奏。
私の中では今でも、このワルツはブーニンのイメージがある。
ショパン《英雄ポロネーズ》変イ長調 Op.53
Frédéric Chopin: Polonaise in A-flat major, Op.53 “Héroïque”
ピアノ:スタニスラフ・ブーニン
Stanislav Bunin (Piano)
この演奏もまた、鮮やかなネーブルオレンジ色の音。
何層も重なった音。
一番上の音が、ネーブルオレンジ。
グラデーションになって、下に行くに従って、柿色、茶系が混ざった橙色みたいになる。
温かい。
全体的に温かい「英雄」。
先へ先へと気持ちが先行して、音楽を、そしてピアノを引っ張っていくような演奏だ。
ひっそりとした弱音の部分になると、茶褐色みたいな憂いのある音になる。
鉄の車輪が力強く回転する中間部。
左手の音は回転しながらも、右手はしっかりと縦にリズムを刻む。
今聴いても快感だ。
胸をはずませて聴いた学生の頃を思い出して、懐かしい。
いつの間にか、ピアノを弾く=受験のため、となっていた重苦しい気持ちを、ものの見事に吹き飛ばしてくれた。
そうだった。
私はピアノが好きだったっけ。
好きだから弾いてたんだっけ、と思い出させてくれた、ブーニン。
その後の長い闘病生活、活動休止。
ピアノを弾くこともままならない時期を経て、再びピアノを弾くブーニンの姿を見ることができた。
シューマン《色とりどりの小品》Op.99 Robert Schumann: Bunte Blätter, Op.99
ピアノ:スタニスラフ・ブーニン
Stanislav Bunin (Piano)
第1曲「3つの小品」より その1 急速でなく、親しみをもって
温かい音。
シューマンらしい音の波。
ブーニンのピアノは、褐色のメープルシロップみたいな音に聴こえる。
甘くて、ちょっと苦い。
高音がきれい。
いいなあ〜、と何回もリピートして音に酔いました。
第9曲「ノヴェレッテ」 生き生きと
シューマンの《ノヴェレッテ》Op.21という曲集が大大好きなので、「ノヴェレッテ」という言葉に反応してしまう。
楽譜(ヘンレ版)の注釈によると、冒頭(および、いくつかの類似箇所)のオクターブの音は、初版にはスタッカートが記されていない。単なる脱落なのか、それともシューマンの意図だったのか、結論は出ていないという。アクセントを生かすため、あえてスタッカートを書かなかった可能性も指摘されている。
おもしろい。
ブーニンもまた、アクセントで語りかけるように弾いているように聴こえる。
このリズム、哀愁を帯びたメロディー。
ブーニンのリズムは角が丸くて、優しい。
中間部は、一転して横の流れ。
木々の枝が束になって、ダラララ……と風にしなるような音の群れ。
やっぱり甘さと苦さ、両方感じる。
オレンジ色とダークチョコレート色。
第14曲「速い行進曲」 きわめてはっきりと
これもリズムが好みです。
そして、冒頭の「テュラ〜ン、テュラ〜ン」と聴こえる、やや翳りを帯びたメロディー。
斜め下を見ている目線のような、うつむきかげんの出だし。
薄い黄色で、透明な音。
タイの寺院。
寺院の塔のミニチュアが、音につれて立ち上がるように感じる。
このブーニンの音を取り出して、爪の先ではじいたら、「コリン」と鳴るだろう。
アクセントとスタッカートが気持ちいい。
いいなあ、と浸っていると、だんだん音が遠くなっていく。
離れたところで、「ぱん……」と消える。
シューマンらしい気まぐれな、はぐらかすような終わり方。
この夢の話には続きがあります。
夫に、「ブーニンから手紙をもらって、嬉しくてね」
と、夢の話をして、
「なんでこの夢見たのかなぁ。」
という話をしていたのだ。
その夜。
私は、「なぜ、ブーニンから手紙が来たのか」、
その理由となる夢を見た。
以下、その日の夢です。
以前、「ブーニンと一緒に食事しましょう」という催しがあり、抽選が当たった私。
どこか、ヨーロッパ風の広い部屋で、大きな丸いテーブルを囲んで、数人の当選した人たちと一緒に、ブーニンを囲んで食事をしたのだった。
会は、終始なごやかな空気に包まれていた。
天気も良く、開け放した窓からはそよ風、
レースのカーテンが揺れている……
ブーニンは穏やかに、平等にみんなと会話してくれている。
ああ、抽選が当たるって奇跡だな。
思い切って応募して本当に良かった。
そんな光景を、夢の中の私は思い出しており、「あー、そうだった!前に食事をしたんだった。だから、あの時のお礼の手紙なんだ。」
と、納得しているのだった。
朝になり、夢から覚めた。
寝起きの頭で、「手紙が来た理由がわかってよかったー。」と、思った。
顔を洗おうと、洗面所の蛇口を捻った瞬間、「あれ?これも夢か。」
と、ぼんやり気づく。
なぜ、ブーニンから手紙が?
という問いかけに、私の無意識さんは、ものすごく頑張って、こんな理由を作って、夢で再現してくれたらしい。
なんとも律儀な無意識。
問いかけたら、翌日にはちゃんと理由まで用意してくれるのだから。
だけど、この場合、お礼状は私から出すのでは?
夢のおかげで、改めてブーニンの演奏を聴くことができた。
夢の中で手紙を読んでいた時の嬉しさは、この先、きっと忘れないだろう。
