スペースローンウルフ時代の武藤敬司はカッコ良かった
【プロレス界の至宝は、替え歌に負けた】
1986年。
アントニオ猪木が次世代のスターに選んだ男。
武藤敬司。
アメリカ武者修行から凱旋した彼は、
銀色のジャンパーに「SPACE LONE WOLF」の文字。
胸には「610(ムトー)」のロゴ。
同期の若手が地味なジャージで入場してくる中、
一人だけ別の番組から来たみたいな男がいた。
ムーンサルトプレスという
人間がやっていいのか微妙な技を軽々と決め、
藤波辰爾に「別格の新人」と言わしめた。
クールで、スタイリッシュで、
どこか冷めた目をした孤高の天才。
間違いなく、
あの時代の新日本プロレスで
一番カッコいい男だった。
ところで。
この男の入場曲が変わった理由を
ご存知だろうか。
武藤の初代入場曲『HOLD OUT』。
本人も気に入っていた名曲だった。
ところが同期の橋本真也が、
この曲に合わせてある替え歌を作った。
「♪ムトーちゃんはハゲる〜
頭の先からどんどんハゲてゆく〜」
橋本、よほど気に入ったのだろう。
事あるごとに歌った。
道場で歌った。
移動中に歌った。
たぶん風呂でも歌った。
武藤は最初、笑って流していたと思う。
二回目も、まあ許したと思う。
だが人間には限界がある。
自分の入場曲が流れるたびに
脳内で「♪ムトーちゃんはハゲる〜」が
自動再生される状態になったのだ。
花道を歩きながら、
何万人のファンの歓声を浴びながら、
頭の中では橋本が歌っている。
これはもう、呪いである。
1995年9月。
武藤敬司、入場曲変更。
『HOLD OUT』から『TRIUMPH』へ。
プロレス界の至宝が、
入場曲を変えた理由。
ケガでもない。
心機一転でもない。
会社の意向でもない。
橋本がしつこかったから。
ちなみにこの男、
それ以前にも猪木の指示で
フルフェイスヘルメットを被って入場させられている。
理由は「ヘルメットメーカーのスポンサーがつくかも」。
結局スポンサーはつかず、
ヘルメットは道場の片隅に放置された。
本人は「自分の息で前が曇って前が見えなかった」と
後に語っている。
天才は、だいたい周りに振り回されている。
そして25歳を過ぎた頃、
橋本の予言は静かに現実となり始めた。
頭頂部が、薄くなってきたのだ。
90年代はロン毛で隠した。
ファンも気づいていた。
でも誰も言わなかった。
武藤なりの、最後の抵抗だったのだろう。
2000年12月31日。
『INOKI BOM-BA-YE』。
武藤敬司、スキンヘッドで登場。
会場がどよめいた。
隠すのをやめた男は、
隠していた頃より遥かにカッコよかった。
ここでようやく、
武藤は橋本の替え歌から完全に解放された。
もうハゲていく過程は終わった。
到達したのだ。
60歳で引退するまでトップを走り続けた
この男のキャリアを振り返ると、
技術や才能の話ばかりが語られる。
でも本当にすごいのは、
猪木にヘルメットを被らされ、
橋本に替え歌を歌われ、
髪の毛にも見放された男が、
全部笑い話にして、
最後まで一番カッコいい男でい続けたことだ。
スペース・ローン・ウルフ。
宇宙の孤高の一匹狼。
その最大の敵は、
リングの対角線にいる相手ではなく、
隣で替え歌を歌っている同期だった。
