見出し画像

現代狂歌とは何か(改訂版) 【前編】

なぜ、いま狂歌と名乗るのか

ここでいう現代狂歌は、五七五七七を基本として、今の暮らしを今の言葉で詠む歌です。

そう聞くと、
それは短歌と何が違うのか?
川柳を五七五七七にしたものではないか?
駄洒落を入れれば狂歌になるのか?
そんな疑問が出てきます。

現代狂歌は、和歌の形や言葉の働きを足場にしながら、現代の暮らしや感覚を、少し「狂わせて」詠みます。

「狂わせる」といっても、でたらめにするわけではありません。

普段は当たり前だと思っている言葉や物事の関係を、少しずらす。別の意味を重ねる。前後をひっくり返す。大きな物語を身近な出来事へつなぐ。
そうすることで、見慣れた日常を、いつもとは少し違う角度から見せます。そして現代狂歌では、そうした〈狂〉から生まれる風流や可笑しみ、諧謔、皮肉、風刺、自嘲、妙な可笑しさなどを、歌の大切な働きとして見ます。

ただし、このような技法や働きが、狂歌だけのものだという意味ではありません。
そこが、現代狂歌を考えるうえで大切なところです。


狂歌は、歌を離れない

狂歌は、古くから和歌を足場にして作られてきました。

2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』には、大田南畝、智恵内子、宿屋飯盛など、実在した狂歌師たちが登場しました。彼らが五七五七七で詠んでいた歌が、狂歌です。

狂歌は、和歌と同じ形を借りただけの歌ではありません。
和歌に使われてきた言葉や言い回し、掛詞、見立て、古歌や物語との関係を利用しながら、その働きを別の方向へ動かしました。

江戸時代の狂歌指南書『狂歌はまのきさご』には、
狂歌に法なしといへども、歌にすがりてよみ、歌の式によるべし
とあります。

決まった一つのルールはなくても、歌から離れてよいわけではない。
歌を足場として、その上で言葉や関係を動かす。
近世狂歌は、和歌を捨てて別の詩を作ったのではありません。和歌につながったまま、その内部で別の働きを引き出しました。

現代狂歌も、この構えを受け継ぎます。
ただし、昔の言葉遣いや作品を、そのまま再現するわけではありません。

詠まれるものは現代の暮らしであり、使われるのも現代の言葉です。文語に限らず、普段口にしている口語でも詠みます。スマートフォンや通知のような、昔の歌にはなかった物や言葉も、会議や片づけのような身近な出来事も、現代の話し言葉も、今の私たちにとっては十分に歌の材料になります。


それは短歌にもある

とはいえ、現代の題材を五七五七七に収めれば、それだけで狂歌になるわけではありません。

現代狂歌では、一首の中で、
言葉や物事の関係がどう動いたのか。
その動きによって何が別の姿に見えたのか。
そこから、どんな可笑しみや諧謔、皮肉が生まれたのか。
そうしたところを意識して作り、読みます。

たとえば、
言葉の意味が重なる。
立派そうな言葉が、急に身近な出来事へ引き戻される。
小さな出来事が、大げさな物語に見えてくる。
自分自身が、少し妙な姿に見えてくる。
笑っていたはずなのに、最後に苦さや心細さが残る。

こうした働きを、この現代狂歌ではまとめて〈狂〉と捉えます。

ところが、ここまでの説明は、現代短歌にもかなり当てはまります。
現代短歌も、今の暮らしを今の言葉で詠みます。口語も使います。日常の小さな違和感を拾い、意外な言葉を結びつけ、常識や既成の物語を別の方向へ動かします。笑いや皮肉、自嘲、駄洒落を含む短歌もあります。

定型。
口語。
日常の題材。
言葉のずれ。
視点の変更。
意外な展開。
可笑しみ。
現代短歌と現代狂歌は、多くの技術と表現領域を共有しています。

そのため、
「日常を面白く詠むのが狂歌です。」
 というだけでは、十分な説明になりません。
「言葉や物事の関係をずらすのが狂歌です。」
 というだけでも足りません。
それも、すでに現代短歌の中で行われています。

つまり、〈狂〉があるから自動的に狂歌になるわけでも、可笑しみがあるから短歌ではなくなるわけでもありません。では、なぜ今、あえて狂歌と名乗るのでしょうか。


狂歌はどこへ行ったのか

近世の狂歌ブームが終わった後にも、狂歌をその時代の言葉で作り直そうとする試みはありました。

明治末には、流行語や俗語を取り入れた新趣向の狂歌が、「へなぶり」と呼ばれました。名前からして少し変わっています。「へなぶり」は、狂歌を意味する「ひなぶり」をもじったものです。

へなぶりは、独立した大きな流れとして長く定着したわけではありません。しかし、短歌と無関係に消えたわけでもありませんでした。石川啄木も「へなぶり歌」を作っています。

近代以降、短歌の中でも、俗語や日常を詠むこと、既成の言葉や物語をずらすこと、可笑しみや皮肉を歌へ持ち込むことなど、狂歌と重なる働きが広く見られるようになります。

狂歌という看板が次第に見えにくくなった一方で、狂歌と重なる働きは、短歌や川柳など別の場所にも見いだすことができます。
ここでは、そのように捉えています。

だから現在、短歌と狂歌の境界が曖昧に見えるのは、不思議なことではありません。


なぜ、いま狂歌と名乗るのか

現代狂歌は、社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込んだだけの短歌ではありません。
「面白い短歌」の別名でもありません。
また、狂歌にしか使えない特別な技法を、狂歌だけが持っているわけでもありません。
それでも狂歌と名乗るのは、使う技法がまったく違うからでもありません。

どの流れを足場とし、何を中心に作り、読み、比べ、選ぶのかが違うからです。

現代狂歌は、狂歌の流れを尊重し、近世狂歌へ意識的に接続します。
近世狂歌が和歌を足場としたように、現代狂歌は近世狂歌の作法や作品を手がかりとして、今の暮らしと今の言葉を詠みます。
受け継ぐのは、昔の言葉遣いそのものではありません。

すでにある歌、言葉、常識、制度、物語をいったん足場として受け止め、その関係をずらし、重ね、反転させ、別の姿を見せる構えです。

そして、一首を作り、読むときに考えます。

何を足場としたのか。
何と何を結び直したのか。
どの言葉の意味が動いたのか。
大きな物語と身近な日常が、どこでつながったのか。

そして、
この歌は、何を狂わせたのか。
その〈狂〉は、一首の骨として働いているか。
その〈狂〉から、どんな風流や可笑しみ、諧謔、皮肉、風刺が生まれたのか。
そして、それを一首の歌として、どう仕立てたのか。

現代短歌にも、こうした働きを持つ歌はあります。そのような歌を、短歌ではないと言う必要はありません。短歌から技法を取り返そうとしているわけでもありません。

現代狂歌がしようとしているのは、近代以降、短歌や川柳などの中でも担われるようになった狂歌的な働きを、もう一度、近世狂歌の系譜の中へ置き直し、作歌・推敲・鑑賞・比較・選歌の中心として意識的に扱うことです。

短歌の中では数ある表現の可能性の一つとして現れうる〈狂〉と風流・おかしみを、この現代狂歌では繰り返し問い、作り、読み、比べ、選ぶ。

違いは、技法の所有権ではありません。短歌と排他的な作品の集合を作ることでもありません。

どの系譜につながり、何を中心に作り、読み、比べ、選ぶか。
そこに、いま、あえて狂歌と名乗る理由があります。

現代狂歌は、昔の狂歌をそのまま保存するためのものではありません。
近世狂歌の系譜を引き受け、〈狂〉とそこから生まれる風流・おかしみを、もう一度ひとつの実践の中心に置く。

その作法を、現代の暮らしと現代の言葉で続けてみる。
そのために、現代にもう一度、狂歌を詠みます。

後編では、一首を立たせる「眼目」と、現代狂歌の作り方、読み方について考えます。

後編はコチラ
 
現代狂歌とは何か 【後編】


(2026年8月1日 初稿掲載)
(2026年8月11日 一部改訂)


いいなと思ったら応援しよう!

枝成統合力研究所 よろしければ応援お願いします! いただいたチップは研究費に使わせていただきます!