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頭皮から、おじさんが消えた日


その日、僕は洗面所の鏡の前で、自分の頭に向かって深々と一礼した。

「今まで、お世話になりました」

長年、僕の頭皮に居座り続けてきた「おじさん」に対して、である。

もちろん比喩だ。でも彼は本当に長いこと、そこにいた。



事の発端

思えば最初の出会いは、いつだったか分からない。子どもの頃というのは自分の匂いに無頓着なもので、体臭というのは他人事、テレビの中のおじさんだけが持っている特殊装備だと思っていた。ところが高校生になった頃、事態は一変する。

部活のグラウンドは中学の比じゃなく広く、暑く、過酷だった。汗が噴き出し、シャワーも間に合わないくらい体を酷使する。体の匂いはまあ、みんな似たようなものだったから、そんなに気にならなかった。

問題は頭だった。頭「だけ」が、明らかに様子がおかしかったのだ。

体を石鹸でゴシゴシ洗ってさっぱりしても、頭だけは違う生き物のように、独自の生態系を育てていた気がする。まるで頭皮という土地に、誰か知らないおじさんが住民票を移してきたみたいに。

朝、目が覚めてベッドを見る。すると、そこには昨夜まで自分が寝ていたはずのベッドとは思えない匂いが漂っている。古い油を陽に当てたような、なんというか「使用感のある匂い」だ。ピチピチの十代の少年が寝転がった跡とは到底思えない、渋みのある香りである。

「昨夜、誰か別の人がここで寝たのでは」と、本気で家族を疑ったことすらある。犯人は自分だった。


友の顔が、すべてを物語っていた高校時代

決定打は、ある日の教室だった。

前の席の友人が、悪ふざけで僕の頭に鼻を近づけてきたのだ。彼にとっては軽い冗談のつもりだったのだろう。でもその瞬間、彼の表情がすっと変わった。

言葉は、なかった。

ただ、あの「まずいものを不意打ちで口にしてしまった人」特有の鼻の下をわずかに歪める、あの顔。漫画だったら効果線が飛んでいる、あの顔である。

彼は何も言わなかった。優しさだったのか、単に驚きすぎて言葉が出なかったのか、今となっては分からない。ただその表情だけは、卒業から何年経っても、僕の記憶にべったりと張り付いている。人は、言葉より表情のほうをよく覚えているものらしい。


「おじさん」の正体を、少しだけ真面目に調べてみる

さて、ここでちょっとだけ真面目な顔をしよう。

世に言う「加齢臭」、いわゆる「おじさん臭」の代表格として名前が挙がるのが、2-ノネナールという物質だ。ある研究では、40歳以上の人の体臭からこの成分が検出されたと報告されている。青くさく、油っぽく、まるで古い植物油のような匂い。皮膚の脂質が酸化して生まれると考えられている。

つまり僕の頭皮には、統計的にはまだ来るはずのない客が、随分と早い時期からフライング入店していたことになる。おじさんの上陸は、思ったより早いらしい。

しかも厄介なのは、この匂いの原因が一つではないという点だ。皮脂そのものの酸化、汗、蒸れ、フケを栄養にする微生物、乾かしきれなかった髪の湿り気、帽子や枕に染み付いた匂い……。複数の犯人が手をつないで、頭の上で盛大な匂いの文化祭を開催していたわけである。

しかも近年の研究では、体臭というのは必ずしも「菌が悪さをして」発生するとは限らず、皮脂由来の成分そのものが化学変化を起こして匂いになる場合もあると分かってきているらしい。「菌さえ倒せば勝ち」という単純な話ではないというのが、なんだか妙にリアルで、自分の頭皮と重なるものがあった。何しろ僕の頭は、いつだって一筋縄ではいかなかったから。

余談だが、大正製薬が2025年に行った調査では、20代以上の男性のうち53%が「自分の頭皮が臭いと感じたことがある」と回答したという。半数以上、である。そして「対策をしている」人は3割にとどまるらしい。

これを読んだとき、僕は思わず声に出してしまった。

「同志よ」

長年、自分だけの秘密の恥だと思い込んでいた匂いは、思いのほか多くの人が抱える、ありふれた悩みだったのだ。


居酒屋の夜、決定的な発見をする

とはいえ当時の僕は、まだ「自分だけの問題」だと信じ込んでいた。その思い込みが崩れたのは、社会人になってからの、とある居酒屋の夜だった。

男女半々の飲み会。夜も更けて、みんな少し出来上がっている。隣に座っていた女の子が、ふっと船を漕ぎはじめ、こてん、と僕の肩に頭をあずけてきた。

そのとき、鼻先をかすめたのだ。

紛れもなく、あの匂い。僕の頭皮に長年住み着いていた、あの「おじさん」と同じ気配。

もちろん、そんなことを本人に言えるはずもない。僕は動揺を隠しながら、心の中でだけそっと呟いた。

「君のところにも、いたのか」

そこで初めて理解した。女性の頭から漂ってくる香りの多くは、トリートメントやヘアオイルによる、いわば「良い匂いのカーテン」であって、その奥にある頭皮そのものは、人類共通で、案外みんな似たようなものを抱えているらしい、ということに。

男性の場合、髪が短く、トリートメントの層も薄い分、そのカーテンがない。だから匂いがダイレクトに世界へ届いてしまう。いわば「防音設備のない部屋」に住んでいるようなものだ。隣の部屋の生活音が全部筒抜けになる、あの気まずさに似ている。

これは、ちゃんと向き合ったほうがいい問題だ。そう腹を括った。



洗い方を変えたら、世界の解像度が変わった

そこから僕は、それなりに真剣に頭皮と向き合うことにした。

まず学んだのは、洗浄力の強いシャンプーでゴシゴシ洗えばいいという話ではないということだ。むしろ逆で、爪を立てて力任せに洗うと、頭皮が乾燥し、バリア機能が乱れて、かえってフケやかゆみが増えることもあるらしい。おじさんを追い出そうとして家をまるごと壊す、みたいな本末転倒である。

代わりに意識したのは、地味だけれど効果のある基本動作だった。

洗う前にブラッシングしてホコリを落とす。ぬるま湯でしっかり予洗いする。シャンプーは手のひらでよく泡立ててから頭皮にのせる。指の腹で、生え際から後頭部、耳の上、襟足まで丁寧に洗う。すすぎは「もういいだろう」と思ってから、さらに倍の時間をかける。

そして、地味だけど一番効いたと感じたのが「ちゃんと乾かす」ことだった。

濡れたまま寝る、自然乾燥に任せる、というのは、頭皮という湿地帯に「どうぞ増殖してください」という招待状を送っているようなものらしい。ドライヤーは一箇所に当て続けず、頭皮の根元から風を通すように動かしながら乾かす。たったこれだけのことを、ちゃんとやる。

驚くほど当たり前のことばかりだった。でも、当たり前を丁寧にやることの威力を、僕はこのとき初めて知った。


それでも消えなかった、最後の一押し

生活習慣も見直した。睡眠、食事、ストレス、枕カバーの清潔さ。地道な積み重ねで、以前よりはだいぶマシになった。

けれど、正直に言うと、それだけでは「おじさん」は完全には出て行ってくれなかった。

夕方になると、なんとなく気配がする。指の腹で頭皮をこすって嗅ぐと、まだそこに彼の痕跡が残っている。長年の同居人というのは、そう簡単には出て行かないものらしい。

いろいろなシャンプーを試した。ミント系の爽やかさで匂いを塗り替えようとしたもの、炭で吸着を謳うもの、オーガニックを前面に押し出したもの。どれも悪くはなかったけれど、決定的な「退去通知」にはならなかった。

最終的に、洗浄と乾燥という基本を丁寧にやったうえで、たまたま選んで使っていた薬用シャンプーが、僕にはよく合っていた。持田ヘルスケアの「コラージュフルフル」シリーズの、少し値の張るほうのやつだ。緑茶由来の成分やら、フケ・かゆみに対応する成分やらが入っているらしく、パッケージにはいろいろと小難しいことが書いてあった。

正直、これがすべての人にとっての正解だとは思わない。頭皮の状態は人それぞれだし、合う合わないもある。値段だって、普段使いのシャンプーに比べれば決して安くはない。それでも、基本の洗い方と乾かし方をきちんと整えた「土台」の上に、この一本を重ねたとき、僕の頭からは、ある日を境に、あの気配がふっと消えていた。

夕方に頭皮を嗅いでも、翌日の日中に嗅いでも、あの油っぽい酸化臭がない。これには、正直かなり驚いた。

もちろん、匂いの原因が頭皮ではなく、帽子や枕、整髪料の側にある場合は、シャンプーだけではどうにもならない。そしてもし、匂いに加えて強いかゆみや赤み、黄色っぽいフケなどがある場合は、それは「加齢のせい」では済まされない、皮膚のトラブルの可能性もあるらしい。そのときは潔く皮膚科の力を借りるのが、一番の近道だと思う。


その日、鏡の中の自分が、少しだけ知らない顔をしていた

そして、あの日がやってきた。

いつものように、寝起きの気だるさの中で頭皮に指を這わせ、癖のように匂いを確認する。ところが、そこには何もなかった。

正確に言えば、「何もない」わけではない。ただ、清潔な、朝の匂いがするだけだった。長年そこに居座っていた、あの油っぽく、渋く、少し寂しい匂いの主が、いつの間にか静かに荷物をまとめて出て行っていたのだ。

拍子抜けするくらい、あっけない別れだった。

十代の頃の僕は、自分の頭皮に住み着いたおじさんのことを、ただ恥ずかしいだけの秘密だと思っていた。けれど今は分かる。それは、ごくありふれた悩みだったのだ、と。

鏡の中の自分は、あの頃よりずいぶん薄くなった頭皮の匂いのぶんだけ、少しだけ身軽になったように見えた。

「おじさん、帰ってきたらダメだよ。」と僕は小さく呟いた。


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