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秀逸の反戦映画「西部戦線異常なし」

映画「西部戦線異常なし」を4回観た。
最初は1970年代だったと思う。その後2,000年ごろ、そしてつい最近NHKBS1で放送され、今、もう一度観るためDVDを借りている。
「西部戦線異常なし」は第一次大戦のヨーロッパ西部、フランス軍とドイツ軍の、およそ終わり無しと感じる程の長く膠着した塹壕戦を、ドイツ側から描写したドイツ人作家エーリッヒ・マリア・レマルクの原作を元に、1930年にアメリカで作られた映画だ。
レマルク自身兵士として参戦し、その体験を描いているのだと思う。
私の過去の印象は「時代がかった白黒で、なんだか暗く、盛り上がりのない退屈な映画だ・・・」というもので、正直あまり評価しなかった。
しかし3度目のNHKBS1で見た時には印象が変わっていた。
終わりのない蟻地獄のような塹壕戦は、近頃ではあまり報道されなくなったが、まさにウクライナでの悲惨な戦場の光景と重なり、たちまち現実の戦争を思い起こされたからだ。
なんと・・・100年前と同じ戦い方が、この科学と知性が発達したはずの現代でも同じように行われているのだ。
もちろんドローンなど武器は進歩したが、10〜20m先の敵の不安な表情がうかがえるほどの距離で殺し合いが毎日行われているのだ。
膠着した戦線で延々と繰り返される塹壕での接近戦は虚しく残酷だろう。   国の指導者たちにとっては、「戦争=国(家)を守る」という大義と美名に酔っていられるが、一介の兵士たちにとっては、「戦争=殺し合い」でしかない。「戦場=殺し合いの場」で自分が生き残るための唯一の手段は、憎い訳でも知り合いでもない、ただ自分たちとは違う軍服を着た人間を「殺す」ことだけで、その時「国(家)を守る」大義なんか頭の片隅にもないだろう。

この映画は、最初に「告発」を目的としたものではないではと謳っている。
また主人公を明確に一人に定めず登場人物全員とし、ヒーローでもない無名兵士達の戦場での様々な「死」を淡々と描いていくのだ。
そして生き延びた最後の兵士も、久しぶりに戦闘が止まった晴れた日、塹壕の前に飛んできた一匹の蝶に目を奪われ一瞬安らぎを感じる。
彼は笑顔で手を差し伸べようと身を乗り出した・・・瞬間、彼は狙撃兵の銃弾に倒れる。
その日、前線司令部が本国に送信した報告は「本日、西部戦線異常なし」
"Im Westen nichts Neues (All quiet on the Western Front)"。
一人の、可能性に満ちた未来ある若者が殺されたにも拘らずである。

この映画は戦争に取り込まれた無名兵士達の不条理を見事に描いているが、登場人物が第一次世界大戦のドイツ軍兵士であったため、戦争には加害国と被害国が存在する事実の描写が欠落している。

現在のウクライナの戦争では加害国はロシア、被害国はウクライナである。
ウクライナ兵達にとって「国(土)を守る」「国(民・家族)を守る」ために戦う
という、まさに聖戦だが、ロシア側の兵士達は「プーチン一人の愚かな妄想」のために「不条理な殺し合い」に加担し、無意味な殺人者となっている。

戦争にはもう一面、圧倒的な「軍隊という暴力集団」を使って無抵抗な民を殺戮するという戦争犯罪もある。
その場合、殺人があまりにも簡単で、自身が殺される不安もないため、兵士は遊び感覚で人を殺し、自身が「鬼畜」となった事実にも無自覚である。
それは第二次世界大戦のナチス・ドイツによるユダヤ人ホロコーストであり、現在のガザにおけるユダヤ人によるパレスチナ人ジェノサイドである。
ガザでは、かつての被害民族が、怪しげな「神」の名を口実に、何の疑いも持たず加害者に豹変、「軍隊という暴力集団」の一員となって、気に入らない住民・女性・子供を殺戮し、「民族浄化(根絶やし)」を行なっているのだ。

ただそれを実行させられるのは、平時は市井の民である下級兵士である。
政治家など「お偉いさん」あるいはその子息は直接戦場で手を下すことはない、彼らは洒落たカフェなどで「勇ましい戦争談義」を楽しむだけなのだ。

私は1948年生まれの「戦争を知らない子供達」で現在77歳、第二次大戦後世界中で数多くの戦争があったが、この間日本は一切戦争をすることは無く、私は幸いにも戦争を経験することなく一生を終えることが出来そうである。
しかし私たちの親世代は、当時の国家指導部の鈍く愚かしい政治により、夥しい数の市井の民が戦争に、加害者・被害者として引き摺り込まれ、そしてまさに映画のような理不尽な「殺し合い」を体験させられ死んでいった。

現在の若い世代が、過去と同じように勇ましいが愚鈍な指導者の言葉に操られ、「戦争=殺し合い」の世界に引き込まれないことを願うばかりである。



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