社会派の虚実
Netflixの某リアリティ番組が炎上している。リアリティ番組は果たしてどこまで「本当」なのか、という話もあるが、それはひとまず置いておこう。
一方で、日本製作のNetflix実写ドラマもバラエティ番組もエログロナンセンスばかりで、もっと社会派ドラマを増やせ、という批判もある。
しかし、そこでふと疑問に思う。社会派ドラマとは、一体何なのだろうか。政権や政治家を批判すれば、それだけで「社会派」になるのだろうか。
このことを考えると、むしろ思い出すのが藤子・F・不二雄の「異色短編」である。
藤子・F・不二雄の異色短編の典型的なパターンとしては
1.日常に「少し不思議」な要素を一つだけ差し込む
2.その結果、人間や社会がどう振る舞うかを淡々と観察・描写する
3.価値観や立場を逆転させて「当たり前」を相対化する
という思考実験的な作品が多い。
それに対し、昨今にありがちな「ダメな社会派ドラマ」は、物の見方が浅い。
『サルでも描けるまんが教室』(1989~91年にビッグコミックスピリッツに連載。相原コージ・竹熊健太郎著)という、漫画の「お約束」やヒットの法則を極端に単純化して笑いにするメタ・ギャグ漫画があり社会風刺についても、「権力は悪い」「昔はよかった」といった図式に還元してみせるが、まさにその程度のレベルの物の見方しか出来ていない作り手が大変に多い。
人種差別を考えてみても、自分たちと「他者」を分け、自分たちの集団を優遇しようとする内集団バイアスや、未知のものへの警戒心など、人間社会に広く見られる性質が関わっている。
だから社会問題を考えるときにも、特定の政党や政治家、大企業の行動だけを見るのではなく、その背景にある人間性や社会構造まで掘り下げる必要がある。
そして、「ダメな社会派ドラマ」は、自分の推す主義主張の一方的なおしつけに終止するものだが、異色短編では作者は作者が考えた答えをあえて提示しないという大きな違いもある。
もっとクリエーターは巨視的な視点から世の中を観察するべきと思うし、よく漫画を志望する人には「漫画だけを見るな、映画や文学を見ろ」と言われる。しかし実写の作り手にも、漫画から学べることは相当にあるのではないか。
さて、異色短編の思考実験というのは本当に自分が信じている価値観は正しいのかと棚卸しをすることにほかならないが、考えてみれば主義主張を押し付ける「ダメな社会派ドラマ」の作り手は自分の信じる価値観は「全人類の共有し得る普遍的な価値である」くらいに自分の価値観に対し強い自信がある。
人間社会について絶対的な答えを知っているわけでもない一人の人間による価値判断を、検討の余地のない「正解」として作品に埋め込むのは、かなり危ういことであるし、ただの説教である。だからこそ読者から反発を招くのではないか。
藤子ファンとしてみたら、普遍的な価値を持つ名作として読みつがれるのは嬉しいが、本来なら異色短編はワンオブゼムとして、そこからもっと豊かな実りが育っていないといけない。
