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『タブレット純』という《生き様》  自伝「ムクの祈り」を読んで

《タブレット純に救われた日 限界寸前の繊細さは強さ》
『ムクの祈り タブレット純自伝』(タブレット純著・リトルモア)の帯文に
ライター武田砂鉄氏がこう寄せている。
 「この人が頑張っているなら今日も頑張ろうと思ったことが一日だけ
 あります。それは自分がとても弱っている日のことでした」
 これは「タブレット純あるある」なのだろうか。

2025年9月13日  日本経済新聞  半歩遅れの読書術 : しまお まほ

「タブレット純」という存在は知っている。
『阿佐ヶ谷アパートメント』で案内人をしていた金髪のヒトだ。
NHK制作の多様性を前面に出したトークバラエティ番組で
タブレット純自身もTVの画面越しにはプロナウンが不明で
この番組の案内人に最適だな思った。
歌やギターも上手く、いいキャスティングだと感心していた。
そんな「タブレット純」が自伝を出していると知った。
早速Amazonでポチった。

午前中にポチったら夕方には投函されてきた

【 “タブレット純” ができるまで 】

《「ムク」とは何か》
自伝なので個人が自身のこれまでの人生全体を時系列で記録した
体裁となっており、今日に至るまでこういう人生をこんな思いで
歩んできたんだということがおおむねわかる。
テレビの画面越しに伝わってくる独特のユニセックス感も
この自伝を読むとそういうことだったのかと理解できる。
本のタイトルの「ムクの祈り」の「ムク」はタブレット純の
幼少期に家で飼っていた「飼い犬」だ。純はこの犬の飼育には
多分ほとんど関わっていないしあまり関心も示していない。
だから犬種も年齢も大きさなども分からない。記憶にあるのは
「近づくと激しく吠える」ことと「薄汚れている」こと。
最大の印象は引っ越しの際に「捨てられた」ことだ。
家族皆から持て余されて捨てられた「ムク」は野良犬になった。
純も皆から見捨てられた「野良犬」との自意識が芽生えていく。

《 LGBTQ+ という土壌 》
タブレット純の思春期は40年前くらいだっただろう。
日本でLGBTというワードが世間で認知されはじめたのは
たぶん2010年中頃からだ。その前までは「みなさんのおかげです」で
石橋貴明が演じた「保毛尾田ほもおだ保毛男ほもお」のようなキャラクターは
「ホモ」と総称され「バイセクシャル」や「トランスジェンダー」などは
その存在すら世間では一般的には認知されていない時代だった。
そんな時代に薄々自分の性指向に気づき、生来せいらいの内向き志向も相まって
悩み始める。学校のような集団社会での生活に上手く馴染めず孤立化し
不良グループのパシリにされていじめにも遭っていたようだ。
不思議なのはそんな暗い性格で薄弱な思考、悪環境にさらされながら
意外に行動は常人では考えられない大胆なところがあったことだ。
高校二年の時から恋心を抱いていた相手に、列車のなかで告白をして
あっけなく振られてしまう。相手は男性だったのだ。

《 アルコール依存症 》
とにかく酒が手放せないヒトだ。学生の時から飲み続けだ。
飲んでいないとヒトと接触できない。
介護職についてからも職場に出て行くのに
飲まないと出勤ができない。
社会との折り合いの付け方、他者との意思疎通の方法、
そして何より自分自身と向き合うのに酒の力を借りないと
できない典型的なダメ人間だ。
それなのになぜか周りの人間はタブレット純の中に
何か不思議な魅力を見つけて手を差し伸べる。
窮地に陥っても何とか最低限の生活は続けられている。
しかし酒だけはやめない。やめられない。それどころか
「飲み過ぎ」て「気絶」し「記憶を無くし」て塩をかれる。
いつまでたっても自分主体、自分がかわいい、
一番大事な人・一番の理解者を裏切り、去られ、
後にそのひとの思いを友人から聞かされ嗚咽おえつする。
“最低”、“最悪”の、“人でなし” だと心底思った。

《 「笑いのカイブツ」 》
“タブレット純”が「笑いのカイブツ」の“ツチヤタカユキ”とどこか被る。

世間との折り合いがつけられないツチヤ

※マヒナ・スターズとの関わり合いについての記述は
 本の内容と被るのでやめておく。一つ言えるのは
 ムード歌謡を歌わせると本当に上手く和田弘が認めたほどだ。
 歌を、ムード歌謡を心から愛していて、幼少期からの
 その気持ちの積み重ねとある種の才能を周りの人間が
 鋭く感じ取り、育成・活躍の切っ掛けと場を与えた結果
 タブレット純が出来上がっていったのだろう。

【 この本を読んでいてイラっとした訳 】

この自伝を読み進めていくにしたがって
イライラがつのっていった。
(なんなんだこいつは!)
と、やっていることに腹が立ってくる。
仕事(主に介護職)をしても半人前。
半人前どころか周りの足を引っ張っている。
そしていつも酒に逃げ込む。
仕事場へも酒なしでは向かえない。
他人ひとの婚約者を自分の部屋に連れてきてしまう。
いつもヘベレケになって気絶する。
どこか被害者ポジション。
いい大人が中学生のようなナイーブな神経。
妙に古風な言葉の選択や詩的な文章も鼻に付く。
(何を身勝手なことばかり言ってる、やってる…)

何でこの自伝はこんなに腹が立つのか・・・?

(あっ!!)

気が付いてしまった。
そうだ、この感覚は・・・
同族嫌悪どうぞくけんおだ。
若い頃の自分を見ている気にさせられる。
それが神経をいら立たせている。
見たくないモノ、思い出したくないモノ、
触られたくないモノを目の前にぶちまけられている
そんな感覚にさらされているのだ。
「おまえだってこうだっただろぅ・・・」と。
いまさら気付きたくなかった。
埋めたままで化石にしてしまいたかった。
それを掘り起こさせられたのだ。
庭の片隅の半分土に埋まった苔むした石を
力ずくでひっくり返してみたら、そこには
蟻やダンゴ虫、ミミズたちがワラワラと生息している。
そうか、そういうことか。
私は「クィア」ではないので肌身の感覚としては
タブレット純の歩いてきた道程みちのりは分からない。
ただ世間や他人との折り合いの付けにくさへの苦悩や
程度の差はあれ、酒に逃げようとする負の精神状態は
多少なりとも経験があり実感として理解はできる。
また大切な人を気持ちとは裏腹にないがしろにしてしまう
そんな行為も、どこかかつての自分の姿に重なって見えてしまう。
化石になどなっていない、ワラワラとうごめいている記憶。
だから心の瘡蓋かさぶたに触れられ不愉快な痛みにイライラしたのだ。

そうか、「ムクの祈り」は「ムク」を見捨てた
純の過去に対するレクイエムなのだろう。
そして、私も「何か」を見捨ててきたのだ。
この本のタブレット純を通して、私も忘れたい
「何か」に祈りを捧げているのかもしれない。

【 水面に向かう深海魚 】

浅草の東洋館に立ち始めたある日から
初めて素面しらふで舞台に立ったそうだ。
十年一滴たりとも抜かなかった、負の魔法から
解き放たれた、と本人は回想している。
私はガンの告知を受ける2か月前から、なぜか
煙草を止めていた。
また、食道がんが判明し、抗がん剤治療と
食道亜全摘手術を受けて退院した後からは
アルコールを全く受け付けない体になってしまった。
煙草も酒もまったくリバウンドなく止められた。
ある日タブレット純は、ふと、遠くを見ると
純と同じ目をした、ムクがいたんだそうだ。
もしかしたら、そこには純と同じ目をした
私もいたかもしれないなぁ・・・
そんなことをふと思って、本を閉じた。

【 手羽元春雨スープと炒飯 】

安い手羽元でも良いダシが出ます




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