リンクの連鎖に囲まれたミステリ――芦辺拓『時の密室』
(初出:『本格ミステリこれがベストだ! 2002』2002年)
あらゆる情報がインターネットで流通するようになり、ミステリに関する情報もまた膨大な量が発信されている。我孫子武丸、小森健太朗、竹本健治、二階堂黎人、西澤保彦、貫井徳郎など、自分のホームページを持つ作家は少なくない。本稿の主役・芦辺拓にも、「芦辺倶楽部」という公式ウェブサイトがある(ただし本人運営ではなく、管理人は別。西澤も同様)。
インターネットの特性はいろいろ指摘されているが、その一つにリンクを自在に張れることがある。ページの指定箇所をクリックすれば、関連情報を記した別のページへ飛べる。リンクの連鎖をたどれば、次から次へ情報を入手できる。
内輪でしか通用しない言葉や発想ばかりをやり取りする趣味の小規模共同体が乱立し、共通言語が失われた――そういわれて久しい。その要因の一つに、趣味の共同体を作りやすいインターネットの発達がある。特定の趣味に関する情報を網羅できるようにリンクを張り合う行為が、内輪の感覚をいっそう強めているのは否めない。
だが一方でリンクは、共同体の外とつながろうとする指向もあわせ持つ。本格ミステリ関連のホームページが、広義のミステリや一般小説など隣接ジャンルだけでなく、音楽や映画、あるいは猫、料理など別カテゴリーのサイトと結ばれているケースは特異ではない。共同体の中でしか通用しない言葉を話している閉塞感や孤独感を、外にリンクを伸ばすことで中和し開放しようとする傾向もうかがえるように思う。
このような内輪指向と外部指向が入り混じった微妙な感情は、ネットの外でもパラレルに存在している。たとえば、新本格以後の作品しか知らず、英米黄金期の名作を手にとろうとしない若い読者が増えたとよくいわれる。新本格以後の読者の共同体ができているわけだ。これに対し、芦辺拓や二階堂黎人に代表されるごとく、意識的に、自作に黄金期本格の雰囲気を濃厚にまとわせる作家がいる。たとえるなら芦辺たちは、自作で新本格以後と黄金期の間にリンクを張っている。そうすることで、黄金期を知らない若い読者に古典を読むきっかけを与えようとしている。つまり、一種の啓蒙運動だ。
芦辺の場合、二○○一年刊行作では『グラン・ギニョール城』と『赤死病の館の殺人』が、啓蒙的なリンクを張っている。『グラン・ギニョール城』では、親族や友人が集まった城で雷鳴が轟き連続殺人が始まるという、いかにもディクスン・カー的で黄金期風なストーリーと、列車内での怪死事件を発端とする現代の出来事とが交互に語られる。過去と現代を最終的にどう結びつけるかで、荒技を使っているのがみどころだ。また『赤死病の館の殺人』は、エドガー・アラン・ポーの「赤死病の仮面」をモチーフにした中篇を中心に、本格の伝統的な道具立てや雰囲気を持った短篇を配した作品集である。
二冊とも若い読者には、黄金期の作品も読んでみようかと思わせるものがあり、黄金期以来のファンならばニヤリとするマニアックな遊び心がある。若い読者には自分の趣味の外に出る面白さを、ある程度以上ディープな読者には本格ジャンル本来の楽しさ(謎解きのロジックと豊饒な物語性)を再確認させることが作者の狙いの中にあるといえる。この二作には、趣味の共同体が乱立する中で、現代本格のあるべき姿がみえにくくなっていることへの、芦辺の危機感が反映されている。ジャンルとしての自意識の問題だ。
また、リンクということで考えるなら、芦辺は小説中の各エピソードのリンクのさせ方について、独特の感覚を持っている。それがみえやすいのは、やはり昨年刊行の『時の密室』だ。この小説は、都市や歴史といった、趣味を越えた社会性と切り結ぶ一方で、リンクの連鎖というネット時代の情報感覚からみても興味深い内容を持っている。
『時の密室』は、九六年刊行の『時の誘拐』の姉妹篇である。二冊はそれぞれ独立した物語だが、かつて「水の都」だった大阪の変貌を描いた都市小説である、身代金(『時の密室』では、金ではなく版画だが)受け渡しの策略が描かれている、過去と現在がつながってようやく事件の全貌が明らかになる――などの共通点がある。
また、『時の誘拐』では、戦後の一時期に国家警察と自治体警察が並存し、「大阪市警視庁」が存在した事実を取り込んでいる。これに対し『時の密室』では、明治期の外国人居留地では治外法権のため日本の警察力が及ばなかった点が、モチーフになっている。二作とも、今とは違う警察制度が孕んでいた矛盾が、物語を動かす力になっているのだ。
『時の密室』は、『時の誘拐』以上に過去と現在を行き来する構成が複雑になっている。作中の章題では、個々の事件はそれぞれ<○○の密室>と呼ばれている。
<河畔の密室>――明治九年、外国人居留地における死体消失事件。
<祝祭の密室>――明治三十六年、内国勧業博覧会における暗号解読のエピソード。
<水底の密室>――昭和四十五年。川底トンネルでの殺人。
以上、三つの事件が過去に属し、次の三つは現代の事件である。
<路上の密室>――目撃証言で犯人は確定したかにみえる、住宅街の殺人事件。
<水上の密室>――水上バスの船上で行われる、奇抜な身代金(版画)受け渡し劇。
<街角の密室>――密室のトイレにおける、散弾銃での自殺としか思えない死。
六つの<密室>は、鍵がかかった部屋での殺人という本来の定義から逸脱した事件も含んでいる。この小説における<密室>は、関係者が思い込みにとらわれて真相を見抜けない閉塞状況を、比喩的に表現した言葉ととらえた方がいいかもしれない。
捜査の閉塞は、名探偵・森江春策が打破していくわけだが、彼は無関係だと思われた過去と現在をアナロジーでとらえたり、直接的な関係を見出したりすることで真相に迫る。いわば、リンクを張るわけだ。
六つの<密室>のうち、内国勧業博覧会での<祝祭の密室>事件を、森江春策はガリ版刷りの小冊子「私家版・郷土資料復刻叢書/日向警部懐旧談(続)」で知る。小説にはこの「懐旧談(続)」がまとまって挿入され、作中作となっている。この作中作という手法について、芦辺は『グラン・ギニョール城』のあとがきで気になることを書いている。
<もう一つ、この作品を書いた動機には、昨今の“メタ・ミステリ”流行への違和感がありました。本来メタ・ミステリというのは「その作品が探偵小説であること自体が探偵小説としての仕掛けにつながっている作品」だと解釈していたのですが、いつしか作中世界と現実とを混合・逆転させたり、劇中劇ならぬ作中作が挿入されて、しかもそれが互いに入れ子構造になったものを指すようになったようです。>
<一方、若い方の習作によく見るのですが、それまで長々と書かれたお話を作中作ということでご破算にされたり、作品自体を「どうせ紙の上に書かれたものだから」と最低限のリアリティまで切り捨ててしまう傾向が出てきているのには違和感を禁じ得ません。>
『グラン・ギニョール城』はその<違和感>を払拭した形で、入れ子構造ミステリを書こうとする試みであり、そのために荒技を用いていた。『時の密室』でも、<祝祭の密室>と他の<密室>とのリンクのさせ方に、やはり<違和感>の払拭が意識されていると思われる。
【警告! 以下で『時の密室』の解決の一部に言及します。未読の方は「*」で括った部分を飛ばして読んで下さい】
*
「懐旧談(続)」は、<水底の密室>事件関係者による創作と判明する。その意味では、<それまで長々と書かれたお話を作中作ということでご破算>にしている。だが、これは好き勝手な<ご破算>ではない。古めかしい語り物調で書かれた作中作は、楽しい読み物になっているだけでなく、暗号解読を扱った文章全体が暗号になっていた。それは、昭和四十五年の大阪万博を舞台にしたテロ計画があったことを、内国勧業博覧会に移し替えて書いた文章であり、<水底の密室>についての考察も含んでいた。
また、小説前半では森江が、外国人居留地の<河畔の密室>事件と川底トンネルの<水底の密室>事件に、直接的関係が認められないにもかかわらず、相互のアナロジーで推理を進める。だが「懐旧談(続)」は、<水底の密室>関係者が、日向も若い時代にかかわった<河畔の密室>事件を知ったことで創作されたと判明する。もともと関連していた現代の三つの<密室>の遠因となった、過去の<水底の密室>事件は、さらなる過去である<河畔の密室><祝祭の密室>と具体的に関係づけられる。小説は最終的に、ある<密室>が別の<密室>の暗喩であるというような、曖昧な状態から脱する。
*
芦辺は、作中における多くの事件を、律儀なほど関係づけていき、一つの解答にまとめあげていく。その手つきは、最近の入れ子構造ミステリの多くとは、やや感触の異なったものだ。
先に引用した芦辺のあとがきを読んだ際、私が連想したのは、またもやネット上のリンクということだった。偶然なのだろうが、昨年は、殊能将之、黒田研二、倉阪鬼一郎といったホームページを持つ作家の入れ子構造ミステリが相次いだ。それに気づき、昨今の入れ子構造流行と、ネット上のリンクに象徴される情報感覚がパラレルなのではないかと思うようになった。
人物Aが、ホームページaを読んで、気になったリンク先bに飛ぶ。この場合、Aはaの参考としてbを読んだのであり、紙の本でいえばaは本文、bは注釈に当たる。だが逆に人物Bが、bからaに飛ぶケースも考えられ、その時はbが本文、aが注釈になる。またAが、a、b、c、d……と次々に飛ぶなら、どれが本文か注釈かなどという見立て自体が馬鹿馬鹿しくなる。多方向に及ぶリンクの連鎖においては、本文と注釈、外枠と内枠などというレベルの差は成り立たない。そして連鎖の中には、知られている通り、虚偽の情報も混じっている。
こうした状況はネットだけではなく、テレビや新聞でも常態化している。自分で検証し直すことなく新聞記事を紹介するテレビ番組、雑誌報道やネット情報をもとに記事を企画する新聞などに、もはや我々は違和感を抱かなくなっている。このような、情報のアナーキーな混迷状態は、多くの入れ子構造ミステリが体現しているものだ。その意味では、入れ子構造ミステリの流行は時代的必然ととらえられる。昨年の作品でいえば、小川勝己の『眩暈を愛して夢を見よ』が、ネット的な混乱の感覚を徹底的に体現した怪作だったといえよう。
だが、本格ミステリは本来、前半に現れたみかけの状況が、捜査過程において流動的に姿を変えるものの、名探偵によって情報が真の形に整えられ最終的に確定するという骨格を持っている。犯人の虚偽情報と、探偵の真の情報にははっきりとしたレベルの差があり、リンクの連鎖的な情報のアナーキーとは相容れないジャンルのはずなのだ。したがって、入れ子構造ミステリは、本格ジャンル的な情報のレベル分けと、リンクの連鎖的なアナーキーとに引き裂かれ、緊張感を持って書かれるべきだが、それが見失われる傾向がある。――芦辺の“メタ・ミステリ”に対する苛立ちを、私はそのように読み替えている。『時の密室』で、律儀なほどに諸々の状況を確定させ、情報のレベル分けをやってみせたのは、緊張感を回復させようとする試みと評価できる。
ジャンルとは、そのコアを継承しようとする求心力と、形式の外に出ようとする遠心力の相互運動で展開していく。芦辺拓はジャンルの根幹に遡ることで、ジャンルを活性化しようとする求心力の代表的本格作家といえるだろう。
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