日本的パッションの詩学──森田童子・山崎ハコ・中島みゆき、そして松任谷由実の情念の声をめぐって
「心は、身体の変容なしには、いかなる情動も経験することはできない。」
──スピノザ『エチカ』第三部 定理二
序章|“情念”はどこへ消えたのか──パッションという名の受難と日本語の倫理
「パッション(passion)」という言葉は、日本語において「情熱」と訳されることが多い。 しかし、この“情熱”という訳語が包み隠してしまったものがある。 それは、パッションの原義──“受苦(suffering)”であり、“激情(furor)”であり、“崇高なまでの狂気”である。
とりわけフランス語圏では、「la passion」は単なる熱意ではない。 それは、理性では制御できない衝動であり、魂の焦げつくような囚われであり、ときに自己の崩壊とすら結びつく。
では、日本語における「情念」はどうか。 それは明らかに、“情熱”とは異なるベクトルを持っている。 情念は、むしろ語り得なさとともにある。 語ってしまえば、どこか“騙っている”気がする。 語れば届くはずなのに、語ることで崩れてしまうものがある。 そのため、日本語の「語る」は、同時に「騙る(かたる)」という影を抱えている。 語ることは、常に倫理的な賭けである──それは日本語話者にとって宿命的な矛盾である。
この論考は、その「語る/騙る」の危うさを、歌声を通じて捉え直そうとする試みである。 なぜなら、歌とは、「語り」ながら、「語り得なさ」を残す唯一の言語だからだ。
扱うのは、四人の女性シンガーソングライターたちである。 森田童子、山崎ハコ、中島みゆき、そして松任谷由実。 彼女たちの歌のなかに、日本的情念の変遷が刻まれている。
この論考は、声と像を経て、“語られなかったもの”が、なおも語りかけてくる場所──すなわち「情念」──の詩学を探る旅である。 ここで言う「詩学」とは、語られなかったものが、なおも響いてしまう“沈黙の構造”そのものへの耳であり、語りそこねた痛みの輪郭を聴き取ろうとする倫理的な実践(エチカ)でもある。
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