「役に立たない時間」こそが、ウェルビーイングだ。構造主義で読み解く、深夜2時の処方箋。
こんばんは、とばりです。
時刻は深夜2時を回りました。
街の喧騒はとうに消え、冷蔵庫のモーター音だけが微かに響くこの部屋で、私は一日中向き合っていたPCを静かに閉じます。
私のWEBマーケの仕事をしており、日中は数字という名の猛獣使いです。
この施策の費用対効果はどうなのか?クリック率は?コンバージョン数は?
そこにあるのは、徹底的な効率化と成果主義の世界といえます。
1分1秒がコストであり、リターンを生まない行動は悪とされる。そんな世界で、私は戦っています。
けれど、モニターの明かりが消え、部屋が闇に包まれるこの瞬間、私はそっと「社会人」としてのスイッチを切ります。
そして、手元のサイドテーブルに置かれた、分厚く、少し古びた哲学書を手に取ります。
この瞬間こそが、私にとってのウェルビーイングな時間なのです。
効率化という病
現代を生きる私たちは、無意識のうちに効率化という病におかされているように思います。
仕事中だけならまだしも、休日にまでおよぶその症状。せっかくの休みなのに、昼まで寝てしまった時の罪悪感。映画を倍速で見ないと損をしたような焦燥感。SNSを開けば、充実した週末を過ごす友人たちの投稿があふれ、それに比べて自分は何も生産していないと落ちこんでしまう。
私たちはいつの間にか、人生という時間に対してまで、コストパフォーマンスやタイパを求めすぎていないでしょうか。
役に立つこと。意味があること。人に自慢できること。
そういったラベルが貼られた時間以外は、まるでムダな時間であるかのように切り捨ててしまう。でも、その強迫観念こそが、私たちの心をじわじわとむしばんでいる正体だと私は考えています。
比較から逃れるための「構造主義」
なぜ、私たちはこれほどまでに他人と比較し、生産性に追われてしまうのか。その謎を解く鍵をくれたのが、私が大学時代に出会い、今も愛読している構造主義という考え方でした。
構造主義の教えをものすごくざっくりと言えば、ものの価値というのはそれ単体で決まるのではなく、他との関係性、つまり構造によって決まるというものです。
例えば、1万円札自体はただの紙切れですが、日本経済という構造の中にあるからこそ価値を持ちます。
同じように、私たちの悩みもまた、私たちが所属している社会の構造が生み出したものです。
資本主義という巨大な構造の中にいる限り、私たちは他者との比較や競争から逃れることはできません。
あいつより稼いでいるか、あいつよりフォロワーが多いか、あいつより幸せそうか。
このシステムの中にいる限り、自動的に比較の物差しを当てられ、そこでの優劣に一喜一憂させられてしまう。
だから、あなたが誰かと比べて落ち込んでしまうのは、あなたの心が弱いからではありません。
そういう構造の中にいるから、ただそれだけのことなのです。
「役に立たない」という最強のシェルター
構造を変えることは、一個人の力では難しいかもしれません。でも、一時的にその構造の外へ脱出することは可能です。
その方法こそが、役に立たない時間を持つことです。
私が深夜に哲学書を読むのは、それが明日の仕事に役立つからではありません。むしろ、難解な文章を1ページ進めるのに1時間かかるような、非効率の極みのような行為だからこそ読んでいます。
誰かとの比較でもなく、金銭的な価値も生まない。 インスタグラムに投稿しても、誰もいいねを押さないような地味な時間。
そんな役に立たないことに没頭している時、私は資本主義という巨大な構造の重力から解放されます。損得勘定の物差しが無効化された空間。
そこは、社会的な評価にさらされることのない、精神的なシェルターです。
意味から自由になる夜
ウェルビーイングとは、直訳すれば「よく在ること」。それは必ずしも、キラキラした充実感に満ちている状態だけを指すのではないと私は思います。
社会が押し付けてくる「有意義であれ」というプレッシャーから離れ、ただの自分に戻れる時間。
意味なんてなくていい。生産性なんてなくていい。
そうやって、無防備な自分を許すことのできる時間こそが、現代における本当の豊かさではないでしょうか。
明日になればまた、PCを開き、数字と戦う日々が始まります。
だからこそ、今夜だけは、この静寂の中で、何の意味も持たない、けれど愛おしい一行を、ゆっくりと噛みしめたいと思います。
役に立たない時間こそが、明日を生きるための、一番の栄養になるのだから。
