奇妙な味の小説「観光地ではありません」
観光地ではありません
一
パンフレットは古本屋の雑誌の間から滑り落ちてきた。
ユウがそれを拾い上げたとき、表紙の写真に目を奪われた。霧に包まれた石畳の路地。木造の建物が不規則に並び、その隙間から柔らかな光が漏れている。どこの国の風景とも断定できない、不思議な既視感のある景色だった。
「訪れてはいけない観光地」——SNSで話題になっていた、あの噂の場所かもしれない。
パンフレットには地図もなければ、住所も記されていない。ただ、手書きで書き込まれた奇妙な手順があった。
「K線の終着駅で降りる。駅舎を出て北へ三十分。朽ちた鳥居をくぐり、獣道を二時間。霧が濃くなったら、目を閉じて百歩進む。目を開けたとき、あなたは着いている」
ユウは翌週末、その通りに実行した。
二
目を開けたとき、村は霧の中に浮かんでいた。
石畳の路地は確かにパンフレットの写真通りだった。けれど、写真では見えなかった細部——壁に這う蔦の複雑な模様、窓辺に置かれた色褪せた花瓶、空気に混じる甘い香り——が、奇妙なリアリティを持って迫ってきた。
「やあ、新しい人だ」
振り向くと、金髪の青年が微笑んでいた。服装は登山用のジャケット。どこかヨーロッパ系の顔立ちだが、日本語は完璧だった。
「ここ、観光地なんですか?」
「さあ。みんなそう思ってるけど」青年は肩をすくめた。「僕はトーマス。たぶん。名前も定かじゃないけど、そう呼ばれてる」
村の中心らしき広場には、十数人の人々がいた。老若男女、人種も服装もバラバラ。誰もが放心したような表情で、それでいて穏やかに見えた。
「みんな観光客?」
「そうだと思う」中年の女性が答えた。アジア系の顔立ちに、フランス語訛りの日本語。「でも、いつ来たかは覚えてないの。昨日かもしれないし、先月かもしれない」
ユウは違和感を覚えた。「荷物は?ホテルは?」
「ホテルはないわ」女性は広場の奥を指した。「でも、あそこに空き家がある。みんな勝手に住んでる。食べ物は……どこからか湧いてくるのよ」
三
村には確かに「観光名所」らしきものが点在していた。
古い井戸。傾いた時計塔。誰も弾かない石のピアノ。苔むした噴水。
けれど、どれにも説明がない。案内板も、由来を記した碑も、何もなかった。
ユウはスマートフォンで写真を撮った。画面を確認して、息を呑む。
井戸の写真には、鏡のように澄んだ湖が写っていた。時計塔は、巨大な砂時計に変わっていた。石のピアノは、無数の鍵盤が渦を巻く抽象的な彫刻になっていた。
「不思議でしょう」
振り返ると、黒髪の女性が立っていた。村で初めて見る、明確な存在感を持つ人物だった。
「私はミレイ。案内人、とでも言っておきましょうか」
「ここは本当に観光地なんですか?」
ミレイは微笑んだ。「それはあなたが決めることよ」
「どういう意味です?」
「観光って何?」ミレイは村の風景を見渡した。「知らない場所を訪れて、何かを見て、何かを感じて、帰っていく。それが観光でしょう?」
「でも、みんな帰れないんですよね」
「帰りたいと思えば、ね」ミレイは意味深に言った。「でも、ここにいる人たちは、もう帰りたいとは思っていないの。帰る理由を忘れてしまったから」
四
三日が過ぎた。いや、三日だとユウは思っていた。
時計塔の針は動かず、空は常に同じ明るさの霧に覆われている。スマートフォンの時計も、いつの間にか狂っていた。
トーマスと名乗った青年は、今では「石工」と呼ばれていた。毎日、広場の隅で石を削り続けている。何を作っているのかは、本人も覚えていない。
フランス語訛りの女性は「料理人」になっていた。どこからともなく現れる食材で、毎日スープを作る。誰も空腹を感じないのに、それでも作り続ける。
ユウ自身も、村での役割を与えられつつあった。
「写真家」——ミレイがそう呼んだ。
「あなたは写真を撮るのが好きでしょう?だったら、それを続ければいい」
「でも、写真には違うものが写るんです」
「だから面白いのよ。あなたが撮るのは、目に見える風景じゃない。あなたが本当に見ているものよ」
ユウはパンフレットを取り出した。表紙の写真はもう見えなくなっていた。紙は白く、インクが消えたように何も印刷されていない。手書きの手順も、まるで蒸発したかのように消えていた。
「帰れないんですか」
「帰りたい?」ミレイは問い返した。
ユウは答えられなかった。帰りたいのか?東京の狭いアパート。週末だけの旅行。いつも「次の場所」を探していた自分。それが何のためだったのか、もう思い出せない。
五
ある日——時間の感覚が曖昧になっていたが——ユウは村の入り口に戻った。
来たときの道を探したが、獣道は消えていた。木々は密集し、まるで最初から道などなかったかのようだった。
そして、見落としていたものに気づいた。
村の入り口、霧に半ば隠れた場所に、古い木製の看板が立っていた。
「観光地ではありません」
文字は手書きで、ペンキは剥がれかけていた。
ユウはその看板を写真に撮った。画面には、こう写っていた。
「あなたは観光客ではありません」
その意味を理解したとき、ユウは笑った。
そうか。ここは観光地じゃない。観光客もいない。訪れる場所じゃなく、辿り着く場所なのだ。目的を持って来る場所じゃなく、目的を手放した者が留まる場所。
「わかった?」
ミレイが隣に立っていた。
「少しだけ」ユウは答えた。「でも、完全には」
「それでいいのよ。完全にわかってしまったら、あなたも私みたいになる」
「あなたは?」
「私は最初の観光客。何十年も前に、ここに辿り着いた。そして、帰らなかった。だから、案内人になった」
ミレイは霧の向こうを見つめた。
「時々、新しい人が来る。そして、選ぶの。帰るか、留まるか。あなたはどうする?」
ユウはスマートフォンを見た。バッテリーは残っているが、圏外のまま。写真フォルダには、この村で撮った数十枚の写真。どれも、撮ったときとは違う風景が記録されている。
井戸の写真に写った湖。時計塔の砂時計。石のピアノの渦。
そして最後に撮った看板——「あなたは観光客ではありません」。
「もう少し、いてもいいですか」
ミレイは微笑んだ。「もちろん。時間はいくらでもあるから」
六
それから、どれくらいの時が流れたのか。
ユウは「写真家」として村に溶け込んでいた。毎日、違う場所を撮る。写真には、いつも現実とは異なる何かが写る。それでも、撮り続ける。
なぜ撮るのか、もうわからない。それでも、撮り続ける。
ある朝——朝だと思う時間——新しい人が村に現れた。若い女性。バックパックを背負い、困惑した表情で広場に立っていた。
「ここ、観光地ですか?」
ユウは微笑んだ。
「さあ。みんなそう思ってるけど」
女性はスマートフォンを取り出し、周囲を撮影し始めた。そして画面を見て、驚きの声を上げた。
ユウはそれを見て、懐かしさを感じた。ああ、自分もそうだったなと。
けれど、それがいつのことだったか、もう思い出せない。
霧の向こうに、ミレイの姿が見えた。彼女は静かに頷いた。
村はこうして、新しい住人を迎える。そして、時間のない時間の中で、彼らは何かを探し続ける。
それが何なのか、誰も答えられない。
ただ、看板だけが静かに立っている。
「観光地ではありません」
それは警告でもなく、招待でもなく、ただの事実。
ここは、目的を失った旅人の、終わらない旅の途中。
ユウはカメラを構えた。新しい観光客を撮る。
画面には、まだ名前を覚えていない自分自身が写っていた。
