文学賞という名の無人島――小説家ごっこを生む構造
日本には文学賞と呼ばれるものが一〇〇〇以上あると言われる。
一見すると、それだけ多くの賞が存在することは、作家にとって恵まれた環境のように思える。しかし、本当にそうなのだろうか。
サッカーには明確なヒエラルキーがある。
町のクラブから始まり、地区大会、都道府県大会、ユース、Jリーグ、日本代表へと続く育成システムが存在する。どのカテゴリーにいても、その先に進む道筋が見える。もちろん例外はあるが、「ここで結果を出せば次につながる」という共通認識がある。
ところが、日本の文学賞には、その構造がない。
出版社ごとに新人賞があり、自治体の文学賞があり、企業や団体の文学賞がある。それぞれ独立して存在し、互いに連携していない。ある賞を受賞したからといって、次の賞への道が開かれるわけでもなければ、文学界全体の中で客観的な位置づけが決まるわけでもない。
つまり、文学賞はピラミッドではない。
無数の島が海に浮かんでいるだけなのである。
そして、不幸にしてその無人島に上陸してしまったら、それは悲劇であり喜劇でもある。
島の中では歓迎される。拍手もされる。受賞者として称えられる。しかし、その評価は島の外には届かない。隣の島は存在すら知らず、その賞歴は別の島では何の意味も持たない。
本人だけが「作家になった」と思い込み、周囲も「先生」と呼ぶ。
だが、その島を出る船はない。
文学賞は本来、才能を発見し、より大きな舞台へ送り出すためのシステムであるはずだ。ところが、日本では多くの場合、賞そのものが終着駅になってしまっている。
その結果、生まれるのは文学ではない。
「文学賞を取ること」が目的化した世界である。
私はこれを「小説家ごっこ」と呼びたい。
もちろん、すべての文学賞がそうだと言うつもりはない。優れた作品を世に送り出してきた賞も数多く存在する。しかし、全体を俯瞰したとき、日本の文学界には育成システムが存在せず、孤立した文学賞が点在していることもまた事実ではないだろうか。
一〇〇〇以上の文学賞があることは問題ではない。
問題なのは、それらが階段になっていないことである。
文学界に必要なのは、新しい無人島ではない。
才能が次の舞台へ進める航路である。
