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奇妙な味の小説「無国籍の夢売り」

ユメノトリの朝市は、いつも霧の中で開かれる。

私は昨夜見た夢を小瓶に詰めて、露店に並べた。青い海の夢、誰かを抱きしめる夢、空を飛ぶ夢。どれも五余韻から十余韻くらいの値がつく。

「これ、本物?」老婆が青い海の夢を手に取る。

「三日前に見ました」私は答える。「波の音まで入ってます」

老婆は瓶を透かして見る。夢は液体ではない。煙でもない。光でもない。ただそこにある、としか言えない何か。彼女は七余韻を私の手のひらに置いた。

余韻は触れた瞬間に消える。でも確かに受け取った感触が残る。それがこの街の通貨だ。

私は受け取った余韻で、誰かの「温かいスープを飲む夢」を買った。今夜眠れば、その夢を見られる。明日の朝には忘れているけれど、何か満たされた気持ちだけが残る。

そうやって私たちは生きている。夢を売り、夢を買い、少しずつ自分を失っていく。

ミナに初めて会ったのは、市場の外れだった。

彼女は夢を売っていなかった。ただ座って、空を見上げていた。この街では珍しい。誰もが夢を売ることに必死で、空を見上げる余裕などないはずだ。

「売らないんですか」私は声をかけた。

「売れないの」彼女は笑った。「私の夢、まだ起きてないことばかりだから」

「未来の夢?」

「予知じゃないわ。ただの、まだ来ていない記憶」

意味が分からなかった。でも彼女の目は真剣だった。

「あなた、名前は?」彼女が聞く。

私は答えられなかった。名前を思い出せない。いつから忘れたのだろう。夢を売りすぎたせいかもしれない。

「じゃあ、私が名前をあげる」彼女は言った。「『残る者』。あなたはそういう顔をしてる」

ミナの夢を見せてもらった。

それは透明な箱に入っていた。覗き込むと、見えた。

ユメノトリの街。でも誰も動いていない。露店は並んでいるが、夢の瓶は全て空。人々は立ったまま、目を閉じている。いや、目は開いている。でも何も見ていない。

そして街の中心に、一人だけ歩いている男。彼は夢の瓶を拾い集めている。空の瓶を。

その男の顔が見えた。私だった。

「これ、いつの夢?」

「夢の終わりの日」ミナは静かに言った。「あと十三日後」

「街が終わる?」

「夢が終わるの。みんな、売り尽くしちゃうから」

私は箱から目を離した。心臓が速く打っている。

「なぜ私は歩いてる?」

「あなただけが、夢を売らなかったから」

それから毎日、ミナに会った。

彼女の夢はどれも売れなかった。誰も未来の記憶なんて欲しがらない。過去の夢か、架空の夢しか需要がない。

「なぜ売らないの?」ミナが聞いた。「あなた、最近夢を売ってないでしょ」

確かに。ミナに会ってから、夢を売るのをやめていた。

「売ったら、あなたのこと忘れそうで」

「それでいいのよ」彼女は笑った。「みんな忘れていく。それがこの街のルール」

「でも」

「でも、何?」

「忘れたくないものもある」

ミナは黙った。それから小さく言った。

「私も、あなたのこと忘れたくない」

十三日目の朝。

市場に異変が起きていた。人々が夢を売り尽くそうとしている。我先にと、ありとあらゆる夢を放出している。

「何が起きてるんだ」

「終わりが近いのを、みんな感じてるのよ」ミナが言った。「無意識に」

老人が私の前に立った。彼の手には、人生分の夢が入った大きな袋。

「全部買ってくれ」彼は言った。「もう見たくないんだ。何もかも」

私は首を振った。

「買えません」

「なぜだ」

「あなたの夢は、あなたのものです」

老人は泣き出した。でも涙の意味が分からない顔をしていた。感情を売ってしまったのだろう。

正午。

街の全員が、夢を売り尽くした。

露店には空の瓶だけが並んでいる。人々は立ったまま動かない。目は開いているが、何も見ていない。人形のように。

ミナだけが私の隣にいた。

「あなたは?」私は聞いた。

「私の夢は売れなかったから」彼女は言った。「まだ持ってる」

街は静まり返っていた。風の音すらしない。

「これからどうなる?」

「あなたが決めるの」ミナは私を見た。「夢を持たない街に、夢を返す。それとも、このまま終わらせる」

「どうやって?」

「私の夢を使って」

彼女は透明な箱を取り出した。中には無数の夢が渦巻いている。まだ見ぬ夢。まだ起きていない記憶。

「これをみんなに配って。そうすれば、街はまた動き出す」

「でも、それは君の夢だろう」

「いいの」ミナは微笑んだ。「私、もう覚えてるから。この十三日間の記憶を。それだけで十分」

私は街を歩いた。

空の瓶を拾い集めた。一つ一つに、ミナの夢を注いだ。

未来の記憶。まだ見ぬ朝。まだ聞いたことのない歌。まだ出会っていない人。

人々の瓶に夢を入れるたび、彼らの目に光が戻った。

老婆が最初に動いた。「あら、私...今まで何を?」

「夢を見ていたんです」私は答えた。

「そう...夢を」

一人、また一人と街が息を吹き返す。

そして最後の瓶に夢を注いだとき、ミナの姿が消えかけていた。

「待って」

「いいの」彼女の声は遠い。「私は未来の記憶だから。いつか、どこかで、また会える」

「いつ?」

「わからない。でも、あなたが夢を見続ける限り」

翌朝、市場は再び開かれた。

私は夢を売らなかった。代わりに、空の瓶を配った。

「これは何だ」と誰かが聞く。

「これから見る夢を入れるための瓶です」私は答える。

「まだ見てない夢を?」

「ええ。まだ見ていない夢を」

人々は不思議そうに瓶を受け取った。でも誰も笑わなかった。この街では、まだ見ぬものに価値がないから。

夜、私は眠った。

夢を見た。ミナと歩く街の夢。彼女は私に言う。

「あなた、名前覚えてる?」

「いや」

「じゃあ、また名前をあげる」

「何て?」

「『夢見る者』」

朝、目が覚めた。

ミナの顔は忘れていた。声も、名前も。

でも、誰かと約束した気がした。

夢を売らないこと。夢を見続けること。

そして、まだ見ぬ何かを待ち続けること。

私は空の瓶を一つ取り出して、窓辺に置いた。

いつか来る夢のために。


余韻が残る。

誰の余韻だろう。

それすら、もうわからない。