奇妙な味の小説「無国籍の夢売り」
一
ユメノトリの朝市は、いつも霧の中で開かれる。
私は昨夜見た夢を小瓶に詰めて、露店に並べた。青い海の夢、誰かを抱きしめる夢、空を飛ぶ夢。どれも五余韻から十余韻くらいの値がつく。
「これ、本物?」老婆が青い海の夢を手に取る。
「三日前に見ました」私は答える。「波の音まで入ってます」
老婆は瓶を透かして見る。夢は液体ではない。煙でもない。光でもない。ただそこにある、としか言えない何か。彼女は七余韻を私の手のひらに置いた。
余韻は触れた瞬間に消える。でも確かに受け取った感触が残る。それがこの街の通貨だ。
私は受け取った余韻で、誰かの「温かいスープを飲む夢」を買った。今夜眠れば、その夢を見られる。明日の朝には忘れているけれど、何か満たされた気持ちだけが残る。
そうやって私たちは生きている。夢を売り、夢を買い、少しずつ自分を失っていく。
二
ミナに初めて会ったのは、市場の外れだった。
彼女は夢を売っていなかった。ただ座って、空を見上げていた。この街では珍しい。誰もが夢を売ることに必死で、空を見上げる余裕などないはずだ。
「売らないんですか」私は声をかけた。
「売れないの」彼女は笑った。「私の夢、まだ起きてないことばかりだから」
「未来の夢?」
「予知じゃないわ。ただの、まだ来ていない記憶」
意味が分からなかった。でも彼女の目は真剣だった。
「あなた、名前は?」彼女が聞く。
私は答えられなかった。名前を思い出せない。いつから忘れたのだろう。夢を売りすぎたせいかもしれない。
「じゃあ、私が名前をあげる」彼女は言った。「『残る者』。あなたはそういう顔をしてる」
三
ミナの夢を見せてもらった。
それは透明な箱に入っていた。覗き込むと、見えた。
ユメノトリの街。でも誰も動いていない。露店は並んでいるが、夢の瓶は全て空。人々は立ったまま、目を閉じている。いや、目は開いている。でも何も見ていない。
そして街の中心に、一人だけ歩いている男。彼は夢の瓶を拾い集めている。空の瓶を。
その男の顔が見えた。私だった。
「これ、いつの夢?」
「夢の終わりの日」ミナは静かに言った。「あと十三日後」
「街が終わる?」
「夢が終わるの。みんな、売り尽くしちゃうから」
私は箱から目を離した。心臓が速く打っている。
「なぜ私は歩いてる?」
「あなただけが、夢を売らなかったから」
四
それから毎日、ミナに会った。
彼女の夢はどれも売れなかった。誰も未来の記憶なんて欲しがらない。過去の夢か、架空の夢しか需要がない。
「なぜ売らないの?」ミナが聞いた。「あなた、最近夢を売ってないでしょ」
確かに。ミナに会ってから、夢を売るのをやめていた。
「売ったら、あなたのこと忘れそうで」
「それでいいのよ」彼女は笑った。「みんな忘れていく。それがこの街のルール」
「でも」
「でも、何?」
「忘れたくないものもある」
ミナは黙った。それから小さく言った。
「私も、あなたのこと忘れたくない」
五
十三日目の朝。
市場に異変が起きていた。人々が夢を売り尽くそうとしている。我先にと、ありとあらゆる夢を放出している。
「何が起きてるんだ」
「終わりが近いのを、みんな感じてるのよ」ミナが言った。「無意識に」
老人が私の前に立った。彼の手には、人生分の夢が入った大きな袋。
「全部買ってくれ」彼は言った。「もう見たくないんだ。何もかも」
私は首を振った。
「買えません」
「なぜだ」
「あなたの夢は、あなたのものです」
老人は泣き出した。でも涙の意味が分からない顔をしていた。感情を売ってしまったのだろう。
六
正午。
街の全員が、夢を売り尽くした。
露店には空の瓶だけが並んでいる。人々は立ったまま動かない。目は開いているが、何も見ていない。人形のように。
ミナだけが私の隣にいた。
「あなたは?」私は聞いた。
「私の夢は売れなかったから」彼女は言った。「まだ持ってる」
街は静まり返っていた。風の音すらしない。
「これからどうなる?」
「あなたが決めるの」ミナは私を見た。「夢を持たない街に、夢を返す。それとも、このまま終わらせる」
「どうやって?」
「私の夢を使って」
彼女は透明な箱を取り出した。中には無数の夢が渦巻いている。まだ見ぬ夢。まだ起きていない記憶。
「これをみんなに配って。そうすれば、街はまた動き出す」
「でも、それは君の夢だろう」
「いいの」ミナは微笑んだ。「私、もう覚えてるから。この十三日間の記憶を。それだけで十分」
七
私は街を歩いた。
空の瓶を拾い集めた。一つ一つに、ミナの夢を注いだ。
未来の記憶。まだ見ぬ朝。まだ聞いたことのない歌。まだ出会っていない人。
人々の瓶に夢を入れるたび、彼らの目に光が戻った。
老婆が最初に動いた。「あら、私...今まで何を?」
「夢を見ていたんです」私は答えた。
「そう...夢を」
一人、また一人と街が息を吹き返す。
そして最後の瓶に夢を注いだとき、ミナの姿が消えかけていた。
「待って」
「いいの」彼女の声は遠い。「私は未来の記憶だから。いつか、どこかで、また会える」
「いつ?」
「わからない。でも、あなたが夢を見続ける限り」
八
翌朝、市場は再び開かれた。
私は夢を売らなかった。代わりに、空の瓶を配った。
「これは何だ」と誰かが聞く。
「これから見る夢を入れるための瓶です」私は答える。
「まだ見てない夢を?」
「ええ。まだ見ていない夢を」
人々は不思議そうに瓶を受け取った。でも誰も笑わなかった。この街では、まだ見ぬものに価値がないから。
夜、私は眠った。
夢を見た。ミナと歩く街の夢。彼女は私に言う。
「あなた、名前覚えてる?」
「いや」
「じゃあ、また名前をあげる」
「何て?」
「『夢見る者』」
朝、目が覚めた。
ミナの顔は忘れていた。声も、名前も。
でも、誰かと約束した気がした。
夢を売らないこと。夢を見続けること。
そして、まだ見ぬ何かを待ち続けること。
私は空の瓶を一つ取り出して、窓辺に置いた。
いつか来る夢のために。
余韻が残る。
誰の余韻だろう。
それすら、もうわからない。
