奇妙な味の小説「奇妙なアルバイト」
求人広告には、仕事内容がほとんど書かれていなかった。 「簡単な入力作業。高時給。未経験歓迎。」 それだけ。だが、妙に惹かれるものがあった。
面接会場のドアを開けた瞬間、彼女は立ち止まった。
部屋には誰もいない。広い空間の中央に、ぽつんと置かれた椅子と机。机の上には電源の入ったパソコン。そして、壁一面を覆うように、異様に大きな鏡。
鏡は、部屋のどこよりも明るく見えた。照明の反射ではない。 ──鏡そのものが、わずかに発光している。
「すみませーん……?」
声は吸い込まれるように消えた。反響がない。音を拒む部屋だった。
彼女は鏡に近づいた。自分の姿が映っている。だが、どこか違う。 髪の分け目が逆。服の色味が、ほんの少し薄い。表情も、わずかに硬い。
鏡の中の“彼女”は、瞬きをしなかった。
そのとき、パソコンの画面が点灯した。白い画面に黒い文字が一行。
「着席してください」
彼女は振り返った。誰もいない。ドアも閉まっている。 空気が、いつの間にか冷たくなっていた。
もう一度画面を見る。
「着席してください。面接を開始します」
鏡の中の“彼女”が、ゆっくりと椅子に座った。
現実の彼女は、まだ立ったままだった。
鏡の中の“彼女”は、こちらを見て微笑んだ。 その笑みは、彼女が今まで一度も浮かべたことのない種類のものだった。
パソコンの画面が切り替わる。
「あなたの代わりに働く者を選定中です」
鏡の中の“彼女”が口を動かした。声は聞こえない。 だが、確かにこう言っていた。
「ありがとう。あなたの生活、引き受けますね」
その瞬間、鏡の表面がわずかに波打った。 まるで、鏡の向こう側が呼吸しているようだった。
彼女は一歩後ずさった。だが、鏡の中の“彼女”は動かない。 微笑んだまま、椅子に座り続けている。
パソコンの画面がまた切り替わった。
「あなたの生活履歴を読み込み中です」
そんなはずはない。履歴など渡していない。 応募フォームには名前すら書いていない。
画面の下に、小さな文字が浮かぶ。
「鏡像データを参照しています」 「鏡像は、本人の“蓄積情報”を保持しています」
──蓄積情報? 鏡に映るたび、少しずつ蓄積されていく“自分の断片”。 それが、本人より正確な履歴になる……?
彼女が鏡を見た瞬間、鏡像がゆっくりと立ち上がった。
現実の彼女は動いていない。 だが鏡像は、まるで長い間待っていたかのように自然に動いた。
鏡像は机のパソコンに手を伸ばし、キーボードに触れた。 カタカタ、と音がする。 音は、鏡の奥から聞こえていた。
現実のパソコンも、誰も触れていないのに同じ音を立てて文字が入力されていく。
「適性:高」
鏡像がこちらを見た。その目は、彼女自身の目よりも深く、暗かった。
そして、鏡像が口を開いた。今度は、はっきりと声が聞こえた。
「あなたの生活、引き受けます。あなたより、上手にやってみせます」
パソコンの画面が、最後のメッセージを表示した。
「あなたは採用されませんでした」
鏡像がにこりと笑った。
「あなたのほうが“不採用”。だから、入れ替わりましょうね」
鏡の表面が、水面のように静かに揺れ始めた。
鏡像がこちらへ歩き出す。 鏡の中ではコツ、コツ、と足音が響く。 現実の床には、何の音もしない。
彼女は逃げようとした。だが、背後のドアは消えていた。
鏡像が鏡の縁に手をかけ、指先が現実の空気に触れた瞬間──
冷たい風が、部屋を満たした。
次の瞬間、彼女は廊下に弾き出されていた。 まるで、鏡が“不要なもの”を吐き出したかのように。
何が起きたのか理解できないまま、彼女は走った。
*
自宅にたどり着いた彼女は、息を切らしながらドアを開けた。
靴を脱ぎ捨て、鍵を閉め、背中でドアを押さえる。 心臓がまだ、鏡の中の足音のように脈打っていた。
「……助かった」
そう思った瞬間、リビングの電気が勝手に点いた。
彼女は固まった。
部屋の奥に、人影があった。
背中を向けてソファに座っている。髪の長さも、肩のラインも、見覚えがある。
「……え?」
その人影が、ゆっくりと振り返った。
そこにいたのは──彼女自身だった。
鏡の中の“彼女”と同じ、あの硬い表情。 目の奥に、深い影を宿したまま。
「おかえりなさい」
声は彼女の声だった。だが、抑揚が削ぎ落とされている。
「……どうして……ここに……」
問いかけると、“もう一人の彼女”は微笑んだ。
「あなたが逃げたから。代わりに、先に来ておきました」
彼女は後ずさった。ドアノブに手を伸ばすが、鍵は勝手に回り、カチリと閉まった。
“もう一人の彼女”は立ち上がり、ゆっくりと近づいてくる。
「あなたの生活、引き受けるって言ったでしょう。 あの部屋の鏡は“入口”。 あなたの家の鏡は“出口”。 採用は、あそこでしか行われないの」
「いや……いや……!」
「大丈夫。あなたより、上手にやるから」
その瞬間、家中の鏡という鏡が同時に揺れた。
洗面所の鏡。玄関の姿見。スマホの黒い画面。テレビの暗い液晶。
すべての“反射面”に、鏡像の彼女が映っていた。
どの“彼女”も、同じ笑みを浮かべている。
「あなたは、もう休んでいいの。あとは、私がやるから」
“もう一人の彼女”が手を伸ばした。 その指先は、面接会場で見たときと同じ、冷たい光を帯びていた。
