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奇妙な味の小説「前を行く人」

ユウが最初に気づいたのは、火曜日の朝だった。

駅へ向かう坂道を上っているとき、前方に一人の男が歩いていた。灰色のコート。黒い鞄。それだけなら何の変哲もない。この街の朝は、そういう人間で満ちている。

だが、ユウは立ち止まった。

その男は、ユウと同じ歩幅で歩いていた。同じリズムで。まるで、ユウの足音を知っているかのように。

ユウは足を速めた。男も速めた。

ユウは遅くした。男も遅くした。

距離は、変わらなかった。

駅に着いても、男はいた。改札を通り、ホームへ降りる階段を下り、電車を待つ。そのすべてにおいて、男は十メートル前にいた。

ユウは考えた。偶然だ。この街には、同じ方向へ向かう人間がいくらでもいる。

だが、電車が来て、ユウが三両目に乗ると、窓の外に男の背中が見えた。男は二両目に乗っていた。

そして、会社の最寄り駅で降りたとき、男はすでにホームを歩いていた。

ユウの前を。

翌日、ユウは道を変えた。

いつもと違う路地を通り、遠回りをして駅へ向かった。だが、路地の奥に、男がいた。

今日は紺色のジャケットを着ていた。鞄は同じだった。

ユウは引き返した。別の道を選んだ。公園を抜け、橋を渡り、裏通りを進んだ。

だが、橋のたもとに、男がいた。

裏通りの角に、男がいた。

公園の出口に、男がいた。

常に、十メートル前に。

ユウは走った。息を切らし、角を曲がり、曲がり、曲がった。

だが、男は走っていなかった。

ただ、歩いていた。

そして、常にユウの前にいた。

一週間後、ユウは日記をつけ始めた。

男の動きを記録するために。服装、時刻、場所、すべてを書き留めた。

だが、三日目の夜、ユウは震えた。

日記を開くと、明日の日付のページに、すでに文字が書かれていた。

ユウの筆跡で。

「午前七時十五分。灰色のコート。坂道の途中。曇り。」

ユウは、まだ何も書いていなかった。

だが、翌朝、すべてがその通りになった。

ユウは理解し始めた。

男は、ユウの未来を歩いているのではない。

男は、ユウの前提なのだ。

ユウが道を選ぶとき、それは選択ではない。男がすでに歩いた道を、ユウがなぞっているだけだ。

ユウが角を曲がるとき、それは意志ではない。男が曲がったから、ユウも曲がらなければならないのだ。

ユウの人生は、後続だった。

誰かが先に歩き、ユウはその痕跡を辿る。

それが、ユウの存在の形式だった。

ある日、ユウは決意した。

男に追いつく。男に声をかける。男の顔を見る。

ユウは走った。全力で。

男は、十メートル前を歩いていた。

ユウは叫んだ。「待ってくれ!」

男は、角を曲がった。

ユウも角を曲がった。

だが、そこには誰もいなかった。

ただ、長い直線の道があった。

そして、遠く、遠く、風景の果てに、男の背中が見えた。

まるで、風景そのものが男を押し出しているかのように。

それから一ヶ月が経った。

ユウは、もう男を追わなくなった。

男がいることを、前提として受け入れた。

朝、家を出ると、男はすでに道を歩いている。

ユウは、その後ろを歩く。

それだけだ。

ユウは、もう日記を書かなかった。

書く必要がなかった。

すべては、すでに書かれているのだから。

ある日、男が消えた。

朝、家を出ても、坂道に誰もいなかった。

駅へ向かっても、誰もいなかった。

ユウは、立ち止まった。

道が、選べなかった。

右か、左か。

進むか、戻るか。

すべてが、等価に見えた。

風景は、ユウの前に現れなかった。

ユウは、動けなかった。

ユウは、今もそこに立っている。

坂道の途中で。

前を行く人がいないとき、道はない。

道がないとき、風景はない。

風景がないとき、ユウは、どこにもいない。

ただ、誰かが前を歩き始めるのを待っている。

それが、ユウの存在の形式だった。

そして、ある朝、誰かがユウの後ろを歩き始めたことに、ユウは気づかない。

その人は、ユウの背中を見ている。

ユウが前を行く人になったことに、ユウは気づかない。

風景は、そうやって連鎖する。

前を行く者と、後に続く者。

語られない順序のなかで、街は続いていく。