奇妙な味の小説「前を行く人」
一
ユウが最初に気づいたのは、火曜日の朝だった。
駅へ向かう坂道を上っているとき、前方に一人の男が歩いていた。灰色のコート。黒い鞄。それだけなら何の変哲もない。この街の朝は、そういう人間で満ちている。
だが、ユウは立ち止まった。
その男は、ユウと同じ歩幅で歩いていた。同じリズムで。まるで、ユウの足音を知っているかのように。
ユウは足を速めた。男も速めた。
ユウは遅くした。男も遅くした。
距離は、変わらなかった。
駅に着いても、男はいた。改札を通り、ホームへ降りる階段を下り、電車を待つ。そのすべてにおいて、男は十メートル前にいた。
ユウは考えた。偶然だ。この街には、同じ方向へ向かう人間がいくらでもいる。
だが、電車が来て、ユウが三両目に乗ると、窓の外に男の背中が見えた。男は二両目に乗っていた。
そして、会社の最寄り駅で降りたとき、男はすでにホームを歩いていた。
ユウの前を。
二
翌日、ユウは道を変えた。
いつもと違う路地を通り、遠回りをして駅へ向かった。だが、路地の奥に、男がいた。
今日は紺色のジャケットを着ていた。鞄は同じだった。
ユウは引き返した。別の道を選んだ。公園を抜け、橋を渡り、裏通りを進んだ。
だが、橋のたもとに、男がいた。
裏通りの角に、男がいた。
公園の出口に、男がいた。
常に、十メートル前に。
ユウは走った。息を切らし、角を曲がり、曲がり、曲がった。
だが、男は走っていなかった。
ただ、歩いていた。
そして、常にユウの前にいた。
三
一週間後、ユウは日記をつけ始めた。
男の動きを記録するために。服装、時刻、場所、すべてを書き留めた。
だが、三日目の夜、ユウは震えた。
日記を開くと、明日の日付のページに、すでに文字が書かれていた。
ユウの筆跡で。
「午前七時十五分。灰色のコート。坂道の途中。曇り。」
ユウは、まだ何も書いていなかった。
だが、翌朝、すべてがその通りになった。
四
ユウは理解し始めた。
男は、ユウの未来を歩いているのではない。
男は、ユウの前提なのだ。
ユウが道を選ぶとき、それは選択ではない。男がすでに歩いた道を、ユウがなぞっているだけだ。
ユウが角を曲がるとき、それは意志ではない。男が曲がったから、ユウも曲がらなければならないのだ。
ユウの人生は、後続だった。
誰かが先に歩き、ユウはその痕跡を辿る。
それが、ユウの存在の形式だった。
五
ある日、ユウは決意した。
男に追いつく。男に声をかける。男の顔を見る。
ユウは走った。全力で。
男は、十メートル前を歩いていた。
ユウは叫んだ。「待ってくれ!」
男は、角を曲がった。
ユウも角を曲がった。
だが、そこには誰もいなかった。
ただ、長い直線の道があった。
そして、遠く、遠く、風景の果てに、男の背中が見えた。
まるで、風景そのものが男を押し出しているかのように。
六
それから一ヶ月が経った。
ユウは、もう男を追わなくなった。
男がいることを、前提として受け入れた。
朝、家を出ると、男はすでに道を歩いている。
ユウは、その後ろを歩く。
それだけだ。
ユウは、もう日記を書かなかった。
書く必要がなかった。
すべては、すでに書かれているのだから。
七
ある日、男が消えた。
朝、家を出ても、坂道に誰もいなかった。
駅へ向かっても、誰もいなかった。
ユウは、立ち止まった。
道が、選べなかった。
右か、左か。
進むか、戻るか。
すべてが、等価に見えた。
風景は、ユウの前に現れなかった。
ユウは、動けなかった。
八
ユウは、今もそこに立っている。
坂道の途中で。
前を行く人がいないとき、道はない。
道がないとき、風景はない。
風景がないとき、ユウは、どこにもいない。
ただ、誰かが前を歩き始めるのを待っている。
それが、ユウの存在の形式だった。
そして、ある朝、誰かがユウの後ろを歩き始めたことに、ユウは気づかない。
その人は、ユウの背中を見ている。
ユウが前を行く人になったことに、ユウは気づかない。
風景は、そうやって連鎖する。
前を行く者と、後に続く者。
語られない順序のなかで、街は続いていく。
