奇妙な味の短編小説集《池の底から》第一話「忘れていた昔」
第一章 三日月湖
浮間舟渡、名前から思うに荒川の東京と埼玉を船で繋いでいた場所だ。その地名のついた埼京線の駅前には浮間公園がある。公園と言ってもその大半は池である。この浮間ヶ池はもともと荒川が蛇行して残した三日月湖の名残である。この池の外周一キロちょっとは、ランニングコースであり、犬の散歩であり、さらにはヘラブナを狙う釣り人、池に浮かぶ水鳥を観察するバードウォッチャー、さまざまな人が集まる憩いの場所だ。
私がここに来るようになったのは三年前からだ。フリーランスの写真家として食っていくには、風景写真だけでは足りない。雑誌の依頼で野鳥写真を撮り始めたのがきっかけで、都内で手軽にアクセスできるバードウォッチングの名所として浮間公園を知った。
サンニッパ——三百ミリF2.8の大口径望遠レンズ——をつけた一眼レフを肩に下げて、私は週に二、三度この池を訪れるようになった。コサギの白、カルガモの茶、オオバンの黒と白。季節によってはマガモやキンクロハジロも来る。ファインダーを覗きながら、私はいつもこの池が好きだと思っていた。
水は濁っている。底は見えない。
それがまた良かった。
その日——十一月の曇った午後——私はいつものように池のほとりに立っていた。
公園の入り口近くに、三つ並んだゴミ箱がある。それぞれ入れるものが違う。燃えるゴミ、缶・ペットボトル、燃えないゴミ。老婆は自転車を止め、かごに入れてきたゴミを分別しながら投入した。丁寧に、几帳面に。一つひとつ確認しながら。
老婆が自転車を押して去ると、木陰からそれを見ていたホームレスの男がゴミ箱を探り始めた。
私は偶然それを目撃した。サンニッパの望遠レンズ越しに。水鳥を追っていたファインダーが、たまたまその方向を向いていただけだ。
最初は、ありふれた光景だと思った。缶を集めて売る、よくある話だ。だが何かが引っかかった。男の動作が、缶を拾うそれとは違う。探している。何かを探している。そして見つけた。白いビニール袋。それを上着の内側に素早くしまった。
きっと何かを渡しているに違いない。老婆とホームレスの男。二人はあの分別の時間を使って何かをやりとりした。
私はただ水鳥を撮影しに来ただけだった。しかし人間の営みというのは、時として鳥よりも奇妙な被写体になる。
老婆がいつの間にかうしろに立っていた。
「あなた、私たちを観ていたわね」
振り返る間もなく声が来た。低く、しかし澄んだ声だった。
「いいえ。鳥を撮っていただけです」
私は振り返った。七十代か八十代か。小柄な老婆だった。白髪を束ねて、紺色のコートを着ている。どこにでもいる公園の常連老人に見えた。
「そう」
老婆は私の持つカメラを見た。値踏みするような視線ではなく、どこか懐かしむような眼差しで。
「私は池の底に住んでいるの」
天気の話をするような調子で言った。
私は聞き返した。
「池の……底に?」
「そう。池の底に」
老婆はもう一度言った。その声は、背後から聞こえているはずなのに、どこか水の中から響いてくるようでもあった。
私はゆっくりと振り返った。老婆は、さっきまでゴミ箱の前にいたときと同じ服装のまま、しかしなぜか濡れていた。髪の先から、ぽたり、ぽたりと水滴が落ちている。
「池の……底に?」自分の声が、思ったよりも高く震えていた。
老婆はうなずいた。その動きに合わせて、肩から水がこぼれ落ちる。まるで池から上がってきたばかりのように。
第二章 受け渡し
「あなた、見たでしょう。あの男がゴミ箱を探るところを」
「ええ……まあ、偶然……」
「偶然なんてないわよ」
老婆は、私の持つカメラのレンズにそっと指を触れた。その指先も冷たく濡れていた。
「あなたのレンズは、見なくていいものまで見てしまうの」
私は思わずカメラを引いた。しかし老婆の指は、レンズに触れたまま離れない。まるで吸い付いているようだった。
「池の底にはね、捨てられたものが全部沈むのよ。ゴミも、思い出も、人の声も。そして……人も」
老婆は微笑んだ。その笑みは優しいのに、どこか深い暗がりを含んでいた。
「だから私たちは、時々こうして受け渡しをするの。沈んだものを、必要な人に返すために」
「返す……?」
「ええ。あなたにも、そろそろ返さないとね」
老婆は、レンズに触れていた指をそっと離した。その瞬間、レンズの表面に水滴が一つ残った。まるで池の底から持ち帰った雫のように。
「あなたの分、もう用意してあるのよ」
老婆はそう言うと、池の方へゆっくりと歩き出した。足跡は、乾いた地面に濡れた跡を残していく。
私は動けなかった。池の水鳥たちが、一斉に羽ばたいて逃げていくのが見えた。まるで、何かが水面の下で動いたかのように。
私はカメラを下げたまま、老婆の背中を見ていた。
池のほとりに着くと、老婆は立ち止まった。振り返りもしない。水面を見ている。
ホームレスの男がいつの間にかそこにいた。ゴミ箱の前にいたはずの男が、老婆の隣に立っていた。二人は並んで池を見ている。
私はファインダーを覗いた。
サンニッパの先に、二人の後ろ姿が収まった。老婆の髪からはまだ水が滴っている。男の足元も濡れている。
シャッターを切ろうとして、止まった。
ファインダーの中に、もう一人いた。
池の中に。水面のすぐ下に、こちらを見上げている人影があった。男でも女でもわからない。ただ、確かにそこにいる。
カメラを目から離した。
池の水面は、穏やかだった。風もない。水鳥が一羽、静かに浮いている。何もない。
もう一度ファインダーを覗いた。
人影はまだいた。今度はもっとはっきりと見える。こちらに手を伸ばしている。
私は気づいた。
その顔に見覚えがあった。
だが、思い出すのに数秒かかった。なぜなら、ファインダーの中のその顔は、水のゆらぎに合わせて、ゆっくりと形を変えていたからだ。
最初は、昔の同級生に似ていると思った。次に、数年前に亡くなった伯父の顔に見えた。そして最後に——
私自身の顔に見えた。
息が止まった。ファインダーを外すと、池はただの池だった。水面は静かで、風もなく、鳥が一羽浮かんでいるだけ。
だが、もう一度覗くと、水面の下の「私」は、確かにそこにいた。こちらを見上げ、手を伸ばしている。
「返すって……何を……」
自分でも驚くほど小さな声が漏れた。
老婆は、池のほとりで立ち止まったまま、こちらを振り返らずに言った。
「あなたが落としたものよ。ずっと前にね。あなた自身が気づかないうちに、池に沈めてしまったの」
ホームレスの男が、ゆっくりとこちらを向いた。その目は、どこか空洞のようで、しかし深い水の底の色をしていた。
「みんな沈めるんだよ」男が言った。「見たくないものは、みんな池に沈める。でも沈めたものは、いつか返ってくる」
私は後ずさった。足元の土が、じわりと湿っている。さっきまで乾いていたはずなのに。
「あなたのは、特に深く沈んでいたのよ」老婆が言った。「だから時間がかかったの。でも、ようやく浮かんできたわ」
私はファインダーを覗く勇気がなかった。しかし、覗かなくてもわかった。
池の底から伸びている「私の手」は、もう水面のすぐ下まで来ている。
まるで、私の足首を掴もうとしているかのように。
第三章 逃走
私は走った。
池から離れるように、公園の出口に向かって。サンニッパを抱えたまま、砂利を蹴って走った。
背後で水音がした。
振り返らなかった。
駅に着いて、改札を抜けて、ホームのベンチに座った。膝が震えていた。カメラを膝の上に置いて、息を整えた。
埼京線が来た。乗った。
車内は昼過ぎの空気で、サラリーマンが一人スマホを見ていた。向かいの席に女子高生が二人。何も起きていない世界がそこにあった。
池のことを頭から追い出そうとした。
できなかった。
窓の外を流れる景色を見ていると、時々、川が見えた。荒川だ。あの浮間ヶ池が生まれた川。蛇行して、切り離されて、残された水。
捨てられたものが沈む場所。
老婆の言葉が頭の中で繰り返された。
家に帰ってカメラをテーブルに置いた。コートを脱ぐのも忘れて、しばらく立っていた。
パソコンにカードを差し込んだのは、夜になってからだ。
水鳥の写真が並んでいた。コサギ、カルガモ、オオバン。今日撮ったものだ。きれいに撮れている。
スクロールした。
老婆と男の後ろ姿があった。
撮った覚えがなかった。シャッターを切ろうとして、止まったはずだった。
それでも写っていた。
二人の後ろ姿、池、水面。そして水面の下に、こちらを見上げている顔。
私はその写真を拡大した。
顔は、私の顔ではなかった。
知らない子供の顔だった。
七歳か八歳か。男の子か女の子かわからない。目を大きく開けて、こちらを見ている。口が少し開いている。何か言おうとしているような。
私はその顔を、長い時間見ていた。
知らない顔のはずだった。
なのになぜか、泣きたくなった。
泣きたくなった理由がわからなかった。知らない子供のはずなのに、胸の奥がひどく痛んだ。
写真をさらに拡大した。子供の目は、まっすぐこちらを見ている。その黒目の奥に、池の底の暗がりが揺れていた。
次の瞬間、画面がふっと暗くなった。モニターが消えたのではない。写真の中の水面が、影に覆われたのだ。
私は息を呑んだ。
影は、写真の外から差し込んでいるように見えた。まるで、誰かが私の背後から画面を覗き込んでいるかのように。
振り返った。
誰もいなかった。部屋は静かで、冷蔵庫のモーター音だけが聞こえる。
もう一度画面を見ると、影は消えていた。子供の顔だけが、変わらずこちらを見ている。
私は写真を閉じようとした。しかし、マウスが動かなかった。手が震えているのではない。カーソルが、写真の上に固定されているのだ。
まるで、写真の中から掴まれているように。
そのとき、スピーカーから小さな音がした。
水の音だった。ぽちゃん、と何かが落ちるような音。続いて、ざぶり、と水をかく音。
私はスピーカーの電源を切った。それでも音は続いた。
水音は、パソコンからではなく——玄関の方から聞こえていた。
私は立ち上がった。足元がじわりと冷たい。
見下ろすと、床に水が広がっていた。玄関から、細い水の筋が部屋の中へ伸びている。
その水の跡は、どこかで見た形だった。
——老婆の足跡だ。
第四章 白いビニール袋
私は玄関へ近づいた。水の跡は、玄関の内側から続いている。外からではない。
玄関のドアの前に、小さなものが置かれていた。
白いビニール袋だった。浮間公園のゴミ箱に貼られていたのと同じ種類の袋。
私は震える手で袋を開いた。
中には、濡れた子供用の靴が一足入っていた。小さなスニーカー。泥がついている。片方の靴紐がほどけている。
私はその靴を見た瞬間、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
思い出した。
この靴を、私は知っている。
ずっと昔、池のほとりで見失った——あの子の靴だった。
二十三年前の夏のことだ。
私は当時、十歳だった。妹の優菜は七歳。母に頼まれて二人で公園に行った。浮間公園ではない。実家の近くにある、もっと小さな公園だ。池がある公園だった。
優菜は水辺が好きだった。カモを追いかけて、ひとりで岸ぎりぎりまで近づいていった。私は少し離れたところでアリの行列を観察していた。
振り返ったとき、優菜はいなかった。
靴だけが、岸の端に残っていた。片方の靴紐がほどけたまま。
優菜の遺体は三日後に発見された。池の底で、水草に絡まっていた。
私が目を離したのは、ほんの数分だった。ほんの数分。
それ以来、私は池が苦手になった。池が苦手なのに、なぜか池に引き寄せられた。カメラを持って、水辺に行き続けた。意味がわからなかった。
今ならわかる。
私はずっと、優菜を探していたのだ。
袋の中の靴を床に置いた。濡れた靴紐が、フローリングに水滴を落とした。
どこから来たのか。どうやってここに届いたのか。
老婆の声が頭に蘇った。
「沈んだものを、必要な人に返すために」
私は靴に触れた。冷たかった。底が泥で汚れていた。二十三年間、水の中にあったとは思えないほど、形が残っている。
そして靴の中に、小さな紙切れが入っていた。
折り畳まれた、濡れた紙。
広げると、子供の字で何か書いてあった。インクが滲んでいるが、読める。
「おにいちゃん きて」
私は声を上げた。
叫び声ではなかった。もっと原始的な、動物が痛みを感じたときのような声だった。
第五章 再訪
翌朝、私は浮間公園に戻った。
来るまいと思っていた。しかし朝になると、行かなければならないという確信があった。
空は白く曇っていた。平日の朝で、ランナーが数人池の周囲を走っている。釣り人が一人、竿を出している。何も変わらない、普通の公園だ。
ゴミ箱の前を通り過ぎた。昨日の老婆はいない。
池のほとりに立った。水面は静かだ。岸に近いところにカルガモが三羽、のんびりと浮いている。
私はカメラを持ってきていなかった。
手ぶらで来た。靴だけ持ってきた。白いビニール袋に入れたまま。
「来たわね」
声は後ろからではなく、正面から来た。
池の岸に、老婆が立っていた。昨日と同じコート、同じ白髪。濡れていない。今日は乾いている。
「あの靴を返してくれたのはあなたですか」
「私じゃないわよ」老婆は言った。「あの子が届けたの」
「あの子が……」
「池の底から、ずっとあなたを呼んでいたのよ。やっとあなたが聞こえるようになったから、届けることができたの」
「なぜ今になって」
老婆は私を見た。
「あなたが初めて、本当に見たからよ。あのレンズで。三年間、ここに来ていたのに、あなたはずっと目を閉じていた。鳥は見えても、本当のものは見えていなかった」
私は黙っていた。
「あの子はね、ずっと待っていたの。あなたがちゃんと見てくれる日を」
ホームレスの男が現れた。昨日と同じ男。無精髭、くたびれたダウンジャケット。しかし今日は、その目が違って見えた。深い、静かな目だった。
「あんたの妹は幸せだよ」男が言った。「池の底は、思ってるより悪い場所じゃない。ただ、少し寂しいんだ」
「なぜあなたが知っているんですか」
「俺も同じだから」
男は池を見た。
「俺も沈んでいる。でも今は、こっちと向こうを繋ぐ役をやっている。老婆さんと一緒にな」
私は老婆を見た。老婆は微笑んだ。
「私はもうずっと昔に沈んだの。戦争の前よ。でも池の底は時間が違う。あなたの妹が来たのは、つい最近のことのように感じているわ」
「会えますか」私は聞いた。「優菜に、会えますか」
老婆は少し考えた。
「会える。でも、気をつけなさい。底に引き込まれやすい人というのがいるの。あなたはその一人よ」
「それでも会いたい」
老婆は私を見つめた。長い間、見つめた。
「ならレンズで見なさい。直接目で見ると、引き込まれる。レンズ越しなら、向こうとこちらの境界が保てる」
第六章 水面の下
私は翌日、カメラを持って戻った。
老婆と男はいなかった。池は普通の池だった。
それでもファインダーを覗いた。
水面の下に、最初は何もなかった。カルガモの足がぱたぱたと動いているのが見えた。水草が揺れている。底は見えない。
私はじっと待った。
五分、十分。
光が変わった。曇り空の下、池の水面に何か差してきた。光ではない。それとは逆のもの——暗さが、ある一点に集まってきた。
ファインダーの中に、人影が現れた。
小さかった。子供だった。
水の中に立っている。底があるのかないのか、わからない。ただそこに立っている。白いワンピースを着ていた。優菜がよく着ていたような服だ。
顔が見えない。うつむいている。
「優菜」
私は声に出した。
水の中の子供がゆっくりと顔を上げた。
優菜だった。
七歳のまま。二十三年間、七歳のまま。でも目が違った。子供の目ではなかった。長い時間を生きてきた人の目だった。
「お兄ちゃん」
声は聞こえなかった。口が動いただけだ。でも読めた。
「お兄ちゃん、来てくれた」
私はファインダーを持つ手が震えた。涙でファインダーが曇った。カメラを下げると、池はただの池だった。
「ごめん」
誰も聞いていない。それでも言わずにいられなかった。
「ごめん、優菜。目を離した。守れなかった。ずっとごめんって思ってた。でも言えなかった。言う相手がいなかった」
池は静かだった。
カルガモが一羽、私の足元に近づいてきた。波紋が広がった。
ファインダーを覗いた。
優菜がまだいた。今度は笑っていた。
口が動いた。
「お兄ちゃんのせいじゃないよ」
「わたしが勝手に行ったんだもん」
「怒ってないよ」
私は声を上げて泣いた。公園の中で、大人が声を上げて泣いた。通りかかったランナーが驚いた顔で見たが、止まらなかった。
二十三年分の言葉が、声になれないまま胸の中で溢れた。
「会いたかった」
それだけが言葉になった。
池の中の優菜が、手を振った。小さく、ゆっくりと。さようならではなく、またねという感じで。
第七章 深みへ
その日から、私は毎日浮間公園に来るようになった。
老婆の言った通りにした。レンズ越しにだけ見た。直接目では見ない。その境界を守り続けた。
優菜は毎回現れるわけではなかった。三日に一度、あるいは一週間ぶりに。でも現れると、少しずつ会話ができるようになった。口の動きを読む。こちらは声に出す。そういうやりとりが続いた。
優菜は池の底のことを教えてくれた。
「暗くないよ。光がある。どこから来るかわからないけど、ちゃんと明るい」
「寒くないよ。水の中なのに、温かい」
「ひとりじゃないよ。いろんな人がいる。おじいさんも、おばあさんも、子供も」
「時間が違うの。一日がすごく長い気がするときと、気づいたら何年も経ってるときがある」
私は優菜と話すたびに、少しずつ楽になっていった。二十三年間、胸の底に沈めていた罪悪感が、少しずつ溶けていくようだった。
異変に気づいたのは、三週間ほど経った頃だった。
ファインダーを覗く時間が、少しずつ長くなっていた。
最初は五分。次に十分。やがて一時間以上、ファインダーを覗き続けていた。
池のほとりに座り込み、カメラを目に当てたまま、時間を忘れた。
優菜と話しているときだけ、胸の痛みが消えた。
他のことが、どうでもよくなってきた。仕事の依頼に返信するのを忘れた。食事を抜いた。睡眠が浅くなった。
池に来るのをやめられなかった。
ある日、老婆が隣に立った。
「あなた、引き込まれているわよ」
「わかっています」
「わかっていてやめられないのは、もう手遅れに近いわよ」
老婆は私のカメラに手を触れた。今度はレンズではなく、カメラ本体に。
「あの子はね、あなたに来てほしいわけじゃないの」
「でも優菜は」
「あの子が言っていることと、あなたが聞きたいことは、違うわよ」
老婆は私の手からそっとカメラを取り上げた。
「素手で見なさい。今日だけ。ちゃんと自分の目で見て、そして決めなさい」
私は老婆を見た。老婆は静かに首を振った。
「怖がらなくていい。ただ、よく見なさい」
第八章 素の目で
私は素手で池を見た。
最初は普通の池だった。曇り空を映す、くすんだ水面。
しかし数十秒後、水面が変わり始めた。
深みが見えてきた。底が見えてきた。
池の底は、思っていたものと全く違った。
暗くなかった。仄かに光っていた。光源はわからない。しかし確かに光がある。水草が揺れている。そこには世界があった。
人々がいた。老婆の言った通り。老人、子供、男、女。それぞれに生活しているような、穏やかな空気があった。
優菜が見えた。
優菜は他の子供たちと遊んでいた。笑っていた。楽しそうだった。
私に気づいた。
走ってきた。水の中を走ってくる。ガラス一枚隔てたような水面の向こうに、優菜の顔が迫ってきた。
「お兄ちゃん!」
今度は声が聞こえた。くぐもった、水の中を伝わってくるような声だったが、確かに聞こえた。
「会いたかった」
「僕も」
「でも来ちゃだめだよ」
優菜の顔が、真剣になった。
「お兄ちゃんの場所はこっちじゃない。こっちはね、もう終わった人たちの場所なの」
「終わった」
「そう。でもお兄ちゃんはまだ終わってない。まだいっぱい撮りたい写真があるでしょ」
私は答えられなかった。
「お兄ちゃんが罪悪感を持ってることは、わかってた。ずっとわかってた。でもそれはお兄ちゃんのせいじゃないって、ずっと伝えたかった。それだけが伝えたかったの」
優菜は微笑んだ。七歳の顔で、でも長い時間を経た目で。
「もう来なくていいよ。ちゃんと生きて。そしたら、いつかまた会える。ちゃんと終わったとき」
水面が元に戻った。
池はただの池になった。
私は岸に座り込んで、長い間そこにいた。
老婆が隣に来て、黙って座っていた。
「ありがとう」私は言った。
「お礼を言うのはあの子よ」老婆は言った。「あなたが来てくれるのを、ずっと待っていたんだから」
「また来てもいいですか」
「水鳥を撮りにくるのは構わないわよ。ただ」老婆は少し間を置いた。「ファインダーで覗き込むのはもう終わりにしなさい。あなたにはちゃんと渡したものを渡した。それで十分よ」
第九章 その後
それから半年が経った。
私は相変わらず浮間公園に来る。週に一、二度。カメラを持って、水鳥を撮る。
ただ、ファインダーで水面の下を覗くことはしない。
老婆は時々ゴミ箱の前に現れる。以前と同じように自転車を止め、ゴミを分別して投入する。私が会釈すると、老婆も会釈を返す。それだけだ。
ホームレスの男は相変わらず木陰にいる。ゴミ箱を探るそぶりをしながら、何かを受け取ったり渡したりしている。誰かの沈んだものを、必要な誰かに届けている。
私はその仕事の意味を、今は理解している。
写真の仕事は続けている。
野鳥写真がいくつかの雑誌に掲載された。先月は写真展を開いた。小さなギャラリーでの個展だったが、それなりに人が来てくれた。
浮間公園で撮った写真も展示した。
コサギの白、カルガモの茶、オオバンの黒。水面に映る曇り空。岸辺に並ぶ釣り人の背中。
一枚だけ、不思議な写真があった。
池の水面を撮ったものなのだが、水面の下に、小さな手のようなものが写り込んでいた。光の加減か、水草か、そういうものだろうと思っていた。
でも見る人によっては、子供の手に見えるらしい。
その写真の前で、ある老人が長い間立ち止まっていた。七十代か八十代の男性で、杖をついていた。
老人は写真を見ながら、小さく言った。
「おい」
誰に言ったのかわからなかった。しかし老人の目は、写真の中の小さな手に向けられていた。
「また来たぞ」
老人は写真の前に数分立ち、それから何も言わずにギャラリーを出て行った。
私は老人の背中を見送りながら、思った。
あの老人もきっと、誰かを沈めている。
浮間ヶ池に、あるいはどこか別の池に。
そしてその誰かも、いつかちゃんと返してもらえるだろう。
池は今日も静かだ。
水面は曇り空を映している。底は見えない。
でも私は知っている。
底には光がある。
そこには世界がある。
荒川が蛇行して残した三日月湖の名残の底に、長い時間をかけて沈んだものたちが、穏やかに、静かに、時々誰かを待ちながら、暮らしている。
エピローグ
写真展が終わった翌週、私は浮間公園に来た。
いつものようにカメラを持って、いつものように池のほとりに立った。
カルガモが四羽。コサギが一羽。岸近くに、見慣れない水鳥が一羽いた。小さくて、茶色で、じっとしている。
ファインダーを覗いた。
水鳥を追った。
そしてふと、ファインダーが水面を向いた。
水の中に、光があった。
見ようとしていなかった。でも見えた。
優菜がいた。こちらに気づいていない。誰かと話している。楽しそうだ。
私はシャッターを切らなかった。
ただ、見ていた。
一分ほど見ていると、優菜がふと顔を上げた。
こちらに気づいた。
少し驚いた顔をした。それから笑った。
手を振った。
私も手を振った。カメラを持ったまま。
優菜はすぐに視線を外して、また誰かと話し始めた。
それだけだった。
それだけで十分だった。
私はカメラを下げた。
池を離れようとして、後ろから声がかかった。
「また来たのね」
老婆だった。今日は濡れていない。乾いたコートで、自転車を押している。
「ええ」
「あの子、最近楽しそうよ。友達も増えたみたい」
「そうですか」
「あなたが来てから、何か変わったのよ。底の方が、少し明るくなった気がする」
老婆は自転車のかごを見た。今日もゴミが入っている。
「人が誰かを思う気持ちはね、ちゃんと届くの。池の底にも、どんなに深くても。あなたの二十三年間の気持ちも、ちゃんと届いていたわよ」
私は何も言えなかった。
老婆はゴミ箱の前へ自転車を進めた。
分別しながら、背中で言った。
「また来なさい。水鳥はいつでも待っているわよ」
私はもう一度、池を見た。
水面は静かだった。
底は見えない。
でも今は、それが怖くない。
底に何があるか、もう知っているから。
*この作品はフィクションです。実在の地名が登場しますが、登場する人物・事件はすべて架空のものです。
