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奇妙な味の小説「雨を覚えている」

雨は、夕刻から止む気配がなかった。

篠原悠真は閉店後の古書店を出て、濡れた路地を歩いていた。アーケードの切れ目で足を止めると、傘立てに一本だけ残された黒い傘が目に入った。骨組みは古く、布地も色褪せている。誰かの忘れ物だろう。

手に取ると、妙になじむ重さだった。開いてもいないのに、傘の縁からはぽたぽたと水が垂れている。篠原は傘の柄を握りしめた。骨の根元に、小さく「13」と刻まれているのが見えた。

持ち主を探すべきだと思いながらも、篠原はそのまま傘を差して帰路についた。まるで誰かの持ち物ではなく、「誰かそのもの」であるような気がした。

玄関に傘を立てかけた夜、篠原は不思議な夢を見た。

雨の中で、彼は路地に立っていた。傘を差して、誰かを待っている。横から女性の影が近づいてくる。顔は見えない。ただ、濡れた髪と白い手だけが印象に残る。

「来てくれたのね」

女性の声が、雨音に溶けて消えた。

翌朝、篠原は床に小さな水たまりができているのに気づいた。傘の先から、まだしとしとと水が落ちている。昨夜はしっかり水を切ったはずなのに。傘立ての周囲には、泥のついた足跡のようなものがあった。

「篠原さん、昨日の夜も、お店にいましたよね?」

出勤すると、同僚の女性が不思議そうに尋ねてきた。

「え?」

「閉店のあとに。窓の外から見えたんです。……傘を差して、店内を歩いてるの」

篠原は何も答えられなかった。その時刻、彼は家で眠っていたはずだ。

それから数日、同じ夢が続いた。雨、路地、女性の影。夢の中では、篠原は次第に「傘を持つ手」が自分のものではなくなっていく感覚を覚えた。細い指、白い爪、濡れた手首。まるで誰かと入れ替わっているかのように。

傘を開くたびに、内側にほんのり湿った手形が増えていった。ある朝、布地に「ありがとう」という文字が浮かんでいるのを見た。それは指で書かれたように見えたが、すぐに水のように滲んで消えた。

怖くなった篠原は、ある雨の夜、決心して傘を川に投げ捨てた。橋の上から夢中で放り投げると、水面に揺れる傘が、まるで生き物のようにゆっくりと回転して沈んでいった。

ようやく胸の重石が取れた気がした。

しかし翌朝、古書店に出勤すると、傘立ての中に例の黒い傘が立っていた。

柄の刻印は「13」ではなく、「14」に変わっている。

篠原の手が震えた。恐る恐る傘を手に取ると、手のひらに冷たい湿り気が広がった。その瞬間、頭の奥で声がした。

「あなたも、雨の中に来てくれたのね」

それは夢で聞いた、あの女性の声だった。

篠原は静かに微笑んだ。理由はわからない。ただ、もう恐怖は感じなかった。代わりに、深い安堵のようなものが胸に満ちていった。

その日、篠原は店に戻らなかった。

代わりに、晴れ渡った午後の街角で、黒い傘をさして歩く男の姿が目撃されたという。傘の内側から、しとしとと雨の音が聞こえていたと、ある通行人は証言した。

そして数日後、古書店の傘立てには、新しい傘が一本増えていた。

柄には「15」と刻まれている。

雨は、今日も降り続けている。