奇妙な味の小説「人形師」
浅草六区。興行小屋が立ち並ぶ裏手に、客の入らない小さな人形劇場があった。
木製の看板にはかろうじて「玉川操り座」の文字が残っているが、誰も読まない。
人形師・玉川怜治は、そこで毎晩ひっそりと公演を続けていた。
観客はほとんど来ない。だが構わなかった。
怜治は人形さえあればよかった。
彼の相棒は、江戸期から伝わる古い市松人形で、名を「お菊」といった。
檜の香りを残す白い肌、黒い瞳、分厚い髪。
百年ほど昔、誰かのために作られたはずだが、来歴はない。
怜治は毎晩、舞台の袖で人形に語りかけた。
「今日も頼むよ、お菊。お前しかいないんだ」
返事はない。
だが怜治には、黒い瞳がかすかに光るのが分かった。
公演が始まると、奇妙なことが起きる。
怜治の指は、人形に触れた瞬間、他人のもののように滑らかに動き出す。
台詞も、声も、呼吸も、お菊が決めているようだった。
「お……お前、勝手に……」
怜治が思わず呟くと、木の指がかすかに震え、
背後から囁くような声がした。
——ちがうよ。わたしが使ってあげているの。
怜治は舞台の上で凍り付いた。
だが観客はいない。誰も見ていない。
声が幻かどうか、確かめる相手もいない。
その夜から怜治は急速に衰えた。
眠れず、食べられず、指先は痺れ、関節は固まり、
まるで人形のように身体が木質化していく。
「お前……何を……」
——動かないで。わたしがやるから。
怜治は声を失った。
舞台では、やせ細った怜治の腕が糸のようにだらりと垂れ、
代わりにお菊が自ら立ち上がり、舞台中央へ歩き出した。
その瞬間、怜治の胸が激しく痛み、糸が切れたように倒れた。
劇場は静寂に包まれた。
誰も彼の死に気づかない。
浅草の夜は、ただいつも通りのざわめきを続けていた。
翌朝、裏口から差し込む光の中で、
市松人形の「お菊」は倒れた怜治の傍らに立っていた。
そして、わざと聞こえるように、小さな声で呟いた。
「……使えない人間だな」
人形はそのまま舞台の奥へ歩き、暗闇に溶けていった。
今夜もまた、玉川操り座では公演がある。
幕を上げるのは、もう人形だけだ。
