奇妙な味の小説「夜を渡る列車」
終電の時刻を三分過ぎていた。駅の電光掲示板は既に消えており、ホームには私と蛍光灯の低い羽音しか残っていなかった。スマートフォンの画面に映る時刻は0時26分。タクシーを呼ぶべきか、それとも近くのネットカフェを探すべきか、疲れた頭で考えあぐねていたその時だった。
ホームの奥から、微かな振動が伝わってきた。
やがて、聞き慣れた電車の接近音。しかしその音は妙に柔らかく、まるで水の中を進んでくるような、くぐもった響きだった。暗闇の向こうから滑り込んできた列車は、見慣れた通勤電車と同じ形をしていたが、車体には「最終特別列車」という見慣れない表示が光っていた。
扉が開く。乗るべきではないという直感があったが、もう終電が出た後にこんな列車が来るはずがない。夢を見ているのかもしれない。そう思いながら、私は吸い込まれるように車内へ足を踏み入れた。
車内は静まり返っていた。座席にはまばらに乗客が座っているが、誰一人として動かない。スマートフォンを見る者も、居眠りをする者もいない。全員が窓の外をじっと見つめている。その横顔は蝋人形のように無表情で、まばたきすらしていないようだった。
扉が閉まり、列車は音もなく動き出した。
私は空いている座席に腰を下ろし、周囲を見回した。車内アナウンスはない。電光掲示板も消えたままだ。次の駅が何なのか、どこへ向かっているのか、一切の情報がなかった。
窓の外は完全な闇だった。トンネルの壁も、駅の明かりも、街の灯りも何も見えない。まるで列車が虚無の中を走っているかのようだった。しかし、他の乗客たちはその何もない闇を、食い入るように見つめ続けている。
時計を見ると、針は0時26分で止まっていた。いや、止まっているのではない。ゆっくりと、信じられないほどゆっくりと、秒針が逆回りしているのだ。
眠気が襲ってきた。いや、眠気という生易しいものではなかった。意識が沈んでいく感覚。まるで深い水の底へ引きずり込まれるような、抗いがたい力だった。目を閉じてはいけない。そう思いながらも、瞼は鉛のように重くなっていく。
どれくらい時間が経ったのか分からない。ふと、誰かの視線を感じて目を開けた。向かいの座席に座っていた老婆が、初めて私の方を向いていた。その目は深く窪み、まるで穴のように暗かった。老婆の唇が微かに動いた。
「見てはいけない」
その声は聞こえたのか、それとも唇の動きから読み取っただけなのか、自分でも分からなかった。しかし、その警告が何を意味するのか、考える間もなく、私の視線は自然と窓へと向かっていた。
そして、見てしまった。
窓の外に映っていたのは、景色ではなかった。
それは、私の部屋だった。六畳一間の狭いアパートの一室。脱ぎ散らかされたシャツ、読みかけの本が積まれた机、剥がれかけた壁紙。間違いなく、私が今朝出てきたばかりの、あの部屋だった。
しかし、何かがおかしかった。
部屋の中に、私がいた。
ベッドに横たわり、じっと天井を見つめている私。しかし、その顔には表情がなかった。まるで抜け殻のように、空虚な目で何かを見つめている。いや、何も見ていないのかもしれない。
その部屋の私の枕元に、黒いシミのようなものが広がっていた。それは徐々に大きくなり、やがて人の形を成し始めた。影でできた人間が、ゆっくりとベッドの上の私に覆いかぶさっていく。
思わず窓を叩いた。しかし、手は窓ガラスを通り抜けて、そのまま虚空へと吸い込まれそうになった。慌てて手を引っ込める。窓ガラスは確かにそこにあるのに、同時にないような、奇妙な感触だった。
ふと気づくと、他の乗客たちも、それぞれの窓に様々な光景を見ていた。ある者の窓には病院の一室が映っており、ベッドに誰かが横たわっている。またある者の窓には、海が映っていた。誰もいない夜の海岸。波打ち際に、何か黒いものが打ち上げられている。
「次は、あなたの降りる駅です」
いつの間にか、アナウンスが流れていた。しかし、駅名は告げられない。ただ、「あなたの降りる駅」とだけ。
列車が減速し始めた。闇の中に、ぼんやりとした光が見え始める。それは駅の明かりではなかった。もっと柔らかく、温かみのない、青白い光だった。
列車が止まり、扉が開いた。
外に広がっていたのは、ホームではなかった。見覚えのある廊下だった。私のアパートの廊下。三階の、私の部屋の前。
降りるべきか、降りないべきか。しかし、選択の余地はなかった。座席が、まるで意思を持っているかのように私を押し出した。気づけば、私は廊下に立っていた。
背後で扉が閉まる音がした。振り返ると、そこには列車ではなく、ただ暗い廊下が続いているだけだった。列車は、最初からなかったかのように消えていた。
目の前には、私の部屋の扉がある。ドアノブに手をかけると、鍵は開いていた。ゆっくりと扉を開ける。
部屋の中に、私がいた。
ベッドに横たわり、じっと天井を見つめている、もう一人の私。枕元の黒いシミは、もう人の形にはなっていなかった。それは既に、ベッドの上の私と一体になっていた。
その私が、ゆっくりとこちらを向いた。
「おかえり」
窓の外を見ると、そこには列車が走っていた。車内には、空いた座席が一つ。さっきまで私が座っていた席だ。その窓には、今この瞬間の、この部屋が映っている。扉の前に立つ私が、ベッドに横たわる私が、そして、その二つの私を見つめる、窓の中の無数の目が。
時計を見ると、針は0時26分を指していた。
そして今も、ゆっくりと、逆回りを続けている。
私は、まだ終電に間に合っていないのかもしれない。あるいは、もう永遠に間に合わないのかもしれない。
扉を閉めようとした時、廊下の奥から、列車の接近音が聞こえてきた。
