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奇妙な味の小説「平行世界と無限の愛」

小さな違和感

 最初に気づいたのは、エレベーターのボタンの位置だった。
 美波は毎朝、会社のビルに入るとすぐ右手にあるエレベーターに乗る。ボタンパネルの上段に「開」「閉」のボタンがセットで並び、その下に行き先階のボタンが続く。三年間、そう身体が憶えていた。なのにその朝、指が空を切った。「開」「閉」のセットが、行き先階ボタンの下に移っていた。
 一瞬、頭が止まった。
 でも次の瞬間にはもう、深く考えることをやめていた。自分の勘違いかな、と思っただけだった。靴に紛れ込んだ小さな石粒のように、違和感はそこにあったが、歩くのを止めるほどではなかった。
 美波(みは)——中野美波、二十八歳、都内の中堅広告代理店勤務——は、そういう朝をやり過ごした。
   *
 二日目は、窓だった。
 デスクから見える向かいのマンション。築十年は経つだろう、くすんだベージュの外壁が、美波の風景の一部だった。それが、薄いグレーになっていた。
 塗り替えた? 昨日まで気づかなかった?
 同僚の田中さんに聞いてみた。「あのマンション、色変わりましたよね」。田中さんは不思議そうな顔をした。「え、あれってずっとグレーじゃないですか?」
 そうだっけ。
 美波は笑って「そうでしたっけ、勘違いかな」と言った。石粒は、少し大きくなった。
   *
 三日目は、人だった。
 部長の山本が、砂糖を入れずにコーヒーを飲んでいた。
 給湯室のコーヒーメーカーで淹れて、マグカップに注ぐ、それが部長の毎朝の習慣だった。そして必ず、スティックシュガーを二本。棚の籠から取り出して、ビリッと破いてさらさらと注ぎ、スプーンでかき混ぜる。美波はその一連の仕草を、三年間ずっと見てきた。
 なのに今朝、部長はマグカップを手に戻ってきたが、砂糖を入れた様子がなかった。一口飲んで、平然としていた。
 些細なことだ。人の好みは変わる。でも美波の中で何かが、静かに、しかし確実に揺れた。
   *
 四日目、美波はリストを作り始めた。
 手帳の最後のページに、気づいたことを書き留める。エレベーターのボタン。マンションの外壁。部長のコーヒー。自分のデスクの引き出し——いつも左上に入れていたリップが、右上にあった。行きつけのコンビニの棚の配置が少し違う。電車の乗り換え案内の音声が、聞き慣れたものと微妙に違う気がした。
 一つひとつは、説明のつくことだった。でも全部を並べると、何かが浮かび上がってくるような気がした。
 美波はリストを眺めながら考えた。これは、私がおかしいのか。それとも、世界がおかしいのか。
   *
 決定的だったのは、五日目の昼だった。
 昼食から戻ると、総務の加藤さんが「美波ちゃん、直人くんと今日もランチ? 仲いいねえ」と声をかけてきた。
 美波は、数秒、動けなかった。
 直人——岸本直人、同い年の営業二課。美波が、この一年ずっと、片思いしている人。
 今日のランチは一人だった。というか、直人と二人でランチに行ったことなど、一度もない。
「えっ、あの、今日は一人でしたけど」
「あら、喧嘩でもした? いつも一緒だから珍しいと思って」
 加藤さんは笑いながら自分のデスクに戻った。美波は、手帳を開いた。リストの最後に、震える文字で書いた。
 ——直人と、付き合っている?

確かめた夜

 確かめるのに、さらに二日かかった。
 さりげなく、他の同僚たちに探りを入れた。「岸本くんって最近どう?」「美波ちゃんが一番わかるんじゃない、付き合ってるんだから」。「岸本くんのタイプってどんな人だろう」「自分で聞けばいいじゃん、彼氏なんだから」。
 全員が、同じことを言った。
 美波と直人は、この世界では、付き合っていた。
   *
 木曜日の夜、美波は直人を飲みに誘った。二人きりで、会社の近くの小さな居酒屋。直人は「珍しいね、美波から誘うの」と言いながら、嬉しそうに来てくれた。その笑顔を見て、美波の胸が痛くなった。
 ビールを一杯飲み終えたところで、美波は話し始めた。
「ちょっと変なこと言うけど、聞いてほしいんだ」
「変なこと?」
「信じてもらえないかもしれないけど」
 直人はグラスを置いて、美波の目を見た。「言ってみて」
 美波は、全部話した。エレベーターのボタンから始まって、手帳のリスト、加藤さんの言葉、同僚たちの反応。そして、自分の中にある確信——自分は少し前まで、別の世界にいた。直人のことが好きだったが、付き合ってはいなかった世界に。
 話しながら、自分でも滑稽だと思った。こんな話、信じてもらえるわけがない。
 でも直人は、笑わなかった。
「それ、いつ頃から?」
「先週の月曜日の朝から」
 直人はしばらく考え込んだ。美波は待った。
「実は」と直人は言った。「俺も、先週の月曜から、なんか美波が違う気がしてた」
 美波は息を飲んだ。
「うまく言えないんだけど。同じ美波なのに、なんか遠くにいるみたいな感じ。近くにいるのに」
 二人は、しばらく黙った。居酒屋の喧騒が、遠くなった。
   *
「元に戻りたい?」と直人は聞いた。
 美波はすぐに答えられなかった。
 元の世界。直人がいて、でも美波は彼に届いていない世界。確かにそこには、美波が十年飼っている猫のモカがいた。大学時代からの親友の沙希がいた。自分が新人の頃から築きあげたクライアントとの関係があった。
 でも、今ここにも、直人がいる。しかも、美波のそばにいる。
「わからない」と美波は正直に言った。「戻る方法もわからないし、そもそも戻れるかどうかもわからない。でも……こっちにいたい気持ちも、ある」
 直人は少し俯いた。「俺は」と言ってから、また黙った。
「俺は、どっちでもいい、ってわけじゃないけど」
「どっち、って?」
「元の世界の美波でも、この世界の美波でも、美波は美波だと思う。……でも」
 直人はグラスを両手で包んだ。
「俺が好きになったのは、どっちの美波だろうって、今、考えてる」
 その言葉が、美波の胸に静かに落ちた。
 直人は続けた。「この世界で俺が付き合ってきた美波は、俺のことをどう思ってたんだろう。元の世界の美波——つまり今の君は——俺のことが好きだったって言うけど、それはこの世界の俺のことが好きなのか、元の世界の俺のことが好きなのか。俺たちは今、どの組み合わせで話してるんだろうって」
 美波は少し笑った。「難しいこと言うね」
「難しいよ」直人も笑った。「でも難しいから、考える価値がある気がして」

選択、そしてそれから

 それから二週間、二人は一緒に考えた。
 直人はオカルト系のことには詳しくなかったが、美波の話を馬鹿にせず、真剣に向き合った。「位相のズレ」「並行世界の干渉」——ネットで調べたり、SF小説を読んだりした。美波は毎晩、自分が経験したことを細かくノートに書き留めた。
 方法は、見つからなかった。
 でも代わりに、二人の間に何かが積み重なっていった。
   *
 ある夜、美波は元の世界のモカのことを話した。黒と白のブチ模様で、臆病なくせに美波の膝から離れない猫のことを。直人は黙って聞いて、「そっかあ」と言った。その声が、妙に優しかった。
 別の夜、美波は沙希に電話した。この世界の沙希は、元の世界の沙希と声が同じで、笑い方が同じで、少しだけ話し方のテンポが違った。でも一時間話したら、ほとんど同じだと感じた。
 世界は違う。でも人は、そんなに違わない。
 美波はそう思い始めた。
   *
 三週間目のある朝、美波は目を覚ましたとき、奇妙な感覚に包まれた。
 何かが、また動いた気がした。
 慌てて確かめた。エレベーターのボタン。マンションの外壁。部長のコーヒー。
 全部、元に戻っていた。
 美波は会社の廊下に立ち尽くした。心臓が速く打った。元の世界に戻った。では、直人は——
 「美波」
 振り向くと、直人がいた。
 美波は息を止めた。この世界の直人は、美波と付き合っていない。美波のことを、ただの同僚だと思っている。あの二週間のことを、何も知らない。
「おはよう。どうした、顔色悪いけど」
「……おはよう」
 直人は首を傾げた。「なんか、久しぶりな感じがする。変だよな、昨日も会ってたのに」
 美波は、目の奥が熱くなるのを感じた。
「変じゃないよ」と美波は言った。「私も、そんな感じがする」
 直人はまた少し首を傾げて、でもそれ以上は聞かずに「じゃあ仕事しよ」と言った。いつもの直人だった。
  *
 その日の昼休み、美波は一人でランチに行き、窓際の席でサンドイッチを食べながら手帳を開いた。
 リストの最後に書く。
 ——戻ってきた。
 そして、少し考えてから、続けて書いた。
 ——でも何かを、持って帰った気がする。
 うまく言葉にできない何かを。直人が「難しいから考える価値がある」と言ったこと。自分が怖くて言えなかった気持ちを、別の世界では言えていたこと。世界が少しくらい違っても、人はそんなに変わらないこと。
 美波はサンドイッチを一口食べて、空を見た。
 今夜、直人を飲みに誘おう。
 今度は、この世界で。
   *
 居酒屋で、美波はビールを一口飲んでから言った。「ちょっと変なこと言うけど、聞いてほしいんだ」
 直人はグラスを置いて、美波の目を見た。「言ってみて」
 その言葉が、どこかで聞いたことのあるもののように感じた。美波は一瞬、胸が温かくなった。
 理由はわからない。でも、こうなる気がしていた。
 何度でも、こうなる気がしていた。

変わらない日常

 後日、美波はそのことを誰かに話すことはなかった。証明する方法もなかったし、信じてもらえるとも思わなかった。
 ただ、手帳の最後のページのリストは、ずっと残しておいた。
 どの世界の自分も、同じものを怖がって、同じものを好きになる。
 それが美波には、なぜか、救いのように思えた。
 モカは今日も美波の膝の上にいて、窓の外の、ベージュのマンションを眺めている。