奇妙な味の小説「異邦人の朝」
宮本誠一は、毎朝七時に目を覚ます。
カーテンの隙間から差し込む光の色を確かめ、スマートフォンのニュースアプリを開き、コメント欄に書き込む。それが彼の朝の儀式だった。
「また外国人犯罪か。この国はどうなってんだ」
「出ていけ。ここはお前らの国じゃない」
「日本人の税金で生活しやがって」
指が滑らかに動く。長年の習慣というのは恐ろしいもので、もはや考えなくても言葉が出てきた。憎しみというより、もはや体操に近かった。朝の柔軟体操。憎悪のラジオ体操。
誠一は自分が正しいことをしていると信じていた。少なくとも、そう感じることに慣れていた。
その夜、誠一は酒を飲んだ。
駅前の居酒屋で一人、生ビールを三杯、日本酒を二合。カウンター越しに見えるテレビでは、外国人労働者の特集をやっていた。誠一はチャンネルを変えろと言いたかったが、リモコンは遠かった。
家に帰り、風呂にも入らず、服のまま布団に倒れ込んだ。
眠りは、すぐに来た。
目が覚めたとき、何かがおかしかった。
光がおかしい。
天井がおかしい。
においがおかしい。
誠一はゆっくりと起き上がり、部屋を見回した。自分の部屋ではない。いや、形は同じだ。六畳一間、窓が一つ、押し入れが一つ。しかし壁の色が、家具の配置が、微妙にずれている。夢の中で自分の家を思い出そうとしたときのような、九十パーセントの正確さ。
鏡があった。
誠一は鏡を見た。
鏡の中に、知らない男がいた。
いや、正確に言えば、知らない男の顔をした、誠一がいた。肌の色が、違う。目の形が、違う。髪の質感が、違う。しかし動きはまったく同じで、誠一が右手を上げると鏡の男も右手を上げ、誠一が口を開けると鏡の男も口を開けた。
誠一は声を出した。
出てきた言葉は、日本語だった。しかし口の形が、音の出どころが、どこかずれていた。訛りがあった。自分の声に、訛りがあった。
外に出ると、街は動いていた。
人が歩き、車が走り、看板が光っていた。しかしその全員が——そう、一人の例外もなく——日本人だった。黒い髪、細い目、均一な顔立ち。誠一はその群れの中を歩いた。そして気づいた。
人々の視線が、自分に向いている。
最初はちらりとした一瞥だった。電車の中で見知らぬ人を見るような、反射的な視線。しかしそれが、続いた。振り返った。固まった。
誠一の隣に立っていた中年の男が、小声で何かを言った。
「また来た」
誠一には聞こえた。確かに聞こえた。
コンビニに入ろうとすると、店員が入口に立ちふさがった。笑顔だった。しかし目が笑っていなかった。
「申し訳ございませんが」と店員は言った。「当店はご遠慮いただいております」
「何を」と誠一は言った。
店員は答えなかった。ただ立っていた。動かなかった。
駅のベンチに座ると、隣にいた老人が立ち上がった。
何も言わずに、ただ立ち上がって、五メートル離れたベンチに移動した。
誠一はその背中を見た。
どこかで見た動作だった。自分がどこかでやった動作だった。電車の中で、隣に外国人が座ってきたときに、自分がやった動作だった。
スマートフォンを取り出した。アプリを開こうとした。しかしアプリが、ない。コメント欄が、ない。書き込もうとしていた言葉が、どこにも入らない。
代わりに、通知が来た。
見知らぬアカウントからのメッセージだった。
「出ていけ。ここはお前の国じゃない」
夜になった。
誠一は公園のベンチで震えていた。財布の中に金はある。しかしどこに入っても、断られた。ホテルに電話すると、今日は満室だと言われた。どこも満室だった。日本中が、今日に限って、満室だった。
通りすがりの若者たちが、立ち止まった。
五人いた。みな二十代に見えた。誠一と同じ年齢のころの、誠一に似た顔をしていた。
「おい」と一人が言った。「日本語わかるか?」
「わかる」と誠一は言った。「俺は——」
「わかるんだな」と別の一人が言った。「じゃあ言ってやる。ここはお前らが来る場所じゃない」
誠一は口を開いた。
俺は日本人だ、と言おうとした。
しかし言葉が出なかった。
出なかった、というより、出た言葉が信じてもらえないとわかっていた。自分でも知っていた。こういうとき、どんな言葉も届かないことを。なぜなら自分が、かつてそうだったから。「日本語が上手ですね」と言いながら、心の中では、でも日本人じゃないよな、と思っていたから。
若者たちが近づいてきた。
誠一は走った。
走りながら泣いた。
泣きながら、自分がなぜ泣いているのかわからなかった。恐怖なのか、屈辱なのか、あるいはもっと別の、言葉にならない何かなのか。
路地に逃げ込み、ゴミ箱の影に隠れた。追ってくる足音が、遠ざかった。
静寂の中で、誠一は膝を抱えた。
冷たいコンクリートの感触が、妙にはっきりしていた。
どのくらいそうしていたかわからない。
気づくと、朝だった。
光が、違う。
におが、違う。
天井が、自分のものだった。
誠一は布団の上で、服を着たまま、仰向けになっていた。スマートフォンが枕元にあった。時刻は七時十四分。コメント欄のアプリが、開いたままになっていた。昨夜の自分が書きかけた言葉が、下書きに残っていた。
「また外国人犯罪か。この——」
誠一はその文字を、長い時間、見つめた。
夢だ、と思った。
ただの夢だ。汗をかいている。心臓が早い。しかし夢だ。夢の中のことは、現実ではない。
ゆっくりと息を吐いた。
体の力が抜けていった。
よかった、と思いかけた。
そのときだった。
布団が、動いた。
隣から、寝返りを打つ気配があった。
誠一は、ゆっくりと、首を動かした。
隣に、女がいた。
自分のものではない、黒ではなく茶色がかった髪をした、見知らぬ、しかし穏やかな顔をした、女がいた。
女はゆっくりと目を開けた。
そして、少し訛りのある、しかし柔らかい日本語で、言った。
「あなた、起きたの」
誠一は答えられなかった。
女は小さく微笑み、また目を閉じた。
部屋の外で、街が動き始める音がした。
誠一はスマートフォンを見た。下書きの言葉を見た。そして画面を、伏せた。
カーテンの隙間から、光が入ってきた。
どこまでが夢で、どこからが現実なのか。
誠一にはもう、確かめる方法がわからなかった。そしてもしかしたら、その問いよりも大切な問いが、別にあるのかもしれないと、朝の光の中で、ぼんやりと思った。
指は、動かなかった。
