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奇妙な味の小説「月の階段」

ブルームの海辺で真珠採りをしていた祖父は、満月の夜に消えた。干潟に残された足跡は、波打ち際から沖へ向かってまっすぐ伸び、やがて何もない空気の中へと続いていた。

三十年後、私は同じ海岸に立っていた。

「見えますか」

隣に立つ老婆が囁いた。彼女の目は白く濁っていたが、月光を映す海面を正確に指差していた。

満月が昇り、その光が干潟の水たまりに反射して、銀色の階段が現れた。それは確かにそこにあった。光の筋ではなく、踏みしめられる段差を持った、確固たる階段として。

「昇る者は戻れません」老婆は続けた。「でも降りてくる者もいる。真珠色の眼をした、誰かの記憶だけを持って」

私の足は勝手に動いていた。最初の一段に足を乗せると、海水は冷たく固く、大理石のような感触だった。二段目、三段目。私は祖父を探しているのだろうか。それとも単に、この不可能な階段の先を見たいだけなのだろうか。

背後で老婆の声がした。「階段の途中で振り返ってはいけません。自分の顔が水面に映ったら、それがあなたの顔かどうか、もうわからなくなりますから」

十段目あたりで、階段がわずかに脈動し始めた。まるで生きているかのように。そして気づいた。段差の側面に、無数の真珠が埋め込まれていることに。それぞれの真珠の中に、小さな人影が閉じ込められていた。

二十段目で、最初の降りてくる人とすれ違った。

彼の目は真珠色に光り、私を見つめたが認識していないようだった。彼の口が開き、潮の匂いと共に言葉が零れた。「1932年3月15日、私は五歳だった」それは私の祖父の記憶だった。私が知るはずのない、祖父自身の幼い日の記憶。

すれ違う人々は皆、誰かの断片だった。記憶だけを運ぶ、空っぽの器。

五十段目で、私は振り返ってしまった。

水面に映る私の顔は、少しずつ真珠色に染まり始めていた。そして私は理解した。この階段は交換の場所なのだと。誰かの失われた記憶と、昇る者の自己を交換する。祖父は自分の全てをここに残し、代わりに他の誰かの記憶を持って降りて行ったのだ。

それが、ブルームで時折目撃される「記憶の漂流者たち」の正体だった。

私はさらに昇り続けた。もう戻れないことを知りながら。最上段に何があるのかは誰も知らない。ただ一つ確かなのは、月の階段は毎月満月の夜に現れ、誰かを呼び、誰かを返すということ。

そして今夜も、ブルームの海岸で、真珠色の眼をした人物が一人、階段を降りてくる。その人物のポケットには、私の名前が書かれた古い手帳が入っているだろう。中身は全て空白の、新しい人生の始まりのために。

老婆は浜辺で待ち続ける。彼女もまた、かつて階段を昇ろうとして、途中で引き返した者の一人だ。目は見えなくなったが、代わりに他人の記憶が見えるようになった。昇りかけた者の呪いとして。

月は静かに輝き、干潮の海は次の階段を準備する。

誰も彼も、いつか誰かになるために。