奇妙な味の小説「欠けた肖像」
依頼主は電話口で何度も同じことを繰り返した。
「修復はしてください。でも、完成させてはいけません」
修復師の柏木は受話器を握ったまま、窓の外の灰色の空を見つめた。三十年この仕事をしているが、こんな条件は初めてだった。修復とは完成を目指す行為だ。それを途中で止めろというのは、医者に「手術はしろ、だが患者を治すな」と言うようなものだ。
「報酬は通常の三倍お支払いします」
依頼主の声には切迫したものがあった。柏木は溜息をついて引き受けた。妻が亡くなってから工房の家賃を払うのも苦しい。倫理観より空腹が勝った。
絵は翌日、黒塗りの車で運ばれてきた。梱包を解くと、十九世紀の肖像画だった。背景は深紅のカーテンと書斎。椅子に座る人物の姿勢、手の位置、衣服の質感――すべてが完璧に描かれていた。
ただ一つ、顔だけが塗りつぶされていた。
黒い絵の具が首から上を覆っている。まるで意図的に消されたように。柏木は拡大鏡で表面を調べた。塗りつぶしは元の絵より新しい。おそらく二十年以内だ。下には確かに顔があるはずだった。
作業は翌朝から始めた。まず黒い層を溶剤で少しずつ除去する。慎重に、慎重に。絵の具が剥がれるたびに、下から色彩の断片が現れる。肌色、眉の茶色、目の白。
三日目の夕方、奇妙なことが起きた。
昼休みに工房を離れ、一時間後に戻ってくると、顔の輪郭が前よりはっきりしていた。柏木は首を傾げた。午前中はまだぼんやりとした影に過ぎなかったはずだ。
記憶違いだろうか。彼は作業を続けた。
一週間後、顔はさらに明確になった。額の形、頬骨の高さ、顎のライン。だが柏木の手は震えていた。夜、一人で絵を見つめながら、彼は認めたくない事実に直面していた。
この顔は、自分に似ている。
最初は偶然だと思った。人間の顔のパーツは限られている。似ることもあるだろう。だが日を追うごとに、その類似は偶然では説明できないレベルに達していた。左眉の下の小さな傷痕。若い頃、転んでできた傷だ。絵の中の顔にも、同じ位置に同じ傷があった。
柏木は依頼主に電話をかけた。
「この絵は、いったい誰の肖像なんです?」
長い沈黙の後、依頼主は答えた。
「分かりません。記録は失われました。だから修復を依頼したんです。でも、完成させてはいけない。約束を守ってください」
「なぜです? 何が起こるんです?」
「知らない方がいい」
電話は切れた。
それでも柏木は作業を続けた。止めることができなかった。修復師としての本能が、あるいは別の何かが、彼の手を動かし続けた。目が現れた。鼻が現れた。口が現れた。
鏡で見る自分の顔と、寸分違わぬ顔が。
最後に残ったのは、右目の虹彩の一部だけだった。あと一筆で完成する。柏木は筆を持ったまま、長い時間動けなかった。工房の時計が深夜二時を指している。
依頼主の警告が脳裏をよぎる。「完成させてはいけない」
だが、なぜ?
柏木は筆を絵に近づけた。手が震える。その時、絵の中の自分の顔が――まだ完成していない、右目の虹彩が欠けた顔が――かすかに微笑んだ気がした。
いや、気がしたのではない。確かに微笑んでいた。
柏木は筆を置いた。冷や汗が背中を流れる。彼は後ずさり、壁にぶつかった。絵の中の自分は、今度ははっきりと目を動かした。欠けた右目で、こちらを見つめている。
その瞬間、柏木は理解した。
修復とは創造ではない。すでにそこにあるものを、明らかにする行為だ。彼が修復していたのは過去の肖像ではなかった。これから起こる何かの、予告だった。
絵の中の自分の口が開いた。無音で、何かを告げようとしている。柏木は唇の動きを読み取った。
「完成させろ」
彼は床に崩れ落ちた。翌朝、工房の鍵は内側からかかっていた。窓は全て閉じられていた。だが柏木の姿はどこにもなく、作業台の上には完成した肖像画だけが残されていた。
右目の虹彩まで、完璧に修復された肖像画が。
その絵を回収に来た依頼主は、ため息をついて絵を黒い布で覆った。
「また、誰かが完成させてしまった」
彼は独り言のように呟いた。
「次の修復師を探さなければ」
依頼主が去った工房には、床に一本の筆が転がっていた。その穂先には、まだ乾いていない絵の具が付着していた。虹彩を描くための、深い茶色の絵の具が。
そして翌日、別の街の画廊に、顔だけが塗りつぶされた新しい肖像画が現れた。背景は白い壁と本棚。椅子に座る人物の姿勢、手の位置、衣服――
すべてが完璧に描かれていた。
ただ一つ、顔だけが黒く塗りつぶされて。
