俺の双極性障害の歴史
双極性障害について本を書くといっても、どこから書いたらいいのかわからない。明日も双極性障害だし、今日もそうだ。昨日もそうだった。きっと10年後もそうだし、死ぬ時もそうなんだろう。そのことについては、あまり気にしていない。もう気にしなくなった。それは今が楽しいからかもしれない。
双極性障害と言われたのはいつだったか。初めて病院に行った時には病名は違った。なんだかよく覚えていないけど、あとで調べて書いておこう。上野のゆうメンタルクリニックという病院に行って、紹介状をすぐに書いてくれて、都立松沢病院に行った。そこではなんか説明した気がする。5W1Hで医者に説明していた。うまく話せないからだった。頭がおかしくなっていたからだ。頭がおかしくなったのはインターン先でいじめられていたから。付き合いの長かった先輩がいたベンチャーキャピタルで働き始めた時だった。そこで仕事ができなかったのか、なんだかよくわからないが居場所がなくなっていった。辛かった。自分が惨めなやつだと思った。辛かった。辛かったけど、我慢しようと思っていた。周りの目は怖かったけど、それは乗り越えるべきことだと思っていた。そうしたら急に頭がおかしくなった。しかし、少しずつ頭がおかしくなったのは大学に入ってからだった。もう少し遡ると、受験期にも週に一度くらいダメな日があった。なんのやる気も起きない日があって、そういう日はいつも塾に行く前にチャリ置き場として使っていたパチンコ屋の地下駐輪場の前で「ごめん!今日は無理な日だ!」と友達に言って家に帰って寝ていた。家では一切勉強できなかった。でも頭がおかしいのはその日だけで、次の日の朝から勉強していた。そんな感じで受験期もまあまあおかしかった。自分は「思考は現実化する」という本を読んで(実際に中身は読んでいないのだが)、自分の身の回りの参考書や目に見える家の中の場所(自室のドアやトイレ)に「自分、蛯名健人は2018年2月28日に早稲田大学政治経済学部に合格しました」と2017年時点で書いて回っていた。これが頭がおかしいことなのかは当時はわからなかったけど、今思うとおかしいなと思少しおかしいと思った。当時も正月の集まりに来た親戚のおばさんがその張り紙を見て、「健人くん合格したのね。」と言っていたのは素直に面白かった。剥がしておいてくれよと母親には思ったが、自分が剥がさないでくれと言った可能性が高い。当時は自己催眠が完全にかかっていたので、合格発表を携帯で電話をかけて聞くときに「なんで合格が決まっているのに今から確認するんだろう」と思っていたくらいにはおかしかった。実際合格していた。それほど驚かなかった。この話は大学に入っていろんな人にしたけど、あまりわかってくれる人はいなかった。まあそんな感じで昔から頭がおかしかったと言えばそうなのだけど、精神科に行く前はもっとおかしかった。上裸で土手に向かって歩いていた。家から5分くらいだろうか。なぜ裸かというと、寒いのかどうかが自分ではわからなかったからだ。5月くらいのことだったと思う。なぜ寒いと感じるのかわからないし、寒いかどうかってのはなにが決めているのかわからなかった。だから、脱いだ。そうしたら寒かった気がする。その時の様子を動画に収めていた。なんか自分の目で見ているものを信頼できなかったからだ。そのあと土手に言って橋の下で大声で叫んだ。「なんでわかってくれないんだよ!」と。率直な思いだった。なんでわかってくれないのかと思っていた。誰も俺のことをわかってくれないと思っていた。わかってくれさえすればいいのに、わかってくれない。だから叫んだ。叫びたかったので叫んでいた。多分その時も裸だったと思う。石とか岩を川に向かって投げていた。飛び込もうとは思わなかった。飛び込んでもいい気もするが、なんか中学の先輩が川で泳いで腹を壊したという話を覚えていたから飛び込まなかった。そうして、とりあえず家に帰った。その前後では自分の名前をコピー用紙に書いていた。自分が誰なのかわからなかったからだ。名前も国籍も知っているけれど、いや国籍はちゃんと確認したことなかったけど、たぶん日本国籍なんだろう。わかっていたけれど、理解できなかった。理解できなかったから、書いていた。でも書いていてもわからなかった。どんどん意味がわからなくなっていた。「意味」がわからなかった。「意味」ってなんなんだろうって思った。意味がなんなのか、というか言葉の意味がわからなくなっていたので辞書で調べていた。その時のことを母に聞くと自分のことを統合失調症だと思っていたそうだ。確かに、幻覚が見えているかどうか、誰かに監視されている感じがするかを医者に聞かれた気がする。監視されているかどうかはわからないけれど、自分が何者かどうかがわからなかった。自己というものが崩壊していた。崩壊というか、瓦解というか、溶けてなくなる感覚だった。辛いという感覚もなかった。ああそんな感じなんだなって感じだった。大変とかもなかった。なんかもうよくわからなかった。はっきりとした意識がなかった。はっきりとしたものがなにかわからなかった。目に見えているものはあるけれど、それがなんなのかわからなかった。自分というものが崩壊した今、なにを信頼していいのかがわからなかった。信頼という言葉などとうに消えていた。消えてしまっていたので探そうとも思わなかった。消えてしまったものは探せないけれど、まだ自分というものはどこかにある気がしていたので探していた。実際に自分は今存在しているし、体がここにあるからだった。体がここにあるということは存在していることだという逆説的な考えはあった。しかし、全て逆説だった。身体がそこにあるのなら、目に見えているものがあるのなら、聞こえているものや、身の回りにものがあるからから自己を確認するしかなかった。それで判断するということはとてもあやふやなことだった。あやふやなことにすがりつくしかない状況で、自分は精神科に行った。薬が出た。その日は母親と手を繋いでよく寝れた。次の日は夕方まで寝てしまい、このまま起きてこないのではと思ったと母が言っていた。
鬱
そこからは鬱だった。毎日がぼんやりとして、暗い、灰色の世界だった。これはよく言う話だが、本当にそうだった。暗いし、やることがない。これが苦痛だった。大学生ながら、現代版勤労学生として長期インターンに勤しんでいた自分にとってただ家で休むというのはなかなか難しいことだった。これくらいの時期にLINEを消した。スマホを見るのをやめた。なぜかわからないけれど、インターン先の上司である自分をいじめていた先輩からLINEが来たら死んでしまうと思ったからかもしれない。たぶんそうだ。これまでの友達を全て捨ててもいいと思うほど辛かった(結局母親やInstagram経由で友達との連絡先は復旧した)のだと思う。だからその期間は母親と父親と過ごしていた。姉もまだ家にいた気がするが、あまり記憶にない。頭は変わらずおかしかった。パンツ一丁で家の中を歩き回り、揚げ物に話しかけていた。何回言ってもお使いで母親の買って来て欲しいケーキを覚えられず、笑っていた。父親はそんな自分を恐れていた。だから一時は自分も父親のことが怖かった。でもそれも最初だけだった。母親に行ったことがない公園に車で連れていってもらったりした。自然に囲まれていると、落ち着いた。気がした。太い木を見つけて、てっぽう(お相撲さんみたいに張り手をすること)をしたりした。自分は木を倒せるか試していた。倒せなかった。車の中は安心した。誰も入ってこないからだった。母親は心配そうだった。あとはドラマを見ていた。「SPEC」が好きすぎて、まだ見ていないエピソードが減るのが嫌でとっておくって遊びを毎日していた。「ツレが鬱になりまして」にはだいぶ救われた。こうやって鬱はよくなるのかと思っていた。他にも鬱に関連する本はたくさん買っていた。でも、お金がなくなるのが嫌で、我慢していた。サッカー選手の本も読んでいた。あまり面白くなかった。双極性障害の双子の元サンフレッチェ広島の森崎兄弟の本はたくさん読んでいた。でもサッカーができるだけいいなと思っていた。毎日走っていた。走ることはいい気がしたけど、あまり外に出たくないのですぐ帰って来ていた。1日の充実感がなさすぎて辛かった。でも平和だとは感じていた。俗世から離れて暮らせるのはいいと思った。何か考えることが欲しかったけど、鬱くらいしかなかった。きっと鬱は良くなる。そう思いながら今日も北千住のブックファーストの芸能人のエッセイのコーナーを探していた。中身を見ては、鬱についての記述があるかどうか探していた。気分の落ち込みについて書いているのは結構あったけど、病院に行っている話を書いている人は少なかった。病院に行っている自分はやはり変なのかと思った。数週間に一度、ルミネのカフェでお茶をできる時があった。幸せな時間だったけれど、本は読めば読むほどこれからの楽しみが減る気がしてどうしようもなかった。この感覚はまだ残っている。好きな本はなかなか読み進められない。この時には自分が鬱について本を書こうなんて全く思わなかった。
横浜に行く
そろそろ半年の休学期間が終わる時、自分は友達を誘って遊びに行くと言い出した。説明を加えておくと、5月の頭に精神科に行って入院を勧められたが、それを両親が断り、医師の勧めで大学を休学することになった。その半年の休学期間が終わる頃、友達を誘って横浜に行くことにした。理由はわからない。中学のサッカークラブ時代からの友達のイトウと高校の先輩すみっきーだった。母親経由でLINEをもらい、自分が横浜で行われるサッカーの試合のチケットを取り、一緒に遊んだ。当日まで両親はひどく心配していた。1人での外出すらほとんどしていなかったからだ。コスモワールドに行った。子供が2人乗れるくらいのサイズのジェットコースターにすみっきーと乗り込み、水に落ちた。楽しかった。横浜FCの試合を見ているときに、横浜県警がいて、鹿島アントラーズのグッズを身につけている人に声をかけているのを見て、声を押し殺して笑っていた。その試合で鹿島アントラーズ(2人はこのチームのファン)の選手がオウンゴールをしたのだが、それをネットの掲示板で確認しているすみっきーが面白かった。それ以外に覚えていることはない。なんで半年間連絡が取れなかったのか聞かれたことはない。イトウからは最近連絡が遅い時に、「またデジタルデトックスしてるの?」と聞かれたことがあるのでそれを指しているのかもしれない。
大学に復学する
大学に復学した。大学に復学したらやらないといけないことは、対面で受ける授業だった。コロナの影響でほとんどオンライン授業だったのだが、自分はゼミを辞めていたので、その代わりの単位となる授業をとらないといけなかった。それはディベートの授業だった。面白くもつまらなくもなかった。みんなゼミに入っていないんだと感じて嬉しかった。ゼミに入らないことも許されている気がした。ゼミの先生はいまだに語尾に候をつける人で、学部の事務所でバカにされていた。しかし、ゼミを辞めるとメールで連絡したら「一度同じ釜の飯を食べた仲間ですから。」と言ってくれて感動した。心底感動した。こういうことを言える大人になりたいと思った。ディベートの授業はなんか変な人が多かった気がする。3年の後期と4年の前期に受けた。4年の9月に卒業した。大学についてはあまり書くことがない。死んだように毎回同じグローバルワークのカーキのカーゴパンツとUNIQLOの黒いパーカーを着て行っていた。隣の席の子が優しく話してくれて嬉しかった。自己紹介の時に「えびのことしか覚えられなかったよ。」と言ってくれた女の子がいて嬉しかった。あとは覚えていない。大学のキャンパスを歩いた記憶もあるけれど、授業を受けたらすぐに帰っていた。あとはバイトをしていた。長期インターンを始めた。3ヶ月後には家で泣いていた。怖かった。上司の顔が怖くて、上司の指摘が怖くてやめた。PCを貸与されていたので父親が返しに行ってくれた。事務をやってくれていたおばさんが心配してくれていた。上司の女性の方は頑張りすぎだとFacebookで言ってくれた。不思議と楽しい思い出が残っている。ランチで行った蕎麦屋でインサイドセールスの女性の方の息子が大谷になりたいと本気で言っている話。プロ野球選手になったら女子アナとだけは結婚してほしくない話。自分がトイレのパーテーションを壊した話。それを見てデザイナーの女性の方が脳筋なのかと質問された話。社長は自分が辞めた時、食事に誘ってくれた。石神井公園を一周しながら社長の父親の話を聞いていた。辞めてしまった時はやっぱり自分はダメなんだととても落ち込んだけど、辞められてよかったと思った。でもやっぱり、給与が上がることが決まっている定例面談の日にアロハシャツを着て行った話とか楽しい話ばっかり思い出してくるから不思議だ。
大学一年の時から働いていた
大学の時は一年生の時から働いていた。バイトは続かなかったので教育系のベンチャーで働いていた。高田馬場の雑居ビルで、働きたいなと思った次の日にオフィスに行ったらYouTubeの撮影中で社長に「道場破りかと思ったよ。」と言われた。何を言っているのかと感じたが、今思うとまあ少し連絡を入れるべきだったかと思った。でもそんな感じだったので、だいぶ可愛がられた。でも飽きてしまった辞めてしまった。辞めるときはなぜ辞めるのかと経営者の1人に言われて、わからなくなってしまい相手がサイゼリアでワインを飲んでいたので「酒を飲む人が嫌いなので。」と言ってしまい怒られた。でもその人のことは好きだった。その人も入社した時に大学の周りを散歩してくれた。小説を書こうと思ったが諦めた話をしていた。向いてないってこともあるんだよ蛯名と言ってくれた。なぜそれを俺に言ってくるのかわからなかってけど、本当は小説家になりたいんだなと思った。なればいいのにと今でも思う。こうして文章を書いていると自分にその才能はあるのかなと不安に思う。その人はすごい人だったからだ。そこでの思い出はたくさんあるが、最近その同僚が社員の人と結婚するので結婚式の二次会に招待された。よかった。嬉しかった。この会社に思い入れはたくさんあるのだが、最近潰れてしまった。経営ってのは本当に難しいんだなと思ったけど、二次会に集まるメンバーの絆は残っているので意味がないことはないんだなと思った。その会社では大学受験の指導をしていた。大学受験に悩む生徒たちに受験でうまくいく方法を毎週話すって感じだった。楽しかった。これほど楽しい仕事があるのかと思った。月に12万くらい稼いでいて、それが自分の生涯での最高月収となっている。一人暮らしも考えるくらいノリにのっていた。でもあまり成果は出なかった。蛯名先生みたいに自分はなれないですと言われたこともある。そこから自分は何か人を巻き込む力はあるけれど、それは危険でもあるんだなと思うようになった。自分の話をあまりしないようにしようと思った。社員の人には何か話そうと思ったら一度お茶を飲めと言われた。基本そういう時は話しすぎだからと言われた。確かにそうだと思った。でも若い自分にそれは無理かもなあと思った。楽しかったのはバイトのみんなとなんでもないことを話すことだった。隣のビルの地下にカフェがあり、そこで先輩と話している時にYouTuberのゆうこすみたいな人がいると先輩が言い始め、テンションが上がり、しかし違かった時に落ち込んでいた時は何を言っているんだと思ったが面白かった。そのカフェの無料券かなんかを配っていたので50枚くらいもらってきたら自分がヒーローになったかのようにちやほやされたので嬉しかった。そこで働いていた上記の最近結婚する同僚に蛯名みたいな人が社会で抑圧され、消費されていたら私はやっていけないと最近言ってくれた。本当に嬉しいなと思った。そういう人がいるから自分はこれまでやってこれたのだと思う。これはすごく最近の話なので当時一緒に働いている時は楯突いてくるめんどくさい女がいるなとしか思っていなかった。
大学時代
大学時代はあまりうまく行っていなかった。受験と比較してあまり楽しくなかったからだった。受験は楽しかった。しかし、大学は楽しくない。このことを不思議に思い、悩んでいた。新歓コンパの帰りに、何を目的にみんなは大学に来ているのだろうと本気で思っていた。結局姉がいたサークルにコネで入れてもらい、居候していた。なんとなく楽しかったが辞めた。異常が出ていたのもこの頃だった。夏休みに行った家族でのハワイ旅行のホテルで寝ていた。昼間に。なぜかはわからないけれど、日々努力していない自分には羽根を伸ばす権利はない気がしていた。しかし、次の日はH&Mで3$で買ったサングラスをつけてプールで撮った写真が残っていたので気分屋なのだとしか思わなかった。振り返るとあの時から鬱だったと母は感じていたそうだ。それからはなんとなく頑張っていた。けれど、大学2年の後期に明確に大学に行けない日があった。理由は分からなかった。基本的には怠惰だからだと思っていた。行けない日はベッドで寝ていた。母親も父親も朝早く家を出るので、大学に行っていないことはバレていないと思っていた。7単位落としていた。それまでフル単だったので自分としては驚いていた。その次の4月にコロナが来て、大学の始まりが遅れ、5月に冒頭の事件が起こった。時系列はめちゃくちゃだがとりあえず書いていく。このあと鬱の期間があり、大学に復学した。まだ気分は澱んだままだった。インターンもうまくいかず、そろそろ就活かと思ったけど、なんとなくバイトを探していて、結局近くの私立中学で補習のサポートをする民間企業でバイトを始めた。なんとなく楽しかった。そこは学年で下から30番目くらいの子たちを集めてプリントをやらせて、終わった人から帰れる感じだった。すごく居心地がよかった。他の大学生の先生は手を焼いていたけれど、まあこれくらいいいかなと思っていた。別に生徒が早く帰ろうが残ろうが自分には関係ないのでどうでもよかった。勉強を教えるのは好きだった。これ以来自分は5年以上塾講師をしている。そういえば病気になる前も塾講師をいろいろなところでしていた。雰囲気は私立中学の落ちこぼれの集まりみたいな感じなのだが、まあそれでも中一なので小学生から上がったばかりでまだ子どもって感じだった。そりゃすぐ中学生になって勉強しろと言われてもできないよなと思っていた。でもきっとこの子たちは受験勉強をしてきたのだよなとかも思っていた。話を聞いてみると、AO入試みたいなものもあり、そういう入試で入っている子たちは馬鹿にされているようだった。馬鹿にする風潮はよくあった。いつもシャーペンを銃に見立てて打っている子がいた。その子はあとから聞いたら転校したらしい。不思議とそこで出会った子と違う塾で出会ったりしている。印象に残っているのは体が小さく、周りから馬鹿にされている子だったりした。一生懸命勉強していた。でも毎回その補習のクラスにいたので結果は出ていないようだった。中1の子の補習を担当する。これまた俗世とは関係なくて嬉しかった。そろそろ就活をしないとなとか思っていたけど、子どもと話している時間はとても楽しかった。かけがえのない時間だったと今は思う。当時はそんなこと思ってなかったけど。このバイト先でも飲み会をやったり、終わった後のミーティングで面白いことがあった。あるうっかり屋さんの先生が、他の先生のことをその中学の教員と間違えて接してしまい大笑いしたことがあった。面白かったのは教員と間違われた人が「俺そんなに老けてるかな。」と心配していることだった。気にしすぎなくていいよと思ったけど、言わなかった。うっかり屋さんは世界を救うなあと思った。珍しい名字の人がいたので聞いたら小学校の同級生のいとこだった。東大だった。すごかった。東大の人は大好きだ。勉強が大好きな人が大好きだからだ。みんなそうじゃないのかもしれないけど。勉強が大好きな人ともっと仲良くなりたいな。そう思った。
お金の勉強
お金を勉強している。何を急にと思ったかもしれないが、なんとなく書くべきな気がするので書く。勉強が大好きだ。正直ずっと勉強していたいと思っている。勉強しているだけでお金がもらえたらと思うけれど、自分のしたいように勉強して、自分のしたいように話したり書いたりする仕事はどうやら作家と言われているようなのでそれになろうとしている。作家になりたいと思ったのは2025年の12月のことだった。
お金の勉強の話だ。お金について勉強している。今は日経新聞を毎日読もうと思っている。まあそれくらいのレベル。勉強についての話が書きたかった。自分は勉強するのが好きだった。とりあえず何かについて勉強するのがよかった。どのジャンルでもその時興味のあることだったらなんでもよかった。今は図書館に通っている。二週間に一度20冊借りてきて、読んでいる。そういえば上記のインターン先の先輩(以降ピロさんと呼ぶ。ヒロさんと呼んでいたが、少しポップに)はそれと同じことをして、卒論のゴーストライターをしていると言っていた。なかなかいいお金をもらっていたらしい。自分もお金を稼ぎたい。そもそもピロさんにはとても良くしてもらっていた。毎週のように話して、お茶を奢ってもらっていた。たまにケーキも。よく話してくれた。ピロさんの話はどの話も面白かった。大好きだった。だから裏切られたのは悲しかった。裏切られたのかは分からない。正直に言うと、そのピロさんも忙しすぎて辛かったのだと思う。それで後輩に当たるのは未熟だなあと思うけれど、世界はそうやって成り立っているのでしょうがないと思った。自分はそれで精神科に通うことになったのだからたまったものではない。精神科に行くようになってから、2年後くらいだろうか、どこからかLINEをもらったピロさんが自分にメッセージを送ってきた。
「えびちゃん。以前はごめん。自分のシャドーに向き合っている最中で当たってしまいました。」
みたいな内容だったと思う。スタバのチケットも添付されていた。シャドーというのは自分もピロさんもハマっていた心理学の用語で、自分の影、つまり向き合わなければいけない心理的な課題みたいなものを指す言葉だった。つまり、自分の課題に向き合う最中だったのでえびちゃんに当たってしまったことを申し訳なく思うというLINEだった。俺はまだそんなこと言ってるのかと思った。シャドーがどうだとか。この言葉を使うのは嫌いだけど、れっきとした厨二病だと思った。人に謝罪する時にカタカナを使うのはなんと無礼なことかとプンプンしながらスタバのチケットを使って既読無視した。今は福岡にいるらしいので、気が向いたら遊びに行ってやろうと思っている。しっかり謝ってもらおう。
