なぜ「周縁の声」を聞く必要があるのか——「思いやり」のためではない
昨日、今参加している移民女性支援団体が主催しているコースの中で、心に響く時間があった。
「あなたのボランティアのモチベーションは何ですか」というテーマで、他の国から来た女性たちの声を聞く機会があった。
普段の授業では静かなタイプの女性たちが、「カナダでは、自分でも参加できるチャンスがある。積極的に社会と関わりたい」といったことを、熱く長く語っていた。
私は聞きながら、社会とつながる機会があるということそのものが、喜びなのだと、輪郭のある声として響いてきた。
ある女性は、「母国では試験に合格しなければ、役に立てることがあってもそれを人前で行うことが許されなかった、でも、カナダではできそうだ、手を挙げていきたい」という話をしてくれた。
公的機関からの許可がないと、やりたいことができない悔しさは、日本から来た私にとっては「どこに所属しているか」による振るい落としのシステムの悔しさと通じるものがあり、深く共感した。
私はこの時間、ずっと聞く側で、移民女性の声から受け取れるものは、母国の重たさでもあり、新生活での希望でもあり、その言葉に加えて、表情やその場の女性同士が共感し合うその雰囲気は、胸に迫るものがあった。
私は、コロナ中、ディスタンスラーニング(日本に滞在しながら)で、イギリス・ランカスター大学院の教育と社会正義の修士コースで研究をした。
ここで、「社会正義のための方法論」を学んだのだけれども、そこで繰り返し教わったのが、「周縁の声を聞く」ということだった。
そこで始めたのが、オンラインでの「女性の声・プロジェクト」で、今でも続いている。そして、今回、移民女性の声が響き合う空間にいたことで、周縁の声があぶりだすものがいかに社会的なものなのかを、はっきりとした輪郭を持って分かったような気がする。
日本の社会構造は、空気が支配していて、誰が周縁にいるのかが見えにくい。ただ、移民女性の声を聞いて、日本にもはっきりと分かりやすいこととして言えることがあると気がついた。
日本の社会では構造的に、名のある人(男性)、中心に近いところに所属している人(男性)には、見えていないことがおどろくほどたくさんある、ということだ。
その人たちが見えていないことを言葉にするその口をふさがないこと。
代表性がないと無視するだけでなく、見下したり、生意気だ、わがままだ、という言葉で、中心にいない人たちが言葉を作ろうとするのを邪魔しないこと。
また、中心が上で周縁が下、でもない。すべては水平で、今この時代に中心にいるのか、中心から遠いのか、そういう見方の話でもある。
だから、「周縁の声を聞く」というのは、多様な声を拾おうという配慮の話でもなければ、「思いやり」といった学校道徳的な話でもないし、施しでもない。
その社会にあることがどれだけ「見えているか」の問題だと考えてみたらどうだろう。周縁にいる人の声から浮かび上がる社会の側面があって、それは「見えている」状態にしていくべきものでもあると思うのだ。
ただ、日本にいると「周縁」があること自体が見えにくい。私は、「女性の周縁性」を主に扱っているが、日本の女性が制度上は平等であるにもかかわらず、空気として中心から排除されているという構造は見えにくい。おそらく、構造的に、他の「周縁」にも同じことが起きているだろう。
だから、分かりやすいこととして、「日本の、名のある男性、中央に所属している男性には、見えていないものがたくさんある。」というのを知っておくのが社会を広くクリアに眺めるための助けになる。
そして、ずっと当たり前のこととして続いてきた「名のある人の声だけ、大きな組織に所属している男性の声だけが届く。中心が一点しかない社会」を再考すべきものととらえて、中心軸が複数ある社会に変えていかなければならないと考える人が増えれば、暮らしやすい、息がしやすい社会になるのだと思う。
